「ちーあきちゃん」
「ちゃんづけすんな。何の用だよ」
「ご挨拶ね」
「俺になんか、会わなくてもいいだろ」
ドア越しに噴き出す声がした。
「あんた、いつから『俺』なんて言うようになったの」
「ほっとけよ。俺はお前のおもちゃになる日々はまっぴらだよ」
「人聞き悪いわねえ。あたしは根暗のあんたがイジメられないよう、最大限の努力をはらってやったのよ」
悔しいが、それは事実だった。
雪月に出逢う以前、俺はこのふたつ年上の幼なじみと生まれたときから一緒だった。七歳のときに彼女が遠くに引っ越して、俺はしばし周囲に溶けこめなかったのだ。でも梨佑香が必要以上にかばわなかったら、人づきあいのコツをさっさとつかめていたのではと逆怨みもしている。
「今の俺には、お前がいなくてもほかの奴がいるよ」
「あら、恋人」
「友達」
「でしょうねえ。あんたみたいのに女が寄りつくと思えないもの」
「どういう意味だよ」
「あんた、取り柄、顔だけでしょう」
「どっか失せろっ」
俺はかばんでドアをはたくと、そのままかばんはベッドに放った。奥のクローゼットから、シャツとジーンズを引っ張り出し、脱いだ制服は壁のハンガーにかけておく。春休み中にクリーニングに出されるだろう。
俺はかばんの中の成績表もろもろを、リビングに提出しにいった。私服には着替えていたので、今度は梨佑香を部屋に通す。
「あー、懐かしい。匂いは変わってないね」
「お前は変な匂いがする」
「あんたねえ、香水にそんなこと言うのやめといたほうがいいよ」
「何しにきたんだよ」
「あんたをイジメにきたのよ」
「いらねえよ」
ドアを閉めて彼女の後ろすがたを見た俺は、番茶も出花とかいうことわざを思い出す。最後に梨佑香を見たのは、彼女が九歳のときだろうか。
「ま、こんなにいきなりじゃ、あんたじゃなくてもビビるよね。何にも連絡取り合わなくて、ほんとにご無沙汰だし」
「マジで戻ってきたのか」
「一週間前にね。挨拶に行こうとは思ってたんだけど、ばたばたしちゃって」
俺はベッドサイドに脱力して腰かけ、「最低」とつぶやいた。「あんたも中坊なのね」と梨佑香は壁の学ランを腰に手をあてて眺める。
「学校どう? イジメられてない?」
「ほかの奴が生け贄になってるよ」
「そっ。でも、あんた、嫉妬でイジメられそうね。何その顔」
「不細工よりマシじゃん」
「気味悪いぐらい美形ね。あたしの後ろで吠え面かいてたくせに」
「るさいんだよ。お前は高校生か」
「そうね。こっちに戻ってくるの分かってたんで、初めからこっちの受験したわ」
「だったら、そろそろお淑やかになってろよ」
「女子高生なんて暴れどきよ」と梨佑香は隣に腰かける。
幼なじみの因果だろうか。六年以上も音信不通だったのに、溝も壁もない。昨日も言い合いをしていたみたいだ。「染めてんの」と茶髪に目をこらすと、「まあね」と梨佑香は髪をひと房いじる。
「お前こそグレてたんじゃないの」
「そうねえ。ちょっとグレてたわ」
「俺と離れたせいで」
「あんたとは離れて清々した」
「俺も清々した。何で戻ってくるわけ」
「親の都合よ。とうさんが転勤になってね、それが海外なんで、あたしとかあさんは先に戻ってきたの」
「お前も外国行っちまえばよかったのに」
「いまさらどうやって日本語以外で生きていくのよ」
「自慢になってない」
「じゃあ、あんた外国行ってみなさいよ」
相変わらず口達者だ。俺は女に馴れ馴れしい男ではないけれど、梨佑香には尻ごみがないのは相変わらずらしい。
「年賀状もよこさなかったな」
「あんたこそ」
「お前がよこしたら出そうかなと」
「あたしもよ。六年間、どうだったの」
「別に。お前がいなくなったんで、守られる根暗を脱せたかな。今は友達もいる」
「恋人は」
「いないって言っただろ」
「あたしはいたわ。こっち来るんで置いてきたの」
「物好きもいるんだな」と述べると、「童貞に言われたくないわ」と梨佑香はそっぽをする。
「お前、処女じゃないのか」
「あんたにはどうせ一生関係ないわよ」
「俺のだってお前には関係ないじゃん。置いてきたってことは、遠恋?」
「別れたわ。そんなに好きじゃなかったし。収穫よ」
「やな女」という俺の独白は無視し、「友達はいるのね」と梨佑香は話を進める。
「うん。雪月っていう奴が一番仲いい。クラス違うけど」
「ユヅキ」
「またこっちに住むなら会えるよ。友達にもなれるかも」
「ふうん」と梨佑香はブーツカットでぴったりしたジーンズの脚をぶらつかせる。その彼女を眺めた俺は、辛気臭いため息をつく。
彼女が隣にいた幼少期の感覚が、徐々によみがえってくる。「もう遊ばれずにすむと思ってたのに」と嘆くと、梨佑香は満足げににやりとして、「千晶ちゃん」とささやく。
俺は膝に上体をかぶせ、数十分前には平穏だと思っていた未来を案じた。
梨佑香がやってきたことは、春休み中に雪月に伝わった。
俺と雪月が連れ立つと、映画を観にいくとか街をぶらつくとか、デートみたいになる。男同士でたむろするようなのもできず、女同士で歩きまわるようなのもできず、男と女で出かけるようになるせいだろう。
とはいえ、どんな女の子が好みか、とかいう話は普通に弾む。駅前の歩道橋を歩く俺は、思い出して梨佑香のことを話した。
「そういや、前言ってたね。昔、仲がいい女の子がいたって」
「うん、それ。仲は別によくなかったけど」
「戻ってきたんだ。よかったね」
「よくねえよ」
「嫌いなの?」
「一緒に過ごして楽しい相手ではない」
「そお。美人?」
「まあ。恋人いたって言ってたけど、ありゃ顔だけで捕まえたに違いない」
「でも会ってみたいなー。千晶の幼なじみ」
「そのうち会えるよ」と梨佑香にも言った台詞をくりかえすと、雪月はこくんとした。
話は戻り、女の子のことになる。「二年になったら好きな女の子できるかな」と雪月は手すりの向こうに俯瞰できる交差点を見やる。
「好きな子、欲しい?」
「そりゃあね。っていっても、男って見られて応えられるのはやだな」
「むずかしくないか」
「ねー。レズバーとかに行ったって、男のなりしてるんで嫌がられるだろうしさ。はあ、やっぱ女の子の軆になんないとダメなんだね。心だけじゃ誰も信じてくれない。あー、なりたい」
「薬飲んだりするんだろ。いや、打つのか。女性ホルモンとか」
「どこにそんなんあるの。いくらかかるの」
「さあ」
「世の中はニューハーフとかゲイに理解持ちつつあるって言うけどさ、当事者から見たらぜんぜんなんだよね。理解って、ある種の世界の中でしょ」
「じゃ、ある種の世界に行けば」
街の雑音の中、雪月は俺と顔を合わせる。「入口どこ」と訊かれても、俺はそんなのは雪月以上に知らない。
「お金がたっくさんいるのは確かなんだよねえ。高校生になったら、すぐ働いてお金貯めなくちゃ。堅気の仕事じゃ、たかが知れてるかな。何か変なことしなきゃいけないのかな。こわーい」
「勝手に手術するのか」
「勝手って、僕の軆なんでいいじゃん」
「おじさんとおばさんは」
「あー。そうだね。分かってもらえなかったら縁切る」
「いいのか」
「分かってくれると思うよ。おかあさんとか、僕が男っぽいの嫌ってるの知ってるもん」
雪月の両親を想った。雪月の家庭は、いまどき希少価値の愛情にあふれた家庭だ。俺の家は父親がえらそうだけど、雪月の両親は対等で、互いへの愛情の交差から生まれた愛情で雪月を包んでいる。
あのふたりなら、確かにそれが雪月の素顔ならと受け入れそうだ。
「雪月の家っていいよな」
「そお?」
「俺なんか、いつか絶対、あの家捨てる」
「捨てたくないの」
「捨てたいと思わせない家だったらなあとは思うよ。ま、普通の家なんだけど」
「普通はつまんないもんね」
「……うん」
階段を降りると「どこ行こうか」と俺たちは目を交わす。「欲しいアルバムあるの」と雪月が言うので、ひとまずCDショップに行くことにした。そういえば俺も、本屋で漫画の新刊情報を見たかった。
「千晶は、二年になったら好きな女の子作らないの?」
「作ろうと思ってできるもんじゃないだろ」
「具体的にどういう子が好きなの」
「………、つきあってみたいなあと想わせる子」
「抽象的だよ」
「つきあってみたいと思うからつきあうんだろ。違うのか」
「千晶って現実的だよね。やろうと思えば、すぐ女の子できるのに。千晶ってモテるんだよ。僕、告白頼まれたこともあるし」
「うけたまわった記憶がないんですけど」
「自分で言ったほうがいいよって言うの。告白されたことないの?」
「ないよ」
横断歩道の赤信号で立ちどまり、雪月は俺を見つめる。向こう岸に、CDショップもある百貨店が建っている。
「千晶は綺麗だもんね」
雪月は斜めがけにするバッグのベルトをなぞる。
「私なんか相手にされないってヒカれるんだよ。千晶は自分でかからなきゃ、遠慮されっぱなしだよ」
「俺のどこがいいんだろ」
「顔じゃない?」
「顔だけで寄ってくる女なんかやだよ」
「やっぱ現実的。ま、正しいんだけどね」
「俺は俺の顔以外で惚れてくる女とつきあうよ」
「ふうん。じゃ、みんなにそう言っとこ」
俺は雪月を見下ろした。雪月は俺には笑っておき、変わった信号に横断歩道に踏み出す。 何だかなあ、と俺は春風を汚す排気ガスに息をつくと、右肩のリュックをかけなおして雪月を追いかけた。
そんな具合で、雪月は自分の体質をけしてうじうじとはあつかわなかった。内心では悩んでいるのだろう。でも、俺の前では、演技でおおっているわけではなくも、気丈な部分を強調している。多少の不安はこぼしても、じめついた弱音は吐かなかった。
雪月がいつか女の軆を持つことに、俺は確信があった。あいつなら、やりそうなのだ。事実、俺も雪月が女だと知り、男と思っていた頃に感じていた奇妙な違和感がなくなった。せっかく受容できたのだし、まだ偏見が多いであろう雪月の性質に、応援は送りたかった。
遊んでいるうちに、しけた日数の春休みはすぐ終わった。一年生の終了に感傷がなかったように、二年生は大した緊張もなく始まる。ゆいいつの難点は、担任が大嫌いな数学教師だったことだ。あとは、無頓着にやりすごせそうだった。ちなみに雪月とは引き続きクラスが違い、四月もなかばにさしかかった日曜日、すれちがいの埋め合わせで俺の家で会っていたら、梨佑香がやってきた。
インターホンに出た俺は帰れと言いそうになったが、雪月が会ってみたいと言うのに免じて通した。
リビングで醤油煎餅をかじっていた雪月は、「こんにちは」とベージュのミニワンピースの梨佑香に屈託なく微笑む。雪月は男にはおろおろと視線を彷徨わせても、女の子にはなめらかな笑顔を向ける。雪月の邪心のない笑顔に、「こんにちは」と梨佑香もにっこりとし、ふたりはひとまず糸を結んだ。
「あれ、おじさんとおばさんは」
「とうさんはゴルフ。かあさんは買い物」
「うわ、どっかで聞いたような休日ね」
「日曜に幼なじみ訪ねてる女に言われたくねえな」
「どういう意味よ」
「恋人ぐらい作れよ。学校始まったんだろ」
「できたら、あんたなんか相手にしてやらないんだから」
「望むところ」と俺はゲームがやりかけのテレビ前に腰をおろし、梨佑香は雪月とテーブル越しに向かい合う位置に座る。ゲームの攻略本を読んでいた雪月は、梨佑香に顔を上げてもう一度笑みを作った。
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