部屋に帰宅すると、荷物を床に投げてリビングのソファにどさっと軆を投げる。
化粧落として。シャワー浴びて。着替えもして。分かっているけれど、全身が重たくてため息しか出ない。
零時から八時間働いて、引き継ぎとかばたばたして、夜勤上がりは病院を出るのが九時前になる。それから、ひと駅離れたこの部屋まで三十分。時刻は午前十時が近い。
秀がいた頃は、何だかんだでよかったな。秀は私の従弟で、まじめでおとなしい男の子だと思っていたのだけど、実は女装するわ夜はふらふら遊ぶわ、なかなかおもしろい子だった。
秀がこちらで専門学校に通っていた四年間、私たちはこの部屋で同居していた。生活はばらばらだったから、そんなにこの部屋で一緒にゆっくりしたことはないのだけど、時間が合えば飲みにいったりしたっけ。
心理士の勉強をしていた秀は、今は実家に帰って叔父さんのメンタルクリニックを手伝っている。
「あのね、陽ねえちゃん。僕、ずっと好きだった男の子とつきあえることになったよ」
実家に帰る少し前、秀は嬉しそうにそう報告してくれた。「やったじゃん」と私が返すと、「こっちで知り合った子だから、遠距離になるけどねー」と秀は吐息をつき、「でも大丈夫だと思う」と力強く続けた。
私は秀に久さんのことを話していなかったから、このとき、話そうかなと思った。でもやっぱり、ちゃんと決まってからがいいかなと黙っていた。
ちゃんとって何だろうな、と今思い返すと笑えてくる。本当に、結婚すると思っていた。だから、そのとき報告したほうが秀も喜んでくれるかなって。
バカみたい。話しておけば、私は秀に泣き言を聞いてもらえたのに。どう職場に伝わってしまうか心配で、友達にも話していなかった。秀なら、そういう心配もなかった。何であの子には話しておかなかったんだろう。
何とか軆を引きずり起こすと、私はかろうじてオフモードに着替えて、寝室のベッドにもぐりこんだ。
部屋に着いたら秒で寝るとか言っておいて、あっという間に昼前だ。今夜も夜勤だし、ちゃんと寝ておかないと。
そういえば、病院のコンビニで会った男の子って、名前何だっけ。やばいな、やっぱり忘れちゃった──そんなことを思っているうちに、のめりこむように眠りに落ちてしまった。
翌日、ぼんやり腑抜けていたいのを振り切って出勤すると、更衣室で同じく夜勤の同僚が何やらうわさ話に興じていた。そういうのはあまり自分から聞かないようにするのだけど、「芹澤先生、可哀想ですよねー」という久さんの名字が聞こえたので、振り返ってしまった。
それに気づいた同僚ふたりは、口をつぐむこともなく、「結賀さんは聞いてない?」なんて巻きこんでくる。私は曖昧に笑って、「芹澤先生、どうかしたんですか?」と首をかしげておく。
「奥様、もうおめでたらしいですよ」
「えっ──」
どきんと心臓が黒くなる。おめでた。……そうなんだ。
いや、でも、おめでたの話で「可哀想」って何だろう。よく分からずにいると、それを察したのか「芹澤先生が結婚したのって、一月でしょう?」と先輩に当たる同僚は続ける。
「すぐにでも、って感じじゃないですか?」
「新婚生活楽しむ気もないのが見え見えですよねー」
もうひとりの、私の後輩になる子はうんうんとうなずく。私は視線を落とし、ひとつの不安を覚える。結婚して三ヵ月で妊娠。不自然ではない。でもやっぱり早い。もしかして──
「で、も……結婚前から、親しかったなら。その……以前から交渉があったり。奥様、幼なじみって聞きましたけど」
「あ、それはないですね」
あっさり言われてきょとんとすると、病棟の人間関係を把握するのが大好きなその先輩は「結賀さん、知らないんですか?」と常識を疑われるように言われる。
「芹澤先生、完全に家のために結婚しただけなんですから」
「そ、そう……なんですか?」
「奥様のおとうさまが、芹澤先生をお産で取り上げた先生なんですよ。そのご縁で、奥様との結婚は無理やり親同士で決めただけのことなんです」
「芹澤先生、たまんないですよねー。可哀想」
「ほんとですよ。しかも、奥様ってもう四十代だそうですから、まあ子作りには必死になりますよね」
そう、なのか。奥さんになる人のことは、私はあえて久さんには何も訊かなかった。
「きっと、奥様の計画通りにすべて進められてるんだと思いますよ」
「愛のない家庭ですねー。生まれてくるお子さんも可哀想」
「医者に育てられるだけでしょうしねえ。ああ、芹澤先生ならもっといい人がいたでしょうに」
私はロッカーに向き直り、心がざわざわとした黒雲で満ちていくのを感じた。
久さん。……大丈夫、なのかな。
私のことを幸せにしたかった、って言ってくれた。都合のいい言葉だと思って、信じるのをこらえていたけど、あれは本当だったの? 私と結ばれたいって思ってくれていたの? なのに家に従って、愛もなく行為をして、子供を授かったの? あなたの赤ちゃんは、本来、私がこのお腹に宿すはずだった。もしそうなっていたら、それこそが久さんの幸せだったの? だったら、どうして──
夜勤に入ってからも、集中を気に留めておかないと上の空になりそうだった。ああ、私、まだ久さんが好きなんだな。あの人が幸せじゃないかもしれないことが、こんなにも胸にかき乱す。
私はもう何もできないの? どうしても家のために奥さんと別れられないなら、私は一生日陰でもいいから、せめて久さんの癒やしになりたい。
あの人の穏やかな笑顔が何よりも大好きだった。大切だった。それを守ることは、私には不可能なのかな。
午前四時が近づいて、私は巡回のためにナースステーションを出た。慣れた病院とはいえ、やっぱり懐中電灯ひとつで暗い廊下を歩いていくのは身がすくむ。病室もひとつひとつ見てまわり、異変が起きていないか気を研ぐ。
二階も三階も何事もなく、私は一階に戻って、階段からナースステーションまでの中庭に面した廊下を歩いた。中庭の桜が月光に照らされている。その桜を見つめて、そういえばあの桜を久さんと眺めたことがあると思った。
ちょうど一年くらい前、今日と同じように私は夜勤で、久さんもそうだった。少し具合の悪くなった患者さんがいて、その患者さんはさいわいお薬を処方されたことで落ち着いたけど、久さんはちょっと疲れた様子で、少し外の空気を吸うとあの桜の元に行った。
久さんが心配で、私はお手洗いとか何とか言ってそれを追いかけた。「久さん」と声をかけると、白衣の彼は驚いたように振り向いたものの、私だと認めると、眼鏡の奥で柔らかく微笑んだ。
「大丈夫? 連勤だから疲れてるよね」
私がそう言って隣に並ぶと、「ちょっとね」と久さんは苦笑してみせた。
「僕がくたくたになるのはいいんだけど、それで判断力がにぶって患者さんに何かあったらと思うと心配で」
「患者さんが心配なんだ」
「それはもちろん」
「私は、疲れてるときのミスは、主任に怒られないかが一番心配」
久さんは私を小突いて、私は咲ってしまう。久さんは桜を見上げて、私は月明かりの射すその横顔を綺麗だなあと思う。
「もうすぐ一年だね」
「えっ」
「陽とつきあいはじめて。五月だった」
「……憶えててくれたんだ」
「忘れないよ。嬉しかったから」
私ははにかんで咲い、「葉桜になったら、お祝いできるといいね」と言った。「うん」と久さんはうなずく。
「休みを合わせたこともないもんね。ごめんね」
「ううん。みんなに感づかれてもいけないし」
「僕は陽と一日ゆっくり過ごしてみたいなあ」
「それは、私もだけどっ。やっぱ、その、久さんは人気だから。恋人が、私……なんてって、言う人もいるだろうし」
「分かってる。まあ、僕は陽なんてとか言う人は少ないと思うけど」
「久さんは自分の人気を分かってないよ」
「はは、そうなのかなあ。僕なんて……」
私も桜を見上げた。あふれそうに満開に咲き誇った桜は、月に透き通るピンクの花びらを、ひらりひらりと儚くこぼす。
ずっと、久さんとこうして桜を見ていたいと思った。この病院の桜じゃなくなっても、春になったら、並んでどこかの桜を見れる関係でいたかった。久さんもそう思ってくれていたと思う。なのに──
あのとき、久さんは私を先に帰して、しばらくしたのち、自分も戻ってきていた。来年も桜見ようねって、そういえば言えなかったっけ。言わなくても、そんなの当たり前に果たされる約束だと思っていた。でも今、私はひとりぼっちで桜を眺めている。
つらいなあ、と心がきしむのを感じながら、私はナースステーションに戻った。「何かあった?」と桜を見てぼんやりしたぶん、ちょっと遅かったのを先輩に目敏く訊かれたものの、「いえ、大丈夫です」と答えて私は仕事につく。
そして夜勤を終え、引き継ぎのときに日勤の久さんと顔を合わせた。「奥様、おめでとうございます」と言われたりしていて、「ありがとう」と久さんは少し照れた感じでも微笑んでいた。
でも、裏であんなふうに言われていることは、久さんだって分かっていると思う。きっとつらい想いをしているのに、私は彼に何もできない。その距離が苦しくて、ふと目が合ったとき、私は何も言わずに会釈してその場を離れることしかできなかった。
更衣室で着替えを済ますと、一気に疲れが押し寄せ、軆がだるく重くなる。明日──というか、今日は準夜勤だから、早く帰宅して寝ておかないと軆がもたない。
裏口を出ると、相変わらずコンタクト越しの視界がまぶしく感じられる。眠ったあとのごはんを買って帰っておこうと思い、いつも通りコンビニに立ち寄った。
おにぎりの陳列の前でぼーっとしてしまっていると、「陽さん、お疲れ様です」と不意に声がかかって私は振り向く。
「あ……どうも」
そこにいたのは、先日の大学生の警備員くんだった。名前は──ああ、訊いたのは憶えてるけど、忘れちゃったな。今、この子は『陽さん』って私の名前を呼んでくれたのに。
「今日はおにぎりなんですね」
「あ……はは、仕事前に作ってるヒマなさそうなんで」
「今夜も夜勤ですか」
「準夜勤です。十八時から二時まで」
「午前二時?」
「そうですね」
「帰り道、危ないじゃないですか」
「タクシーですよ。さすがに」
「そっか。いや、でも今はタクシーも何かと危ないから」
「はは。じゃあ、迎えにきてくれる彼氏を見つけないといけませんね」
「いないんですか?」
「いないですねー」
苦笑しながら私はツナマヨのおにぎりを選び、奥のペットボトルのコーナーに移る。一番安い緑茶を手に取る。なぜかついてきた警備員くんは、「陽さんってお休みないんですか」とか訊いてくる。
「ありますけど、ほんとにお休みですよ。寝てるだけ」
「それなら、あんまり無理は言えないって分かってるんですけど」
「うん?」
「今度、一緒にごはん行きませんか」
私は警備員くんを見た。警備員くんはわずかに頬を染めて、私を見つめてくる。私はあやふやに咲うと、「彼氏はいないけど」とペットボトルのケースの扉を閉める。
「元彼をかなり引きずってるから、そういうのまだ無理かな。ごめんなさい」
私の言葉に、警備員くんは見るからにしゅんとして、「そうですか……」とうつむいた。私は小さく咲ってから、「気持ちは嬉しいから、ありがとう」と言った。警備員くんは顔を上げ、「元彼が吹っ切れたら、教えてくださいね」と言う。
「その頃には、もう君に彼女がいるんじゃないかな」
「そんな簡単に彼女なんかできないですよ」
「……そっか。うん、そのときはね」
宛てもない言葉なのに、警備員くんは気を持ち直した様子で、嬉しそうにこくんとした。そんな彼の幼さの名残る顔立ちを見て、久さんのことがなければ、けっこう浮かれてデートぐらいOKしてただろうなあなんて考える。
「あ、でも、君っていくつでしたっけ」
「十九です」
あ、前言撤回しなきゃ。十代とデートはなかった。
「でも、今年二十歳になりますよっ。大学二年の十九なんで」
私の心を読んだのか警備員くんは懸命に補足する。いや、二十歳でも──私は今年二十八歳になるから、八歳差。
ない、と思ったものの、よく考えたら久さんと私も八歳差なのか。それに気づくと、私は「歳は関係ないよね」とつぶやいて、「ないですっ」と警備員くんもうなずく。
「じゃあ、そのうち──まだ君が私とごはん食べてくれるなら」
「そう言ってくれるなら、俺、マジで待ちますよ」
「……ありがと。私もあの人を忘れなきゃいけないから」
そう言って微笑むと、私は警備員くんとすれ違って、おにぎりとお茶をレジに通した。コンビニを出ると、彼を待つことなく朝陽の中を歩いていく。
疲労で頭の芯がくらくらする。ぼんやりするままあの子の名前を思い出そうとしたけど、結局思い出せなかった。
【第三話へ】
