狂った殺意
春夜と秋陽のおじさんが、また薬代を滞納したらしい。
チンピラの起こす隣の騒音にいらついた親父が、俺を壁に抑えつけて首を絞めてきた。片手で喉を捻りつぶされ、呼吸が流れず、脳が腫れあがって熱くなる。親父の血走った目を最後に、意識が白光してそのまま飛びそうになった。
が、俺のばくんばくんと暴れる心臓が息切れてつまずきかけたとき、どさっと床に落とされた。急に喉に大量に流れた空気に咳きこむ。
気づくと、隣の物音がなくなっている。親父はまたPCに向かってティッシュをつかみだし、興奮を計る。俺はしばらく四肢が痺れていたが、何とかふらつきながら部屋を出た。
まだ昼下がりで、明るかった。初夏の澄んだ晴天だった。陽射しがほのかに暑い。
弓弦さんがいた。その後ろに春夜と秋陽もいた。チンピラ共は弓弦さんに首を横に振り、「もう金目のもんはないですね」と言っている。弓弦さんは俺をちらりとしても何も言わず、ただチンピラ共を部屋から引かせ、報酬を握らせて帰らせてしまった。
そして、これまではみずから入ることのなかった春夜と秋陽の部屋に踏みこもうとする。慌てて春夜が弓弦さんの服をつかんだ。
「お、おとうさん殺すんですか」
弓弦さんは春夜を見ても、何も言わずに頭に手だけ置いて部屋に入っていった。どうするつもりなのだろう。まさかほんとに──。
俺は春夜と秋陽に駆け寄る。俺たちは視線を交わし、そうっと玄関のドアに隙間を作って中を覗いた。
「とりあえず、出してくれるもんがないなら取引は終了ですね」
「そ、そんな。もうすぐ少し入るよ。そしたら、それからはらうから、薬は、」
「そう言われて、ずいぶん大目に見てきましたけど。こっちもチンピラの派遣とか面倒なんですよ、もう」
「薬がないと生きていけないのに、薬を奪うのかっ」
「クリーンになったら、落ち着きますよ。一週間くらい、死ぬ気で何もしないだけでいいんです」
「そんなの、発狂するだけじゃないかっ。そんな、わけが分からなくなるのは怖い。不安でどうかなってしまう。頼む、薬だけはこのまま」
「それに、あんた薬なんかやめたほうがいいはずですよ。かわいい息子たちじゃないですか、ハルとアキ」
弓弦さんは振り返って、ドアの隙間からこちらを覗く俺たちを招いた。春夜と秋陽がおずおずと弓弦さんに近づく。
「でも、薬がないと」
「薬に使う金を、こいつらが食べるうまいもんにしようとは?」
「嫌だ! 薬だ。薬が欲しいんだよっ。薬が切れるなんて耐えられない、ああ、何か効果落ちてきたかもしれないな。いらいらする。薬……」
「あんたも父親だろうが。冷静になれば──」
おじさんはもう弓弦さんの話を聞かずに、絨毯を這いまわって薬を探す。傷だらけの腕が見えた。
弓弦さんは身をかがめて、おじさんの目線になって肩をつかんだ。
「もう薬はやめろ」
「何で……」
「まともに生きろ」
「嫌だ、薬がないと……」
「それがハルとアキのためなんだ」
「春夜……と、秋陽……」
おじさんは弓弦さんに揺すぶられるまま、うわごとのように春夜と秋陽の名前をぶつぶつ繰り返した。春夜と秋陽はおじさんに近づき、「おとうさん」と春夜がおじさんを呼ぶ。おじさんは春夜を見つめ、それから秋陽を見た。ついで首を垂らすと、小さな、絞るようなつぶやきがこぼれた。
「……ない」
「ん?」
「じゃあ、いらない」
「そうか。じゃあ、運び屋には連絡しとく──」
「違う! いらないのはあのふたりだ。そうなんだ!!」
おじさんは急に明るくそう言って、俺は怪訝に眉を寄せた。弓弦さんが、さりげなく春夜と秋陽を背後にかばった。おじさんは立ち上がり、「そうだ!」と血みどろの腕を振りまわした。
「そのふたりを売るよ! どんなふうにしてもかまわない、犯していいし、殺してもいい。内臓から何もかも、そのふたりを売ろう! そしたら、しばらく薬代になるだろう?」
春夜と秋陽が後退り、おじさんはいつも自分を切っている包丁を手にした。だが、弓弦さんが舌打ちしてその包丁は素早くはらい、おじさんの胸倉をつかむ。
「そんなくだらねえこと言い出すなら、なおさら取り引きは打ち切りだ」
「子供の軆は売れる。それを売って何が悪いんだ?」
「……それ以上言ったら、軽蔑するぞ」
「僕の子供なんだから、どうするかは僕の勝手だろ。子供は僕の財産だから、買い取ってもらうのは僕の自由なんだ!」
「てめえなあっ──」
弓弦さんが、笑い出したおじさんを睨みつけたときだった。どこからか曲が鳴り出した。弓弦さんは自分の肩のリュックを一瞥する。ついで、おじさんを乱暴に突き放して床に伏せさせ、ケータイを取り出してため息で声を落ち着けてから、弓弦さんは電話に出た。しかし、黙ってその相手の話を聞いているうち、またもや弓弦さんの表情が険しくなってきた。
「お前、自分のやったこと分かってんだな?」
何、だろう。
「うるせえ。そんなクズみたいな理由で、ふざけんなよ」
春夜と秋陽も弓弦さんを見ている。
「ああ、今すぐ行ってやるよ。悪いな、ちょうど今、俺は機嫌が悪い」
おじさんがにぶい動作で包丁へ手を伸ばそうとし、弓弦さんは相手と話しながらその手を踏みつける。
「いいか、死にたくなかったらそれ以上はおとなしくしてろ」
弓弦さんは一瞬にして部屋を見まわし、俺に目を止めながら、電話相手に冷え切った声で言った。
「手出ししたらお前を殺す」
同時に電話を切って、リュックに突っこみながら、「翼」とやはり弓弦さんは俺のことを呼んだ。俺は躊躇いかけても、すぐ躊躇なんか捨てて、「はいっ」と駆け寄る。春夜と秋陽はおろおろと俺を見る。
「っとに、くだらねえな。金がない奴ばっかだ」
「な、何か、あったんですよね」
「紗月が拉致られた」
「えっ──」
「借金を見逃すなら返すだと。くそみたいなことにあいつを巻きこみやがって」
「それ、は、弓弦さんが行かないと」
「ああ。でも──」
おじさんが赤い腕をまた伸ばそうとし、弓弦さんは舌打ちして手を捻り上げる。
「このおっさんも、今放っておけない」
春夜と秋陽は、身を寄せ合って震えている。それを見取った弓弦さんは、いったん大きなため息をついて考えてから、俺をまっすぐ見た。
「何でもやるんだな」
「え」
「俺の役に立つなら」
「は、はい」
「じゃあ、俺がここに戻るまで、ハルとアキを守れ」
「え、お、俺がですか」
「ヤク切れの人間は分からないからな。ハルとアキを殺してヤクが手に入ると思いこんだら、ほんとに殺す」
弓弦さんに捻り上げられ、傷が開いたおじさんの腕は赤を垂らしている。
「俺で、いいんですか」
「紗月のところにはすぐ行かなきゃいけない。だから、お前しかいない」
それは、そうかもしれないけど──。
【第七章へ】
