水鏡に映して-6

実らない恋

「……行っちゃった」
 見えなくなってあたしがつぶやくと、紗琴は深く息を吐く。あたしは紗琴の手を握り返して、「大丈夫?」と覗きこんだ。紗琴はぽろぽろと幾粒か涙を落としていた。
「紗琴──」
「気持ち悪い、って思われたかな」
「………、てか、あいつ変なこと言い触らさないよね」
「分かんない……」
 すぐ後ろに並んでいるカップルの男のほうが、露骨に紗琴を眺めるので、あたしはそいつをひと睨みしておいた。「ほらー」とかささやく女も女だ。何が『ほら』なのだ。まるで、あたしや紗琴がいけないものみたいに。
 少し列が動いて、あたしは紗琴の手を引く。
「いったん、外れて落ち着く?」
「……また並んだら大変だよ」
「だけど」
「大丈夫。……どっちみち、はっきりしなきゃ茉莉に迷惑かけてるだけだったから。よかったんだよ」
「あたしは──」
「佐内くん、何となく、言い触らしたりはしないんじゃないかな。意外としっかりしてるみたいだし」
「そう、かな」
「うん。ごめんね、ずっとあいだにいさせて」
「あたしはいいけど。何かあれば、すぐ言ってね」
 紗琴はこくんとした。それからあたしと手を離すと、少し無理をして明るく話しかけてきた。あたしはそれに応えながらも、せめてあの弟さえいなきゃごまかせてたのに、とまだ滲む不安に視線を落とした。
 それから一週間くらい経って、三学期が始まった。あたしと紗琴は、言いようのない黒煙を感じながら登校した。「おはよー」の中に「おめでとー」も混ざる朝陽の中で、周りの制服すがたの子たちを警戒する。
 でも、校門を抜けても、靴箱を通っても、好奇の目やずうずうしい問いかけは投げられてこなかった。教室までの廊下で目を合わせたあたしと紗琴は、どうやら、佐内くんが口外していないことを恐る恐る認めた。
 紗琴が教室に入るのを見守ると、「はよー」と秋葉くんが話しかけている。その秋葉くんにも、何かを聞きつけた様子はなく、「おはよう」と紗琴もほっとした様子で返す。その光景にあたしも安堵して、佐内くんに一応感謝しながら自分の教室に向かった。
 それから二、三日はまだ注意していたものの、紗琴に関しておかしなうわさが持ち上がることはなかった。佐内くんがあたしに話しかけてくることも、同時になくなったけれど。そこを薄情だとまで言っていたらキリがないから、これでよかったのだろう。
「ちょっと怖いけど」と紗琴は久しぶりに女の子のすがたになって、化粧をしながら言った。
「『怖い』?」
「趣味、とか思われてるんだよね。たぶん」
「……うん」
「佐内くんには、女装の変態とか思われてるのかもしれない」
「思われたない?」
「説明聞いてくれるなら、しておきたいけど。そんな簡単に理解されるものでもないよね。何というか、男に生まれたけど中身は女の子だとか」
 紗琴はちょっと哀しそうに咲ってから鏡を覗き、ローズのアイシャドウをブラシでぼかす。
 あたしはベッドサイドに背中を預けて、ポップイエローのマニキュアを塗っている。眉も整えて桜のルージュで化粧を仕上げた紗琴は、あたしの隣に並んだ。そして、ふたりでたくさんの色を集めているマニキュアから、ラズベリーを選んで爪に乗せていった。
 支度が終わると、今日も見計らって団地を出た。「この格好で歩くの久しぶりだね」と紗琴は寒風に髪を抑え、「もう佐内くん気にすることないから、またたまに出かけよう」とあたしは微笑む。
 そうしてふたりで女の子を満喫しているうちに二月になって、学期末考査にうんざりするばかりになっていると、席替えで思いがけずバレンタインを思い出すことになった。なかなか近い席になることがなかった暮村くんが、あたしの斜め前の席で、初めて同じ班になったのだ。
 思わず次の休み時間に教室を飛び出して、隣のクラスの紗琴に報告して、ふたりしてどうしたらいいのか慌ててしまった。
「バレンタイン、頑張ってみようよ」
 帰り道、紗琴はそう言ってあたしを励ました。「もう二週間もないよ」とか言ってしまうと、「今度の日曜に一緒に選びにいこう」と紗琴はめげずに応援する。
「でも、同じ班になっても、会話はなかったんだよ」
「これからある確率は高いでしょ。ちゃんと伝えたほうがいいと思う」
「迷惑じゃないかな」
「茉莉のこと見てたんでしょ」
「ただの自意識過剰に思えてきた」
「じゃあ、このままクラスが別れて忘れるってできるの?」
 紗琴を見た。紗琴は真剣に見つめ返してくる。
 このまま、クラスが別れたら。変にこじらせて、引きずりそうな気もする。分からないけど。
 もっと惹かれる男子が新しいクラスにいたら? すぐそばで見た、暮村くんのさらさらした髪や落ち着いた横顔を思い返す。それより魅力的な男子──なんて。
「じゃあ、今度、一緒にチョコレート選んでくれる?」
 あたしがゆっくりそう言うと、紗琴は笑顔でうなずいて、「頑張って」と言った。
 そんなわけで、週末には隣町のあのモールに出かけた。こちらのほうが少し高くても綺麗なチョコがある。紗琴もこういうものは見ていて飽きないのか、いろいろ手に取って見ていた。派手なのはあげづらい。シンプルで食べやすい奴、と思っても、そういうもののほうが高かったりする。派手なのは友チョコ用って感じだなあ、と思い、よく考えれば紗琴にもあげたいのでひとつキープしておいた。
 そして暮村くんには、トリュフが九つ入った正方形の箱のチョコにした。帰りの電車で「友チョコいい?」と木の実をかたどったカラフルなチョコをさしだすと、「実は」と紗琴も猫が描かれたチョコをさしだしてきた。あたしたちはちょっと咲って、それを交換し、「あとは暮村くんだね」と言った紗琴にあたしもどきどきしながらうなずいた。
 二月十四日、あたしはかばんの中のチョコレートばかり意識して過ごした。暮村くんはやっぱりいくつかチョコをもらっているようだった。いつ誰にもらったのかは分からなくても、もらったものをかばんにさりげなくしまっている。
 受け取ってはいるのか、と思いつつ、どうしても切っかけが分からない。席が近くなって、逆にますます目も合わなくなっている。
 昼休み、紗琴に「渡した?」と訊かれて首を横に振った。
「当日に渡したほうがいいよ」
「そうだけど。今日初めて話しかけるって、けっこう勇気いるんだから」
「今日逃したほうが、もっと勇気いるかもしれないよ」
 めずらしくあたしが励まされながら、そうだよなあ、と紗琴と廊下から暮村くんの席を見やる。暮村くんは特に誰と話すこともなく、本に目を落としている。「今なら誰とも話してないよ」と紗琴に言われて、「今?」ととまどったときだった。
 不意に持ち上がった暮村くんの視線が、こちらに来た。かちりと目が合って、思わず肩がこわばる。その肩を紗琴にとんと押された。あたしは深呼吸すると、よし、と足を踏み出した。
「あ、あの」
 ざわめくクラスメイトを縫って、暮村くんの席のかたわらで立ち止まった。暮村くんの静かな色合いの瞳があたしを見上げる。合わせて前髪がさらりと揺れる。読んでいたのは小説みたいだった。
「何?」
 高くはないけど、まだ低くもなりきっていない声に、どきどきと心臓が苦しくふくらむ。暖房がかかっていても寒い教室のはずなのに、軆がゆだるように熱くなって意識が溶けそうになる。
「その、えっと……ね」
「うん」
「初めて、話すよね」
「そうだね」
「なのに、変とか思うかもしれないけど。あの……暮村くんに、チョコを、あげてもいい?」
「え」
「班が同じとか、……そういう、義理ではなくて」
 暮村くんは何度かまばたきをしたあと、「構わないけど」と口ごもりながら答える。ほんと、と意気込んで言おうとしたあたしに、「ただ」と暮村くんはやや躊躇ってから続けた。
「僕に好きな人がいてよければ」
「えっ」
「何というか、期待されても応えることはないよ。僕もその子とつきあってるわけじゃなくても」
「好きな……人」
 教室の雑音が絶たれて体温が蒼くなる。速かった心臓が今度はぎゅっと止まったのが分かった。
「気持ちは嬉しい。でも、やっぱりその人しか考えられないから」
「そ、そう、なんだ……。うん、その──受け取ってくれるだけでも」
「いいの? 何か悪い──」
「つ、伝えるだけ、しておこうかなって。もうすぐクラスも変わるし」
「……そっか。ごめん、せっかく言ってくれたのに」
 頭が冷たく真っ白なまま首を横に振って、すぐそばの席のかばんから赤い包装の箱を持ってくると、暮村くんのつくえに置いた。
「ありがとう、聖園さん」
 暮村くんはあたしを見て優しく微笑んだ。あたしはそれに、引き攣りそうなのをこらえた笑みを返した。
 ダメだ。ここで暮村くんを責めちゃダメだ。嫌味を言うのも、なじるのもダメだ。あたしを見てたのは何だったのなんて、言ってはいけない。
 何を言っても、どんな言葉も、もうそれは全部、暮村くんの好きな人への嫉妬に過ぎない。
 でも──こんなの、最悪だ。こんなことなら、さっさと伝えて振られておけばよかった。中学一年生を不毛な片想いに費やしてしまった。あるいは、伝えずにクラス替えでフェードアウトして、何事もなかったことにして忘れてしまえばよかった。
 教室のドアのそばにいる紗琴を見た。見ているだけでは分からなかったのか、紗琴はあたしを見守っていた。でも、重なった目でやっと気づいた色を見せる。
「いつも一緒にいるね」
 ふと暮村くんの声がしてはっと視線を戻す。
「えっ──」
「聖園さんとあの人。よく仲良さそうにしてるから」
「あ、ああ。その、幼なじみで」
「そっか」
 暮村くんは伏せていた本を開き直した。「じゃあ」とあたしが言うと、暮村くんはこちらにうなずいて咲う。立ち尽くしそうだったあたしは、何とかその場から足を動かし、紗琴に駆け寄った。
「茉莉、」と心配そうに言った紗琴の手を引いて、廊下に散らばる笑顔や話し声を突っ切っていった。廊下の突き当たりに来てしまって、やっと止まったあたしは紗琴を振り返る。
「茉莉──」
 紗琴が、どんな顔をしていたかは分からない。視界はすっかりあふれてぬかるんでいた。頬がひりひりと濡れていく。
 自分でも驚いた。ここまでこみあげるほど、暮村くんが好きだったのか。いや、単にうぬぼれていたせいかもしれない。裏切られたような気持ちが痛い。あたしが思い上がっていただけで、暮村くんは何もあたしを傷つけたりしていないのに。
 紗琴はあたしをじっと見つめていたけれど、ふと丁寧にあたしの肩を抱いた。
「何で、恋ってうまくいかないんだろうね」
 そうつぶやいて頭を撫でてくれる紗琴にしがみついて、声を必死に殺して泣いた。五時間目なんかもうどうでもいい。今はこの絶対に信頼できる親友のそばにいたい。
 ぶあつい制服越しにその体温を感じ、それでもあたしは、紗琴が男の子だったらよかったのにとかは思わなかった。

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