水鏡に映して-8

真実の涙

 梅雨が明けて、期末考査が終わると夏休みが近づいてくる。紗琴はよく、あたしに謝ってから佐内くんと過ごすようになった。ずっと一緒だったから少し寂しくても、紗琴が秋葉くんの傷をそれで忘れられていっているのなら仕方ない。
 あたしはぜんぜんダメだなあ、と授業も聞かずに頬杖をつく。暮村くん。もうクラスも違って、毎日どう過ごしているのかも分からない。三年でもクラスが違えば、きっとそのまま、一生他人だ。なのに、たまに出逢っていた瞳の色が忘れられない。まだ好きだというより、忘れられない。
 何であたしダメだったんだろ、なんてくだらないことに悩みはじめても、きっと答えをもらえることはない。佐内くんと咲う紗琴を見て、いいなあ、なんて思うようにもなっている。
 その日も紗琴は佐内くんと帰るということで、あたしは「彼氏を男に盗られんなよー」とか揶揄ってくる友達と廊下を歩いていた。「紗琴は彼氏じゃないし」と返しながら靴箱まで降りてきたのに、今日使ったから洗濯しようと思っていた体操服を持っていないことに気づいた。「待ってるよ?」と友達には言われたけど、「先行っといて」とあたしは教室に駆け戻っていった。
 教室にはまだ生徒が残っていて、さいわい鍵の手間もなかった。体操服のふくろをつかんで、さっさと教室を出る。まだ追いつけるかなと思って駆け出そうとしたときだった。「聖園さん」と声がして、はたと立ち止まった。振り返って、どきっと目を開く。
「ごめん、急いでたかな」
 そこにいたのは、一瞬信じられなかったけど、暮村くんだった。つい動揺のまばたきが止まらない。ぎこちなく息を飲んで視線をとまどわせると、暮村くんはあたしの隣を見てから、「いつも仲良くしてた人……」と何やら言葉に迷う。
「え……あっ、紗琴?」
「最近、一緒じゃないね」
「男の子の友達ができて、そっちが楽しいみたいで」
「そうなんだ。……あの、それってもしかして、佐内?」
 窺うように言ってきた暮村くんに、あたしは首をかしげた。
「佐内くんのこと、知ってるの?」
「一応。小学校が同じだったんだ」
「そうなんだ。え、もしかして友達?」
「いや、違う」
 どこかきっぱり言い切った暮村くんを見つめると、気まずそうに暮村くんは続けた。
「その──佐内には、もう昔のことかもしれないけど。佐内って、小学校のときイジメをしてたんだ」
「えっ」
 思わず間抜けな声をもらして、目を開いた。
 イジメ? 佐内くんが?
「僕は佐内に、友達を不登校にさせられたんだよ。だから、いまだに友達を持っても離れていくんじゃないかって怖くて、中学では何かいつもひとりなんだけど」
 一年生の暮村くんを思い返す。確かに群れることがない人だなとは感じていた。友達が不登校。そんな事情があったのか。そして、その原因が──佐内くん?
「聖園さんには、そんな気持ち知ってほしくないから」
「……あ、」
「お節介でごめん。ただ、佐内には気をつけて」
 そう言うと暮村くんはあたしの横を通り過ぎていった。
 イジメ。不登校。本当に?
 いや、暮村くんが悪戯に嘘を伝えてくるとも思えない。どうしよう。どうすればいいのだろう。たぶん、暮村くんは紗琴が危ないと言いたかったのだろう。あるいは、佐内くんにはそれは昔のことで、紗琴のことは友達と思ってくれているの?
 そばの窓から、強い陽射しが頬を照らしてきている。浅い息遣いが妙に胸に名残り、軆が汗ばんでいくのが分かった。人気がなくなって静かになって、物音が遠くなる廊下で、あたしはうつむくしかできなかった。
 紗琴に、伝えるべきなのだろうか。けれど、そんなことを知ったら紗琴は傷つく。傷つけても教えるべき? そうして、紗琴と佐内くんをぎくしゃくさせるの? そうしたほうが逆にイジメにつながらない?
 何も知らない紗琴だから、佐内くんが友達にしているのだとしたら。言えない。でも放っておくこともできない。あたしが気をつけるしかない。そう、今までみたいにあたしが紗琴を見守ればいい。紗琴には何も言わない。
 しかし、そのまま学校が続けばよかったけど、夏休みになってしまった。こうなるとさりげなく見守るも何もできない。紗琴はあたしに会うこともなく、たいていは出かけていた。
 リビングでひとりで氷を浮かべた麦茶を飲んでいて、おかあさんに「今年は紗琴くんとは喧嘩?」とか言われても、「別に」としか言えずにソファに沈みこんでいた。テレビに映るワイドショウは、夏休みに増加する若者の非行を特集していた。座卓に置いたスマホも鳴らなかった。
 早く夏休み終わって、と膝を抱えて祈った。やっぱり暮村くんが教えてくれたこと言おうかな、と焦る夜を何度も過ごした。なかなか返事が来ないと思うとメッセも通話もしづらくて、何日会っていないのかも分からなくなってきた。
 そんなのは初めてだった。いつも一緒にいたのに、こんなにあっさり気まずくなるのか。いや、あたしが勝手にひとりで気まずくなっているのか。あたしが家を訪ねて部屋で待っていれば、さすがに夜は帰宅しているだろう紗琴は、普通に咲ってくれるのかもしれない。
「ちょっと紗琴のとこ行ってくる」
 考え事で頭が酸欠になって、耐えきれなくなった八月が終わりそうな夜、あたしは不意にリビングのソファを立ち上がった。「気をつけてね」と背中にかかったおかあさんの声には適当に応えて、素足にスニーカーを履く。
 家を出て階段を降りると、棟の前で子供たちとその親が花火をしていた。この時間になっても、むっとした空気がアスファルトから匂い立っている。月がまとう夏の星は華やかに輝いていて、あたしは紗琴の家がある棟に急いだ。
 やっぱり、無理だ。隠しているからだ。隠しごとをしているから、紗琴に遠慮なくメッセも通話もできないのだ。会うことすら気まずく感じている。これまで、あたしたちは何でも打ち明けあってきた。だから一緒にいられた。
 ちゃんと紗琴に話そう。紗琴が信じられないと泣いたら、あたしがそばにいればいい。
 たどりついた紗琴の家につながる階段の入口を見やった。そしてはっと身をすくめた。まだ棟の物影が近かったので、思わず隠れてしまった。
 そこには紗琴と、金髪に戻った佐内くんがいた。でも、陰ってよく見えない。話し声も聞き取れない。
 けれどそのとき、ゆらりと夜風が抜けた。車道との間に並ぶ木がざわっとささやいて、月の光が射しこむ。葉の影が揺らめく中で、影は重なっていた。「佐内くん」という紗琴の声は震えて泣きそうで──はっきりと女の子の声だったから、それ以上聞くのが怖くて、あたしはさっと身を引いた。
 冷たい壁に背中を当て、ため息を口を抑えて殺して、しゃがみこんだ。気をつけてと言った暮村くんの声がよぎった。なぜか頭がくらくらしてくる。
 何で。どうしてこんなに不安なのだろう。黒い靄がかきたてられるのだろう。佐内くんは「知って」いる人ではないか。紗琴を女の子としてあつかってくれる男の子なんて、あたしも嬉しいはずだ。なのに、死神の気配がそばに立つように無性に怖い。
 だって、紗琴のあの声は──
 じゃり、と不意に靴底がアスファルトを踏む音がかたわらで止まった。びくっと顔を上げて、そこに佐内くんのすがたを認めた。視線がきつく縛られた。
 何か言って、と思った。お願い。いつもみたいにずうずうしいことを言って。そしてもうそんな人ではなくなったんだってほっとさせて。でも、佐内くんは何の反応も見せず、背を向けて行ってしまった。
 ……ああ、あたし、ビビって何をしてたんだろう。
 紗琴の抑えた嗚咽が朦朧と聞こえてくる。さっき、紗琴の声は女の子だった。確かに佐内くんといるあいだ、紗琴は女の子としてあつかわれているのだろう。でも、あの声音でそれが尊重ではなかったのが分かったから、あたしはこんなにも怖くなったのだ。
 そう、紗琴は佐内くんに「強要」されてる。「女」を強いられて、昔イジメで人を傷つけたあの男に──ひどいことを、されてる。

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