夜勤明けの朝、「お疲れ様です!」と最後の気力を振り絞った笑顔でナースステーションの前を通り過ぎたら、看護師の顔をため息と一緒に顔から落とす。私服になっているし、「看護師さん、ちょっと来てー!」と声をかけてくる患者さんもいない。
関係者だけの裏口へと歩いていると、疲労のあまり、頭にゆらりと浮遊感を覚えた。エナジードリンクでも飲んだほうがいいかも。そんなことを思いながら、裏口を出る。
四月のまばゆい陽射しに、満開の桜の花びらがひらひら舞い落ちている。ああ、コンタクトをつけた眼球に、朝陽が刺さってくるみたい。そしてめまいを注入されて、今にもふらついて壁に倒れこみそう。
二十二歳で看護師になって、この春で六年目になる。仕事内容には慣れたけど、過密なシフトや一日の仕事量は、キャパを超えていくばかりだ。すごい勢いで心身に荷を詰めこまれていくような日々は、だいぶきつかった。いつ耐えられなくなるのか、正直びくびくしている。
今の時期さえ乗り越えたら、あとは頑張れる──同じく看護師をしているおかあさんはそう言うけれど、どっちにしろ頑張りつづけるのが変わらないのなら、望んで進んだ道とはいえ、つらいよって思う。
去年の冬までは、それでも頑張れた。久さんがいたから。でも、もうあの人は私に二度と触れてくれないだろう。患者さんの手前、咲いかけることはあるけど。仕事していく上で、話すこともあるけど。彼が私を抱いてくれることはない。
この病院の敷地内には、コンビニがある。先生や看護師だけでなく、入院中の患者さんやお見舞いの人も使えるコンビニだ。
何とかそのコンビニにたどりついた私は、笑顔の片鱗も残さない憂鬱な表情で、棚のエナジードリンクをつかんでレジに通した。広々したコンビニではないので、会計が済んだらとりあえず表に出る。
見上げた空は柔らかい青で、なのに、極彩色を見たときのように目に沁みて痛い。コンタクト外したいなあ、と思いながら、エナジードリンクの蓋を開けていると、「あ、お疲れ様です」という声が聞こえた。
気にせずぼんやりドリンクを飲もうとしたものの、もしかして私に言ったのかな、と念のため振り返った。するとそこには、何となく見覚えのある男の子がコンビニのふくろを提げて立っていた。
先生ではない。同僚でもない。患者さんでもない。でも、私の目を見てにこにこしている。
誰なのか困っているのが見取れたのか、彼はちょっとしばたいたあと、子供っぽくむくれてみせた。
「俺、夜勤の見まわりのとき、顔合わせてますよ?」
「見まわり──」
少し考え、彼の顔をもう一度見た私は、やっと「あっ」と思い当って声を出した。
「警備員さん」
「そうです!」
「あー、と、ごめんなさい。ちょっと今、疲れてぼーっとしてて。すみません」
「いえいえ。思い出してもらえてほっとしました」
にっこりした彼を見て、今、人と会話できるテンションじゃないんだけどなあと思いつつ、一応同じ職場になる人にそんな失礼なことも言えない。私がエナジードリンクを飲むと、「そういうの効きます?」と彼は首をかしげた。
「まあ、気休め程度には」
「俺も眠気覚ましとかは飲みますけどねー」
「そうですね、夜勤は……あ、えっと──今日、夜勤でいましたよね」
憶えていたというより、今ここにいるということから推測して言ってみると、「はい」と彼はうなずいた。
「そして、今から大学です」
「大学……えっ、学生さん?」
「そうですよ。昼は学生、夜はバイトです」
「いつ寝てるんですか……?」
「………、授業中?」
自分で言っておきながら首をかたむけた彼に、「それダメですよ」と突っ込むと、「ですよねー」と彼はやっぱりにこにこしている。だいぶ若く見えるけど、いくつくらいなのだろう。
「看護師さん、訊いてもいいですか」
「ん、何ですか?」
「お名前って」
「ああ、結賀です。結賀陽」
「ヒナタさん」
私の名前の口の中に転がし、彼はひとり納得している。これは、私も名前を訊き返す流れなのか。あまり興味がないというか、今言ってもらっても憶えられるか分からないのだけど。
「ええと、警備員さんのお名前は」
「伊元律です」
「リツ、くん? 何かかわいいですね」
「男にかわいいとか言っちゃダメです」
「はは、ごめんなさい」
私が咲って言うと、律くんはこちらを見つめて、何やら満足げに微笑んだ。そして、「引き止めてすみませんでした」とようやく切り上げるきざしを見せる。
「そろそろ大学行ってきます」
「そっか。いってらっしゃい」
「はいっ。陽さんはゆっくり休んでください」
「ありがとう。帰ったら秒で寝ます」
律くんはころころと笑い、「よしっ」とつぶやくと裏門のほうへ歩き出した。その背中が光に霞んでいくのを見送り、エナジードリンクの残りをごくっと飲み干す。
ちょっと視界の色合いがマシになったかも。そう思えたので、コンビニに設置されているゴミ箱に空瓶を捨て、私も足を踏み出した。
ピンクの花びらをはらんだ暖かい風に、ショートの髪が揺れる。仕事中はヘアピンで留めている前髪が視界にすべり落ちたので、無意識に指先で梳きながら、駅までの道のりを急ぐ。
去年までは、このあと久さんと過ごす余力があったのにな。あの人と別れて、私は一気にアラサーとして老けこんだ気がする。
「あのさ、陽。僕、結婚することになったんだ」
久さんとは、二年前の五月につきあいはじめた。同じ病棟のお医者様で、歳は八歳年上。告白したのは私のほうだった。久さんはびっくりしていたけど、「僕も結賀さん素敵だなって思ってた」と交際に応じてくれたときは、へたっとその場に座りこんでしまいそうに嬉しかった。
おっとりした雰囲気が人気の先生だったから、ひがまれるのも鬱陶しかったし、周りにつきあいは隠していた。お互いの仕事が仕事だから、あまりデートとかには行けなかった。どうにか時間を見つけて、久さんの部屋で過ごして愛しあうことが多かった。
男の人とつきあうのは初めてではなかったけれど、結婚したいなあとか、赤ちゃん欲しいなあとか、そういうことまで考えたのは久さんが初めてだった。だから去年の初冬、久さんが突然ベッドでそう告げたとき、抱かれた余韻にぐったりしていた私は、とっさに問い返す声も出なかった。
「僕が好きなのは陽だよ。それはほんとに。でも、もう親が勝手に相手を決めてるんだ」
私は隣に横たわる久さんを見つめた。久さんは眼鏡をかけ、仰向けになってため息をつく。
「子供の頃から、お前は医者になってこの子と結婚するんだって言われてて。幼なじみだけど、僕と彼女は言うほど仲良くない。でも、親同士が決めてた」
「……好きじゃない人と、結婚するの?」
久さんは哀しそうに私を見た。そのまなざしで、彼が本当に望まない結婚を受け入れようとしていることが分かった。
「そんな──私、そんなの納得できない」
「僕もできないよ。ほんとは陽を幸せにしたい。でも、君を連れて逃げても、僕の親は陽を責めるだけだ」
「……久さん」
「せめて陽を傷つけないためには、親に君の存在を知られないまま別れることなんだ」
「そんな、」
「それとも、陽は僕のために闘える? さんざん、僕の幼なじみと較べられてひどいことを言われるよ」
「……その幼なじみの人は、何してる人なの」
「女医だよ。クリニックの産婦人科を経営してる」
目を伏せた。それは──ただの看護師が刃向かえる相手ではなさそうだ。
「陽、大好きだよ。その気持ちは、ずっと変わらないと思うけど」
久さんを見る。優しい瞳が濡れている。
「それでも、これ以上つきあってたら君が傷つく。それは嫌なんだ。だから──僕たち、別れよう」
私は泣き出して、首を横に振った。「陽」と久さんは私の名前を何度も呼んで、胸に抱き寄せて、頭を撫でてくれた。
嫌だ。別れたくない。離れたくない。渡したくない。
私、本当にこの人となら結婚したいと思ったのに。お腹に赤ちゃんが芽生えたら幸せだと思ったのに。何で、この人は親の言いつけなんかを守って、好きでもない人を妻にして、自分の心を殺すの?
その後、久さんが永年のフィアンセと結婚することが職場でも知られた。久さんのファンだった子たちはみんなショックを受けていたけど、「子供の頃から決まっていた相手」というのは大きいらしく、太刀打ちできないと思ったのか仕方なく受け入れていた。
もし、私が結婚相手として紹介されていたら、意地悪とかされていたのかもしれないな。そう思うと、久さんはそういうものからも私を守ってくれたのだと気づく。
別れても職場は同じだから、私と久さんは顔を合わせるし、会話することもある。でも、仕事中に親しく接さないのは以前からのふたりの約束で。淡々とした久さんに、私も淡々とした態度を取る。
ただ、そんなやりとりのあとで「さっき冷たくてごめんね」なんてあとで謝られることはない。もう私は久さんにとって、優しくする必要もない、特別でも何でもない他人なのだ。
久さんは今、幸せなのだろうか。幼なじみの相手が実はずっと想い人だったなんて、そういうのもつらいけれど。何とも想っていない相手と、いわば政略結婚をさせられたのなら、それだって心配だ。
久さんは、愛情のない家庭で疲れていない? 私が幸せにしたかったのに。ううん、今でも私が癒やすことができたらと思っている。
不倫なんてとんでもないのは分かっている。久さんがそういうことには踏み切らない人なのも分かっている。それでも、愛人でもいいから久さんのそばにいて、安らぎになれる存在になれるのなら──そんなことを、ふらふらと考えるときがある。
【第二話へ】
