浅い呼吸
春夜の部屋は電気がつくので、ちゃんと明るい。しかし、しょっちゅうおじさんが切っているせいか、どこか空気が血生臭く、床や絨毯のあちこちに大小の黒い血痕がある。
おじさんは小さな座椅子に背中を預けてリラックスしていた。手元に錠剤のシートとコップが転がっている。
テレビは異様に高いテンションの深夜番組を流していた。時刻は一時をまわっている。
「おとうさん。お腹空いたよ」
春夜がそろそろとおじさんに声をかけると、おじさんは粘土みたいにゆっくり首を曲げ、春夜を見た。春夜は隈を照らされながらも、必死に愛らしく見えるように微笑む。「そうか」とおじさんは懐からキャッシュカードを取り出した。
「今、三千円入ってるから、下ろすのは千円までだぞ」
「うん。分かった」
「勝手に千円以上下ろしても、履歴に出るからな」
「うん。分かった」
「もしおかしな履歴が出たら、二度と家に入れないからな」
いたって物柔らかな口調のおじさんに、俺は春夜を見つめる。春夜は「うん。分かった」という返事を従順に丁寧に繰り返している。秋陽は表情をこわばらせて、兄を見上げている。おじさんの強迫性じみたしつこい確認がやっと終わると、俺たちはまた窓から部屋を出た。
男の怒鳴り声や女の金切り声、それに子供の悲鳴もたまに混じる不穏な物音の暗い道を歩いていく。自分の家にいるときより、よっぽど堂々とできるから、カモになることはない。
風の匂いに煙草の匂いが混じると、入口で一服する大人が何人かいる一番近いコンビニだ。俺たちはそういう大人と絶対に目は合わせず、ぱあっと明るいコンビニに入る。
ATMで千円だけ下ろす。暗証番号は春夜が暗記している。「たまに」と千円をつかんだ春夜が頬を硬くさせてつぶやいた。
「手数料のことを忘れたおとうさんが、何百円かおかしいじゃないかって言ってきてたんだけど。最近、それが増えてきたよ」
「……殴られるのか」
「ん、まあ。翼ほどじゃないけどね」
「でも、春夜は秋陽をかばうだろ」
「平気だよ。秋陽のぶんはね」
春夜と手をつなぐ秋陽は、俺と春夜を交互に見る。春夜は秋陽に微笑み、「お菓子見よう」と優しく手を引っ張った。秋陽に向けるときだけ、春夜の笑みは本物なのだろうと思う。
安いお菓子を選んで、なるべくたくさん食料として買いこむ。俺はそれに混じりながら、少しポケットに勝手に拝借もさせてもらう。コンビニを出て少し歩いてから、「ちょっと持ってきた」と万引きしたお菓子を取り出すと、春夜は苦笑したけどとがめなかった。
グミを食べる秋陽をはさんで、俺たちは酒だの何だのの異臭に包まれるアパートに戻ってくる。でも、住人だと分かる距離に近づく前に、息を止めて立ち止まった。
「おいっ、いるんだろうが!」
春夜と秋陽の部屋の前に、何人か若い男が溜まってドアをたたいていた。髪を染めたり刺青を入れたり、まともそうな奴らじゃない。
俺は春夜をちらりとする。春夜の横顔はこわばり、秋陽は春夜に身を寄せる。
「常連のよしみで後払いにしてもらってんだろっ。それも振りこまないって、分かってんのかよ!」
「もう物を受け取ったのは、運び屋の口割らせたぜ」
「とっとと金出してくれませんかねえっ!」
どんっとドアが蹴られ、でも中にいるはずのおじさんは顔を出さない。いつも出さない。だから玄関を開けてはならないのだ。特にここのところ、春夜と秋陽の部屋にあの輩が来るのが増えてきた。
でも、こんなところで長くびくびくと畏縮していたら、通りすがりにあっという間に狩られる。俺たちは目を交わし、何も見えていないようにその男たちの後ろを通って、アパートの裏手にまわった。
さいわい、春夜や秋陽がその部屋の住人だと割れている様子はなく、お前たちの親父はどうしたなどと呼び止められることはなかった。
「最近、春夜のとこ、よく来てるな」
アパートの窓の明かりにうっすら浮かぶ草地に座りこんで、三人でひとふくろのポテトチップスを食べる。塩味が舌に溶けこみ、きっとあとで喉が渇くけど、水道水ならある。
俺がそう言うと、春夜はまだ硬い表情でこくんとした。
「おとうさん、薬をまた増やしたみたいなんだけど。お金は足りてないみたいなんだ」
「じゃあ、あいつら──」
「薬とか運び屋ととつながりがあるんだと思う」
「……大丈夫か? 何か、やつあたりとかないか」
「それはないけど。……怖い、かな」
俺たちは視線を下げた。
ろくに食べない毎日に胃が順応していて、ポテトチップスひとふくろを三人で分けるだけでも、空腹はなだめられた。秋陽も残ったグミを俺と春夜にくれる。
ふと春夜が細い脚で立ち上がり、部屋を覗いたが、すぐ降りて首を横に振った。
「またしてる」
「薬?」
「切ってる。見ないほうがいいよ」
「もう薬切れたのか」
「あの人たちが来ると、効いてても息がおかしくなって、切るんだ」
春夜は不安そうな秋陽の隣に座り、「大丈夫」と微笑んだ。表にたむろするその乱暴な客人の物音がなくなっても、おじさんが切っているあいだは部屋に入らなかった。
散らばる忌ま忌ましい物音を聴きながら、俺は土と草の匂いに転がる。地面はひんやりしている。俺の全身の痛みは鈍痛くらいに引いてはいたけど、春夜は心配して「手当てしなきゃ」とつぶやいた。秋陽も俺をまばたきして見つめる。
星も少なく濃紺だった空が、うっすら蒼くなっていく。そんな夜明け近くになって、おじさんが眠ってしまい、俺たちは部屋に入った。
テレビは消えていた。腕を投げ出すおじさんには、春夜が素早く毛布をかけた。それでも、絨毯が吸いこんだ赤色と転がった包丁の銀色は見えた。あの金属みたいな匂いが濃い。
まず俺はユニットバスを貸してもらった。ガスが通っていない俺の部屋では、湯が出なくてシャワーさえ浴びれないのだ。軆じゅうが水圧にずきずきと沁みて、顰眉と舌打ちが止まらない。
着替えは春夜の服を着る。俺の服はもともと春夜のおさがりが多い。
それから、秋陽を助手にした春夜に傷の手当てをされた。
「こっちで寝ていく?」
秋陽が眠ってしまい、膝まくらをしてやっている春夜が俺のあくびにそう訊いてくる。俺はかぶりを振って、「親父がこっち殴りこんできたら面倒だし」と立ち上がった。
実際には、俺が帰宅せずにどこで寝泊まりしようが、親父は気にしないと思うが、ワンルームでそんなに広くないのに、俺が泊まったら、春夜がゆっくりする隙間がなくなる。
「また夜にな」
俺が窓に足をかけてそう言うと、春夜は秋陽の頭を撫でながらうなずいた。メーターにいったん乗って、そのまま草地に飛び降りる。窓は閉めるだけで、いつも鍵をかけない。そして表にまわり、隣の部屋の前にいくつも煙草が落ちているのを見つけつつ、俺は音を殺して自分の家に入った。
相変わらずポルノの声が垂れ流れていて、親父は画面に見入っている。かたわらの台所を一瞥すると、薄暗いコンクリートに俺が流した血がこすれて残っている。
夜のあいだ、春夜と秋陽と過ごしているあいだ、俺はちょっと息を吹き返したように感じる。でもやっぱり、ここに帰るしかなくて、俺の心は事切れる。やっぱり俺は、生まれなくてよかった奴なのだ。
生まれてこの方、この家で愛されたことがない。愛されて、背中のぜんまいをゆっくり巻き返し、また明日も頑張れるように寝かせてもらったことがない。俺はがらくたのように壁際に転がり、意識をほの暗く残して眠る。
殺されないように。捨てられないように。浅い息を、自分でさえ失わないように。
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