帰宅して、寝落ちる前に何とかスマホの着信をチェックした。秀からメッセが来ている。何だろうと開いてみると、『今月、彼氏に会いにそっち行くから、陽ねえちゃんと焼き鳥も食べたい!』とあった。
焼き鳥なら大将のお店のことだろう。そういえば、ここのところ特に仕事に追われて顔を出せていない。『オフか日勤の日だったら、夜に大将の店でおごってあげる。』と返しておくと、うとうとしていた私は、すぐに意識を手放してしまった。
夢も見ない深い眠りののち、十六時頃にどうにか起き上がった。スマホのランプが睫毛で霞み、無意識に手に取ると、秀から返信が来ていた。
こちらに来るのはゴールデイウィークらしい。それなら私もオフだったので、目をこすってあくびをしたあと、一緒に飲みにいく約束を交わした。久さんのこと、あの子に話してみようかな。そんなことも考えながら、まずはシャワーを浴びにいく。
出勤すると、準夜勤の私たちと入れ違いに日勤だったメンバーが帰りはじめる。その中には久さんもいて、すごく自然に「お疲れ様です」と言われたので、私にだけ言わないのは逆におかしいからだ、と自分に言い聞かせて「お疲れ様です」と応じた。
それ以上は何事もなく久さんは去っていき、私は周りに気づかれないようにため息をつく。ほんとに他人だなあ、とこんなふうに実感するたび、肺に針で穴を開けられたみたいに呼吸がうまくいかなくなる。
その夜も何かとあわただしく過ぎ、気づいたら夜勤の人たちが現れていた。引き継ぎを済ますと更衣室で着替えて、タクシーを呼ぶ前に給湯室でコーヒーを淹れる。
「結賀さん、出勤続いてますねえ」
同じく準夜勤だった同僚に言われ、「明日やっとオフです」と私は苦笑いしてコーヒーをすする。「四月で先生方も入れ替わったから、気を遣いますよねー」と同僚は背伸びをし、「ほんとですね」と答えつつ、久さんがいつかこの病院から離任したらほんとに他人だなあと思った。
もうタクシーを呼んでいるからと同僚が出ていっても、私は壁にもたれてぼんやりしていた。軆重いなあ、と思いつつ、コーヒーを飲み干すとカップをシンクで洗っておく。バッグを肩にかけて廊下に出ると、そのままナースステーションの前を通って帰ろうとした。
「……あ、タクシー」
けれど、そうつぶやいて立ち止まる。もう、ほんとにぼさっとしている。帰る前に裏門にタクシーを呼んでおかないといけなかった。仕方なく、私はその場でスマホからタクシーを呼ぶ。十分くらい時間が余ることになり、何心なく、私は中庭の桜の木に足を向けていた。
誰もいないと思っていたので、そこに人影を見つけたときはどきりと身構えてしまった。眠れない患者さんかな。夜間に病棟を勝手に出るのは禁止だけど、それでもたまにそういう患者さんがいる。
でも、よく見ると患者さんたちのパジャマのような身なりでなく、ワイシャツとスラックスで──そのすらりとしたシルエットに、私は息を飲んだ。
「久、さん……?」
思わず名前を呼んでしまうと、夜桜を見上げていたその人は、はっとした様子でこちらを振り返った。眼鏡をかけた愛おしい面差し──
「……陽」と久さんも私を名前で呼んだから、一気に涙があふれそうになった。私はバッグの持ち手を握りしめ、深呼吸してから久さんに歩み寄る。
「もう、お帰りになったと思ってました」
一応敬語を使って問うと、久さんはうやむやに咲って「夫婦喧嘩しちゃって」と言った。心臓がどくんと脈打つ。
「結婚してから、わりとしょっちゅうなんだけどね。そういうとき、よくここに来るんだ」
「……職場にですか」
私が弱く咲うと、「……うん」と久さんも弱く微笑む。
「君が、いるからね」
久さんを見上げた。何で。どうして、そんなずるいこと言うの。嬉しくなっちゃいけないのに、どうしても心がふわりと柔らかくなる。
久さんは視線を下げ、「ごめん」とつぶやいた。
「もう……陽に助けてもらう立場じゃないのにね」
「………、」
「でも、つらくて。僕には陽との想い出しかないんだ」
「久さん……」
「僕は何をやってるんだろう。バカみたいだ。陽を傷つけてでも、僕にはこの人がいるって、親に言えばよかった。そんなのを毎日考えてる。一生そうなのかもしれない」
私は顔を伏せる。「ごめんね」と久さんは繰り返した。
今からでも、遅くないよ。そう言ってしまいたかった。私、どんなに傷ついてもいい。久さんの隣にいたい。私があなたを支えたい。つらいなら助けたい。
だけど、実際には、今からでは遅いのだ。だって、久さんの奥さんのお腹には……
「奥様、今は特に不安定なときだと思うので」
「………」
「喧嘩しても、そばにいてあげないといけませんよ」
「……そうだね」
「それに、久さんが思ってるようないい女でもなかったですよ、私」
「陽……」
「打ち明けられたとき、泣くことしかできなかった。『傷ついてもいい』って言ってあげられなかった。やっぱり……久さんのご両親に、奥様と較べられて嫌なこと言われるのが怖かった」
久さんがじっと私を見つめる。月を反射しながら、桜の花びらがはらはらとこぼれていく。久さんの瞳の中で、その夜桜と同じように私の瞳からも雫が落ちていく。
「私こそ、ごめんなさい」
「……君は強いよ」
「そんなこと──」
「だから、君を信じて……さらってしまえばよかったね」
私たちは見つめあって、ああ、結ばれないんだなあと痛感した。今、きっと、私たちは同じことを考えている。
すべて投げ出して、ふたりで逃げてしまいたい。でも、そうすることができない枷が、私のことも、久さんのことも、きつく縛っていて。近づけない。触れられない。かろうじて言葉を交わしても、肝心なことは言えない。
まだあなたが好きだと、私も彼も言えない。
奥様と幸せになってください、という言葉は皮肉で、どう言えばいいのか迷っているうちにスマホが震えた。はっとして画面を確かめると、登録しているタクシー会社の名前が表示されている。
「帰らないと」と私が言うと、「うん」と久さんは引き止めなかった。私は一歩下がり、身を返して歩き出す。でもやっぱり、振り返ってしまった。月に浮かぶ桜の樹の下で、久さんも頬に涙を流していた。すぐに駆け寄って、そんな哀しみはぬぐってあげたかった。でもその衝動を必死にこらえ、目をそらすと、一生ものの傷がついた心を抱えて立ち去った。
裏門に停まっていたタクシーに乗り込み、ドライバーさんにひと言謝って住所を告げると、シートに身を任せた。もう、我慢しなくていいか。そう思うと、ぎゅうっと目頭が絞られて涙が止まらなくなった。
本当に、久さんの手を放してしまった。彼はきっと、私に手をさしだそうとしたのに。遅いことは久さんだって分かっていたと思う、それでも、そうしないと本当につらかったのだろう。
私はその手を拒絶した。日陰でもいい、愛人でもいい、何でもいいから久さんを癒やしたい。そう思っていたのだから、あの手を握り返したって別によかったのに──
翌日の夜から天気がぐずつきはじめて、四月の中旬は雨が続いた。その春雨が、桜の花をすっかり散らせてしまった。
私と久さんの想い出のあの桜も、すっかり満開を過ぎて葉桜になろうとしている。でも、緑が鮮やかな葉桜になっても、今度こそ私と久さんは断ち切られたのだから何もないのだろう。
「陽ねえちゃん、久しぶりーっ」
やっと晴れ間が見えてきた四月の終わり、秀がこちらを訪ねてきた。夕暮れ時、一緒によく飲みにいった飲食街の駅で落ち合った秀は、相変わらず愛らしく女装していた。「その格好で仕事してるの?」と訊いてみると、「ナース服着て仕事してるよね」と秀はからからと笑う。
「叔父さん、よく許したね」
「おとうさんが『お前はこっちだろ』って用意してたんだよ」
「うちの病院じゃ考えられないなあ」
「大きいとこだとねー。うちも小さいなりに患者さん増えたよ。患者さんが増えるのって、いいことではないのかもしれないけど」
「はは。秀も頑張ってる?」
「最近の子、なかなか複雑だけどね。ちょっとずつ気持ち話してくれるようになってく子とか嬉しいよ」
「そっか。彼氏くんとはいつ合流するの?」
「講義済んだら、大将のとこ来るって」
「そっか。じゃあ、まだ十八時前だけど、お店行っちゃいますか。十七時からやってるよね」
「大将、陽ねえちゃんが来て喜ぶねえ」
「あの人も、女将さんに何の不満があって私なんだか」
「何だかんだで、大将は女将さんに惚れ込んでる気はする」
「ふふ、それを信頼してもらってる安心感なのかもね」
私は咲って歩き出し、秀はその隣に並ぶ。身長は秀のほうが高い。
慣れた足取りですいすいと人混みを縫いながら、秀と彼氏くんについていろいろ訊いていると、「陽ねえちゃんは?」とふと秀は首をかたむけた。
「えっ」
「いや、陽ねえちゃんはいないのかなーって」
どきりとして秀を見る。自分のこと話しづらいからって、秀に話させすぎたかな。
「そういえば、そんな話、聞いたことないや」
かつかつ、と雑音の中にもヒールを響かせる秀を見て、さすがに鋭くなったなと思う。
「うん──」
ちょっとまどろっこしい口調ながらも、私は白状する。
「その話をね、秀には聞いてもらおうと思って」
秀は私に顔を向け、「いるんだ」と言った。私は首を横に振り、「いたの」と過去形に訂正した。
「まだ好きなんだけど、もうダメだっていうのも、よく分かってる」
「……つらいね」
「うん。まあ、お店で話すね」
「陽ねえちゃんの恋バナは大将が泣くなあ」
秀の言葉に笑ってしまいつつ、茜色に染まるにぎやかな街並みを眺めた。あちこちのお店から、食欲をそそるいい匂いがただよっている。もうすぐ五月で、気候も暖まって、行き交う人にはすでに半袖の人も多い。
本当なら久さんとつきあって三度目の初夏だった。秀には笑顔で言いたかった。「私、結婚するの」って──言いたかった。
【第四話へ】
