水彩の教室-4

探していたのは

 すずめがさえずっている朝、ベッドサイドに腰かけてジーンズに脚を通していると、昨夜ベッドを共にした茉佑子まゆこという女が、はだかのまま背中に抱きついてきた。
 柔らかく温かい乳房が、剥き出しの上半身の背中に押し当てられる。「どこか行くの?」と耳を食みながら訊いてきた茉佑子は、「友達と出かける」と俺が答えると、不謹慎に噴き出した。
「何だよ」
 目を眇めて一瞥すると、「だって」と茉佑子は紫色のマニキュアの手で俺の頬を撫でる。
「友達って。どうせ女でしょ」
「男だよ」
「へえー?」
 茉佑子は緩いウェーヴの髪を流し、おかしそうにくすくす笑う。
「美歳って男もいいんだ、やっぱり」
 俺は舌打ちして、「よくねえよ」と茉佑子の腕の中を抜け出してベッドを立ち上がる。
「友達っつってんだろ。家出るから、お前も服着ろ」
「えー。帰ってくるまで待ってる」
「ふざけんな。俺はそういうことしねえんだ」
「じゃあ、その待ち合わせ相手のところまで一緒に。いいでしょ。ぎりぎりまで離れたくないの」
 俺は顰め面をしたものの、答えずに浴室に歩いていった。何でだろう。ほとんどの女は、朝に男とさっぱり別れるということができない。
 あの女だって、俺が女に対してどういう態度を取るかは承知しているのに。それでもしなだれかかってくる。鬱陶しい、といらつきながらジーンズを脱ぐと、裸足にひやりとするタイルに踏みこんだ。
 女に対して、どういう態度を取るか──か。ひねり出した熱湯を浴びながら、かすかに嗤った。あんな態度を取らなくていい女を探しているのは、俺なのに。何だか、もうそんな出逢いはあきらめきって、いらいらして。我ながら矛盾している。
 俺がシャワーを浴びているあいだ、茉佑子は勝手にキッチンをあさってフレンチトーストを作っていた。彼女は大学生で、ひとり暮らしをしているらしいので、料理くらいは当たり前か。
 テーブルに頬杖をついて、目も合わせなかったが、それでも俺が用意したものを食っただけで茉佑子は機嫌がいいからよく分からない。いや、「友達とどこに行くの?」という質問にうっかり「どっかの高校の文化祭」なんて正直に答えたせいかもしれない。「何それ、おもしろそう」と茉佑子は興味を示して、シャワーを浴びたあと、やけに念入りに化粧をしていた。
「俺が友達と合流したら帰るんだよな」と確認してもはぐらかされるから、嫌な予感はしていた。前もって聞いていた高校の最寄り駅で雪弥と落ち合うと、「あたしも行きたいのっ」と案の定茉佑子は言い出してきた。「俺は構わないけど」と雪弥は同情する目で俺を見て、俺は観念したため息をつくと、無言で茉佑子を引きずって「で、どっちだよ」と雪弥に道案内を頼んだ。
 俺たちの高校の文化祭がしけているので期待していなかったのだが、いざ目的の高校に着いてみるとかなり人でにぎわっていた。クレープ、たこ焼き、豚汁まで、涼しい秋風にいい匂いがただよってくる。
 昼飯は普通にここで食えそうだな、とか思っていると、ふと雪弥の名前を呼んで駆け寄ってきた男子生徒がいた。例のバンドのメンバーらしく、その人は「今日はありがとうございます」と俺にも声をかけてくる。
「知り合い?」と茉佑子が俺を見上げ、「雪弥の友達」と俺は周りを見渡しながら答える。友達のグループ、家族連れ、もちろんカップルもたくさんいる。俺もこの女と恋人同士に見えているのか。それじゃ女も引っかけられねえじゃん、とうんざりしていると、「美歳」と雪弥が声をかけてきた。
「人手足りないらしいから、俺、ちょっとこいつらの裏方手伝ってくるわ」
「そうなのか。じゃあ俺も──」
「美歳はあたしが楽しませておくから、行っておいでー」
「は? 別にそんなの、」
「ライヴの前にまたこのへんで会いましょ」
「えと、美歳──」
「いいからいいから。ねっ」
「あーっ、もう、ごめん美歳っ! ライヴ十四時からだから昼飯は一緒に食おうっ」
「え、ちょっ──」
 引き留めようとする俺に謝りながら、雪弥は友達に引っ張られて人混みで分からなくなってしまった。
 どういう最悪だ、これ。昼飯は一緒に、ということは、今が十一時だから一時間か、長くて二時間だけなのだろうが。それでも、まったく知らない場所で、まったく興味の失せた女と過ごせって──くそっ。これは貸しだからな、と舌打ちした俺は、仕方なく茉佑子と文化祭を見てまわった。
 模擬店はたくさんあるのに、くだらないと思っていた自分の高校の文化祭のほうがマシに思えるくらい、茉佑子のテンションのせいでつまらなかった。ひとりでぶらつく感じなら楽しめたのになあ、と思っていると「十三時からランチタイムやりまーす」とすれちがいざまの生徒にチラシを渡された。
 文化祭での定番、喫茶店のひとつみたいだ。だがチラシによると、コーヒーか紅茶がつくだけとはいえ、ランチタイムがあるのはこのクラスだけらしい。昼はここかな、とか思っていると、ようやく十二時が近くなってきて俺たちは雪弥と別れたあたりに戻ることにした。「まだ早くない?」と茉佑子は言ったけれど、これ以上乗ってやるものか。
 元の場所に帰ってくると、何か言っている茉佑子は無視して、混雑をきょろきょろしていた。すると、「美歳!」という雪弥の声が不意に聞こえて、振り返ったところで雪弥も俺の元にたどりついた。「いやー、悪かった!」と俺の肩をたたいた雪弥は、なぜかここの制服を着ている。
「ライヴは?」
「もう大丈夫だって」
「制服」
「あ、返すの忘れた。いや、制服着ておかないと生徒以外は立入禁止でさ」
「返さなくていいのか」
「返しに行く。昼飯どっかいいとこあった? 返したらすぐ追いかけるからさ」
 俺はポケットに押しこんでいた例のチラシを雪弥に渡した。「えー、ランチタイムとか絶対混みそう」と雪弥に言われて、そういえばそうだなと思ったが、「ちょっと行きたいんだよ」と適当なことを言う。
 そのとき、なぜ「それ」に気づいたのかは俺にも分からない。いや、女からの「それ」に気づくのは確かに得意だったけれど、よくある「それ」のようにねっとりとはしていなかった。彼女からの「それ」はもっとひかえめで、壊れそうで──だからこそ俺は、その瞳からの「視線」をはっきり感じ取ったのかもしれない。
 彼女は、ぽつんとひとりで花壇に腰かけていた。この高校の女子生徒みたいだ。肩までの髪が清楚で、儚げな瞳をすぐ伏せたおとなしそうな彼女は、俺がこれまで引っかけたどの女とも違った。
 正直、この場面で出逢ったおかげだった。夜の街ですれちがっていたら、確実に見落としていた。ダサいとかブスとか、そういう意味ではない。危ないネオン街に放りだしたら、すぐに壊れてしまいそうだったのだ。
 声、と思った。
 声を、かけないと──
 そう思ったときには、たくさんの人が残酷に横切って、俺も茉佑子に引っ張られていた。そのまま彼女に声なんてかけられず、その場を離れることになってしまった。雪弥はいったん制服を返しにいき、俺はいよいよ茉佑子のことが鬱陶しくなってきた。
 ひとりだったら、声をかけにいけたのに。あの瞳をもう一度引き寄せられたのに。だが、俺なんかが声をかけにいったら、怯えて逃げてしまいそうな気もした。しかし、それでも俺はきっと彼女を追いかけていた気がする。
 どうしよう。あの子とはただのこれっきりなのか? 絶望的な気分になってくる。あの子と他人でいる自分が耐えがたくなってくる。どうにかやって、あの子に関わりたい。そしてあの瞳が欲しい。もう一度俺を見つめてほしい。想像しただけでぞくぞくするほど、あの清らかな瞳の名残が俺の感覚を甘く蕩かす。
「美歳?」と茉佑子が怪訝そうに俺の顔を覗きこみ、その瞬間、自分の目に映ったのがあの子ではないことにひどい嫌悪感を覚えた。俺は茉佑子の腕を乱暴に振りはらい、「先行ってろ」と残すと、ぱっと身を返した。「美歳っ」という茉佑子の声には振り向かず、行き交う人をよけて走り、あの子がいた花壇に戻った。しかし、彼女のすがたは、もうそこにはなくなってしまっていた。
 何、で。どうして……こんなに、泣きたいのだろう。すれ違ったのがこんなにショックなのか。だって、きっとこれで彼女とは終わりなのだ。人がごった返しているこの高校を駆けまわって、見つかるなんて思えない。あのときすぐに茉佑子なんか振りほどいておけば、もしかしたら、変わっていたのに──

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