願い
それから、俺は自分が鬱陶しいのは承知で、弓弦さんに逢うたびに俺でも手伝える仕事はないかと訊いた。
弓弦さんはため息をついて、適当な関係ないバイトを挙げたけど、「これやったら少し考えてくれますか」としつこく訊くと、「そんな下心ならやらなくていい」と結局何もさせてくれなかった。
何でもよかった。ジュースを買ってこいと言われて、コンビニに走るようなことでも。もちろんそんなことでは小遣いさえ出ないのは分かっている。それでも、初めは報酬なんてなくても、とにかく弓弦さんの役に立つことがしたかった。
「お前なあ、しまいには男娼宿紹介するぞ」
夕方の街で自分を追いかけてくる俺に、弓弦さんは煙草を吸ってそう言った。
「そしたら、仲介料が俺にまわってくるし──」
「じゃあやります」
「……冗談に決まってんだろうが」
「でも、弓弦さんの売り上げになれるんですよね?」
「いらねえよ、そんな金」
弓弦さんは面倒そうな息をつき、「別に俺に固執しなくていいだろ」と俺の頭を小突く。
「俺なんかより、自分のために働け」
「自分のためじゃ、やる気にならないんです」
「その考え方が好きじゃねえな」
「……すみません」
弓弦さんは俺を見下ろし、「分からなくはないんだけどさ」とつぶやく。俺は弓弦さんを見上げる。
夕焼けと共に街並みが目覚めかけている。
「じゃあ、ハルとアキのためなら?」
「え」
「万引きして、ハルとアキに食わせてやったりしてたんだろ?」
「……まあ」
「あのふたりは、まだ親父にどこか依存してるからな。お前が面倒見て、吹っ切らせ──」
「春夜と秋陽のために働いたら、そのぶん弓弦さんが様子見しにくる時間を減らす手伝いになりますか?」
「……ハルとアキのためってのは忘れろ」
「手伝いになるなら、」
「人の手間省くようなそんな言い方で世話されて、傷つくの誰だ」
「……はい」
「はい。あーあ、ったく、こんなとこまでついてきて。お前、ひとりで帰れんのかよ」
はたとあたりを見まわすと、そこは来たこともないビル街だった。それでも、帰れませんなんて言って迷惑はかけられない。「帰れます」ととりあえず言い切っておくと、弓弦さんは肩をすくめて煙草を落として地面に躙った。
「何かおごってやるよ」
「え」
「俺、ここに用あるから」
弓弦さんは、歩いている通りに面した明るいショウウィンドウの喫茶店を示して、路地の入口から中に入っていった。俺はちょっと躊躇っても、ついていく。
ガラスの自動ドアが開いて、ほんのり暑くなってきた気候から、肌を癒すひんやりした空気に包まれる。観葉植物がところどころ置かれて、白と木目が基調の落ち着いた喫茶店だった。
「紗月」
弓弦さんはどこか嬉しそうな声で誰かを呼んで、店内をきょろきょろしていた俺はそちらを向いた。弓弦さんはカウンターの手前の四人掛けの席に歩み寄っていて、その席でPCと向かい合っていた人が顔を上げる。その人も弓弦さんを見て、優しく微笑んだ。
「弓弦。メールありがと」
「ん。言ってた時間よりちょっと遅くなったな。悪い」
「ううん」
「ここで何か食ったら、部屋帰ろ」
「え、弓弦のごはんがいいな」
「そうか? じゃ、俺たちは部屋で食うか。──翼」
弓弦さんに返事するのも忘れ、俺は紗月と呼ばれていたその人をまじまじと見た。
男。男──だよな。ほっそりしているけど、男だ。あれ、と首をかしげると弓弦さんが噴き出した。
「何だよ。お前なら、男と女ばっかじゃないのは知ってるだろ」
「え、あー……まあ。え、弓弦さんって」
「もともとはバイだけどな。もう十年以上こいつとつきあってる」
つきあってる。ぽかんとする俺に、紗月さんというらしいその人はちょっと困ったように笑んだ。この人が、弓弦さんの──恋人、ということか。
そう悟ると、いきなりめちゃくちゃ緊張して慌てて頭を下げる。
「あっ、えっと──その、俺、」
「そこ座ってから挨拶しろ」
俺にそう言った弓弦さんは紗月さんの隣に座り、俺は急いでその向かいにのぼって座った。座りながら、やばい俺すげえ汚れてるな、と焦りを感じる。
「弓弦、この子──」
「話してた奴だよ。俺の手下みたいのになりたいって言ってる、翼ってガキ」
弓弦さんに説明されて、紗月さんはびっくりしたまばたきで俺を見た。
「え、えと……まだ、小学生くらい?」
「五歳だと」
紗月さんはまた俺を見たあと、「確かに、早く自分で食べたほうがいいかもしれないね」とつぶやいた。
「親父だってさ」
「……そうなんだ。弓弦、ほんとに任せられることないの?」
「ありません」
「──何かさせてくれたらいいのにね」
紗月さんはPCを閉じながら俺に苦笑して、俺はここぞとうなずけばいいのに、畏まって首をかたむけてしまう。「甘やかすなって」と弓弦さんは紗月さんの髪に触れながら言う。
「メニュー取って。こいつに何かおごる」
「え、それ弓弦も甘やかしてるよ」
「飯くらいいいだろ。──ほら、好きなもん選べ」
弓弦さんにメニューをさしだされ、それを受け取っても、開くのは躊躇ってしまう。
これでは、役に立ちたいのに、逆に面倒をかけていることにならないだろうか。かといって、自分ではらう金なんか持っていない。いらないです、と席を立ったほうがいいかもしれない。いや、それもせっかくの厚意に失礼か。
どうしよう、と止まっているあいだに、弓弦さんはウェイトレスにコーヒーを注文した。
紗月さんがPCをリュックにしまうと、弓弦さんは紗月さんの肩を抱き寄せ、こめかみに優しく口づける。紗月さんは、恥ずかしそうだけど幸せそうに咲う。ちょっと吊った目なのに、雰囲気が柔らかいせいか、きつい印象はぜんぜんない人だ。
どこで知ったか忘れたが、男同士は知っている。それでも、弓弦さんと紗月さんの違和感のなさには驚いた。何か、本当に普通に恋人同士だ。
両親が睦まじいところなど見たことがないせいかもしれない。男同士だろうと、弓弦さんと紗月さんはお互いが愛おしく、幸せそうだった。そんなに幸福そうに見えると、男同士だなんてことはどうでもよく見えてくる。
俺は息を吐いてから、メニューをテーブルに置いて席を立った。弓弦さんは俺を見て、「俺におごられたくはないか?」と落ち着いて訊いてくる。俺は首を横に振って、紗月さんを見てから、弓弦さんを見た。
「ふたりのところを邪魔したくないです」
弓弦さんは俺を眺めて、「なるほど」と言いながらやってきたコーヒーをすすった。紗月さんが何か言いそうになったのを抑え、弓弦さんはコーヒーを置いて俺の頭に手を置いた。そして、その手で俺を頭を撫でた。
「その返事は、わりと合格だ」
俺は弓弦さんを見つめた。弓弦さんは微笑んで、「自分のために仕事したくなったときに来い」と言った。俺は眉を寄せ、「弓弦さんを手伝いたいです」とやっぱりそんなことを言う。すると、「もうガキの駄々と一緒だな」とおかしそうに笑われる。ちょっとむっとしてしまっても、そう思われてもいいから、やっぱりこの人のために働きたいと思った。
とりあえず、この場は早く退散しよう。そう察した俺は、紗月さんに頭を下げて、「お願いします」と弓弦さんにも頭を下げて、喫茶店を出ていった。
夕景の空気は、人混みの熱気を持ちはじめていた。人混みの中、ショウウィンドウを横切りながら、弓弦さんと紗月さんの席を一瞥する。弓弦さんが何か言って、紗月さんは咲っている。何というか──いいふたりだな、と素直に感じた。
アパートに着いたときには、空は暗くなっていた。相変わらず臭気がただよっている。
最近、親父は機嫌が悪い。俺が部屋に弱くくずおれず、留守にしていることが増えたからだ。でも、外で追いかけているのが弓弦さんだと知ったら、すくみあがる親父だと思うが。いや、弓弦さんは特に俺を何にも使っていない。勝手に追いまわしていると知ったら、むしろ親面して弓弦さんに土下座して、息子がご迷惑をと俺を殴ってみせるかもしれない。
俺の親父がそうすることは、きっと弓弦さんは知っている。親父に俺のことを言いつけてしまえば、俺が監禁されることは、あの人は分かっているのだ。でも、何だかんだ言いつつ俺に自分を追いかけさせている。
結局俺は、弓弦さんにうまいこと面倒を見てもらっているのかもしれない。なかなか取りつけないなあ、と俺は部屋には入らないまま、裏手の草地にまわった。
そこでは、春夜と秋陽が部屋を避難していた。ふたりは現れた俺にぱっと顔を上げ、受け入れる笑みをくれる。春夜も秋陽も、ぼろぼろに痩せていたのに、ここひと月くらいで少し肉がついて肌もすべすべになった。着る服もどれも傷んでいたのが、綺麗な真新しいものになっている。
俺は弓弦さんからのそういう援助は拒んでいるので、相変わらず小汚くて、骨ばって痩せているけれど。手伝う仕事がしたいと俺が弓弦さんを追いかけているのは、もちろん春夜も秋陽も知っている。
「弓弦さん、いいって?」
訊いてきた春夜に、俺は首を横に振る。「そっか」と春夜は視線を下げ、秋陽は春夜を見上げる。
「何か……翼は、すごいよね」
「えっ」
「僕は、働いて自立なんてまだ考えられないよ」
「あー……。まあ、俺も自分で食いたいとかじゃないよ。ただ、その、弓弦さんのパシリなら、したいだけ」
「僕だって、秋陽のために頑張らなきゃいけないんだよ。ほんとは」
俺は口をつぐみ、春夜は秋陽の頭を撫でた。秋陽は春夜を見つめ、ちょっとうつむいて兄貴の軆にしがみつく。
「まだ、それはしなくていいと思うけど」
俺がそう言いながら腰を下ろすと、春夜は首をかしげる。
「今は、春夜は秋陽のそばにいてやらきゃいけないだろ」
「……うん」
「春夜が働き出したら、そのあいだ、秋陽どうすんだよ」
俺は秋陽の頭を撫で、秋陽は小さくうなずいて春夜の服をつかむ。すると春夜は少し咲って、「ありがと」とつぶやく。
「でも、やっぱり翼はすごいと思う」
「そうか? 弓弦さんは、俺なんか使ってくれないけどな」
「翼は信頼できるのにね」
「どうだろ。自分のために働くならって、バイト紹介されるんだけどさ。そういうのじゃないんだよな」
「弓弦さんのためになることがいいんだよね」
「うん。あの人の役に立てるなら、そこから、初めて自信とかも持てそうなんだ。いきなり自信は持てないよ。自分のために、って言われても」
「分かる」
「どうしたら、パシリくらいさせてくれるかなあ。追いかけまわしてるだけじゃダメなんだよな。それで折れる人じゃない。何か……ダメだな、やっぱ俺、何にもすごくないよ。何したらいいのか、ぜんぜん思いつかない」
「すぐあきらめるよりいいよ。僕は応援してる。秋陽もね」
春夜は微笑み、秋陽も俺を見てこくんとした。俺は曖昧に咲って、ほんとどうしたらいいのかな、と思った。
自分のために。そう思う力が俺にはないのだ。弓弦さんの役に立てたら、そのときやっと、弓弦さんが言ってくる通り、そんな自分を食わせてやる気になれる気がする。
弓弦さんに認めてほしい。俺は自分で自分を認められないから、親も認めてくれないから、弓弦さんに認められたい。
ぜんまいの切れた、がらくたの人形だった。巻いてくれるはずの親は最低のくそったれだった。自分の背中に器用も届くこともない。
だから、俺を動かしてほしい。生かしてほしい。
そう、きっと俺は、弓弦さんの手で、生きている人間になりたいのだ。
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