360°-5

「千晶」
「ん」
「あたし、向こうでグレてたって言ったじゃない」
「うん」
「何でグレたと思う?」
「俺がいないから」
 梨佑香はすかさず、俺の脚を蹴った。「臑は蹴るなよ」と俺は梨佑香と間隔を取る。
「男の子とつきあったの」
「収穫だったんだろ」
「向こうに告白されたのよね。嫌いでもなかったんで受けたのよ」
「悪趣味な男だな」
「いちいち茶々入れないで」
「まじめな感想だよ」
「あたし、その男の子といろいろダメだったの」
「だめ」
「恋愛というか、性的というか、男女というか」
 梨佑香を向いた。梨佑香は視線を正面にすえ、毅然と歩いている。
「それでグレたのよ」
「意味が分からないんですけど」
「男といっぱい関わってみたわ。でも、あたしには男じゃなかったの」
「………、」
「気持ち悪い?」
「信じられない」
「ストレートだったら、あんたに惹かれないわけないじゃん」
 俺は気むずかしい顔になる。そうだろうか。俺はストレートだが、梨佑香には揺れない。そのあたりを言うと、「知ってるよ」と梨佑香は咲う。
「だから、あんたはすごいわ。あたしはそんなに器用じゃない」
「女が好きなのか」
「うん」
「……そうか」
「でも、変なのよね」
「変?」
「あたし、ほんとに男はダメなはずなのよ。バイの望みもないと思ってた。バイなのかしら」
「……雪月か」
「うん。あの子、男っぽくないよね」
「ん、まあな」
「怖いのよね。今、何もなくて惹かれてても、触れあおうとしたらダメになるんじゃないかって。そんなんじゃ、親しくなっても意味ないじゃない」
 梨佑香は憂鬱な表情で地面を蹴る。こいつでもそういうのに繊細に悩むんだな、と正直思った。
 同じ方向の帰途をしばし無言で歩く。明るさに車や人の通りは多くても、風の匂いは静かになりつつある。
「このまま、あきらめんの」
「さあ。雪月くんに一応そのへん言ってみて、万一ってのでつきあうのもあるけど──雪月くんが嫌でしょ」
「雪月が応えないってこと?」
「違うわよ。あたしの都合ばっかじゃない。雪月くんがあたしをどう見てるかって、そっちのが先にある問題ではあるけど」
 雪月と同じことを言っている。
 俺が言い切ってしまうのも何だが、このふたりは決定的だ。結局、雪月と梨佑香に支障はなかった。雪月は女で、梨佑香はレズビアンで。
 いやはや、と勝手に大団円に浸る俺を、まだ何も知らない梨佑香は訝しそうに見ていた。
 しかし、このままのんびりしていたら、互いにあきらめて自然消滅しそうだ。俺はひとつお節介として、雪月に梨佑香に体質を打ち明けるのを勧めた。
 日曜日の俺の部屋で、雪月は突然の話題に狼狽えて「何で」と視線をそらした。
「梨佑香が好きなんだろ」
「まあ、うん」
「じゃ、告白すればいいじゃん」
「いさぎよく振られろってこと」
「いさぎよくぶつかれってこと」
「僕、だってそんな、男みたいになれないよ」
「何にもせずになかったことにするのか」
「初恋ってのはそんなもんだよ」
「あのなあ」という俺の言葉を、「何なの」と雪月はさえぎる。
「何でいきなりそんなの言うの。誰かに買収されたの」
「誰に買収されるんだよ」
「千晶が僕を想ってくれてるのは分かるよ。でも、やっぱ関係ないじゃん」
「まあな。じゃ、俺は一応勧めたぜ。何があっても知らない」
「ど、どういう意味」
「どうでしょうねえ」
「何? 何? 何か知ってるの。知ってるんだね。それで変なお節介焼いてるんだね」
「雪月っぽくないなあと思ったんだよ」
「それは僕も思うよ」
「そうやっていざとなったら妥協するなら、いつか女の軆になるのもできないんじゃない」
 雪月は目を開いた。俺はあえてそっけなく肩をすくめる。
「でも俺は、雪月には女の軆が似合うと思うし」
「……うん」
「女の子とつきあうのも雪月だと思うし」
「うん」
「梨佑香に理解してもらうのも、雪月じゃないかなと思ったんだ」
 雪月は俺を見つめた。その瞳の潤いに、「俺はそんなできた人間じゃないし」と俺は息をつく。
「オカマだろうがレズだろうが、雪月だったから受け入れられたんだ」
「千晶……」
「雪月のままでいろよ。そしたら、梨佑香にどうすればいいのか分かるだろ」
 雪月は瞳がいっぱいになると、「千晶っ」と抱きついてきた。「暑い」とその頭をはたくと、「千晶が特別に感じられるのが分かる」と雪月は半泣きで華奢な軆を離す。
「僕、初めてストレートでもよかったかなと思ったよ。そしたら、千晶を好きになれてたもん」
「はは。まあ、俺は親友として雪月といるよ。恋人は梨佑香だろ」
「梨佑香さん、分かってくれるかな」
「分かってくれるよ。だから雪月も惹かれたんじゃないかな。俺を特別って直感したみたいに」
 雪月は俺と視線を重ねると、「そうだね」とうなずいた。「言ってみる方向で考える」と雪月は表情を締め、俺は微笑む。
 雪月が内面を告白すれば、梨佑香も自分の性質を話すだろう。それでも、「何かでしゃっばっちゃって」と俺が遠慮すると、「千晶がいてよかったよ」と雪月は首を振った。
「僕は僕なんだよね。それを分かってくれない人なら、さっさと見切るのもありだよね。僕ってややこしいけど、千晶がいるんで胸を張れるんだ。千晶がこれが僕だって分かってくれるから」
 雪月の率直な言葉には、やはりこちらが照れる。肘で突くと、雪月は突き返した。「うまくいくといいな」と励ますと、雪月は笑んでこくんとした。
 そうして、一週間後の快晴日──梨佑香の暮らすマンションの前に、俺は雪月と梨佑香と共にいた。雪月と梨佑香は言うまでもなく、なぜか俺はデートのお見送りだ。
 雪月が梨佑香に踏み切ったのは三日前で、その後、俺に報告に来た。「梨佑香さんが女の子好きって知って言ったんだね」と雪月に迫られ、俺は曖昧に笑った。「あのとき言ったことは嘘じゃないよ」と先手で言い添えると、雪月はひとまず納得していたけれど。
「じゃ、行ってくるね」
 半袖パーカーにハーフパンツという性別のはっきりしない服装の雪月は、そう俺ににっこりとする。このあと友達との約束がある俺は、それを気にしつつうなずく。
「おみやげ何がいい?」
「何でもいいよ」
「断りはしないのね」
 プリントシャツにデニムスカートの梨佑香は、雪月にはかわいがった柔らかな口調を使うくせに、俺には相変わらず厄介な幼なじみだ。「別に面倒ならいいけど」と俺が言うと、雪月がかぶりを振る。
「千晶のおかげでこうなれたんだもん。お礼も兼ねて」
「キーホルダーはやめろよな」
「わがままね」
「るさいな、バイク欲しいとか言うよりマシだろ」
「百円くらいのお菓子にしとこうよ」
「はは。ま、見て決める」
「あたしとのデートだって忘れないでね」
「もちろん」と雪月ははにかみながら梨佑香に笑んで、梨佑香は落ち着いた笑みを返す。恋愛を知らない俺は、つい気後れする雰囲気だ。「じゃあ」と雪月は俺に目に向ける。
「いってきます」
「うん」
「嫉妬しないようにね、千晶ちゃん」
「ちゃんづけすんな。お前なんかとくっつくのを、どう嫉妬するんだよ」
「雪月行こ、こんな奴といるのは幸先悪いわ」
「あ、梨佑香さん待ってっ。じゃあ千晶、ありがとねっ」
 雪月は俺に手を振ると、先に歩き出した梨佑香を追いかける。
 こう並んだふたりを見ると、雪月のほうが気持ち背が高い。梨佑香と一緒に、彼女のためにも、女の軆を取り戻す方法を探ると雪月は言っていた。
 暖かい陽射しに立ちのぼる植木の緑の匂いの中、後ろすがたは遠ざかっていく。角を折れて見えなくなると、俺も外出の身支度のために家に引き返した。
 あのまま一回転したところが、もしかしてちょうどいいんじゃないか?
 そんなふうにも思うけど、やはりいずれは女同士のふたりになるのが自然なのだろう。実際、雪月の心は梨佑香に惹かれても、男と女という外観に揺らがなかった。梨佑香も女の子に惹かれるのだから、肌をなじませるなら雪月には心と軆を重ねてほしいだろう。
 まあ、それでもしばらくはあの一回転した状態で、ふたりが心をつないでいるのを俺は見守るとしようか。

 FIN

error: