夜桜の雫-4

「おっ、陽ちゃんじゃないか。ひーちゃんも一緒か」
 路地に面した隠れ家のようなお店に到着して、秀と連れ立って顔を出すと、カウンターの中で快活そうな大将が今日も焼き鳥を焼いていた。休日の早い時間なのに、お客さんはそこそこ入っている。「やっぱ焼き鳥はここだよねえ」と秀は嬉しそうにカウンターの席に着き、私もその隣に腰をおろす。
「陽ちゃん、来てくれるの久しぶりだなあ。寂しかったぞ」
「去年の忘年会で使わせてもらったとき以来ですよね。失礼致しました」
「うん、あのときだいぶ空元気出してたけど、大丈夫みたいだな」
 私はきょとんと大将を見て、それから、「大将って若いときモテたでしょう」なんてくすりとしてしまう。
「ん? まあ、昔は──いやいや、今は陽ちゃんに相手にしてもらえないしがない親父だよ」
「大将があと二十若かったら考えますけどね」
「二十? そいつは厳しいなあ」
 大きく笑った大将に、「とりあえず、ねぎまとつくね!」と秀が割って入って注文する。「おうよ」と大将は請け合い、「陽ちゃんはどれからいこうか」と私にも振ってくれる。「はつとなんこつを塩で。あと、ピーチウーロンを」と注文すると、「あっ、僕はジントニック」と秀が追加する。その注文を伝票に書きつけた大将は調理を始め、私と秀は顔を合わせた。
「その人ともこの店には来たの?」
 秀の質問に、「ううん。来たことない」と私は応じる。
「デートとかする余裕があんまりない人だったの。お医者様だから」
「医者かあ。職場の人ってこと?」
「そうだね。今も同じ病棟で働いてる」
「え、すげーしんどい奴じゃん」
 私は苦笑し、それから、久さんとのことを秀に打ち明けていった。
 出逢って、告白して、つきあって──結婚まで考えた。赤ちゃんが欲しいと思った。でも、あの人は親に逆らえずに好きでもない人と結婚した。その奥さんと実際うまくいっていない。このあいだは私に助けを求めようとした。私はその手を振りはらったけど──
「それでよかったのか、まだ分からない」
 私がなんこつを噛みしめると、「ううーん」と秀は腕組みをして天井を仰いだ。茶々を入れてくるかと思った大将は、意外と私たちをそっとしていて、そういうとこ優しいんだからと思う。
「不倫は、まあ、よくないかなあと僕は思うから」
「うん」
「陽ねえちゃんの言う通り、奥さんが妊娠してなかったら離婚とかで引き返せたかもしれないけど、もう無理だよねえ」
「私もそう思う。だから、……よかったんだよね」
「でも、その人の気持ちはずっと陽ねえちゃんにあるんだろうね。そんな感じはする」
「………、私も、ずっとあの人が好きだと思う」
「両想いなのにうまくいかないのかー。相手の親も、この時代に子供の結婚相手を決めつけるって何なの。おかしいよ」
「たぶん、奥様もあの人を愛してるわけではないんだよね。ただ、もう子供を生んでおかなきゃいけないといけない歳だから」
「その奥さんには本命とかいなかったのかな」
「………、考えたことないけど、どうなのかな。いたとしても、彼と同じようにあきらめたのかもしれない」
「好きでもないのに、家のためかあ。分からん。生まれてくる子も可哀想だよね。いつか親が愛しあってないことには気づくだろうし」
「……それは、私も心配」
「その人も、陽ねえちゃんとの子供が欲しかっただろうね。そしたら、すごく愛情そそいでくれてたと思う」
 ピーチウーロンを飲み、「うん」と私はうつむいた。私との子供を授かっていたら、久さんはその子を本当にかわいがってくれていただろう。そんな予想すらつくのに、どうして私と久さんは結ばれないのだろう。
「名前は忘れたんだけど」
「ん?」
「ごはん行きませんかって誘ってくれてる男の子がいるの」
「あ、そうなの」
「思い切って、その子のことを前向きに考えたほうがいいのかな」
「陽ねえちゃん、それで幸せになれる?」
「分からない。だいたい、その子まだ十代だよ。今年二十歳って言ってた」
「マジで。僕の彼氏とタメじゃん」
「ないよねえ、十九と二十七」
「ないことはないと思うよ。いい人だったら、ごはんくらいいいんじゃない?」
「そうなのかな。こんなに、あの人を引きずってる状態なんだよ」
「それは、陽ねえちゃんの一部になっちゃってるんだよ。無理に切り落とすのも心が痛いでしょ。忘れられない人っていてもいいと思う。ただ、それにすがってるのはあんまりよくないね」
 私はため息をつき、忘れられないよなあと目を伏せた。久さんと恋をしたことを捨てるなんてできない。
 でも、きっともう読まなくなった本みたいに、棚にしまって飾っておくべきなのだ。そして、たまに読み返すくらいにして、毎晩同じ物語をたどるのはやめる。新しい本を読みはじめないといけない。
 そのとき、「秀さん、遅くなってすみません」と声がかかって私と秀はそちらを向いた。キャップをかぶったパーカーとスウェットの男の子で、「誠くん」と秀がぱあっと笑顔になる。立ち上がってその子に駆け寄り、男の子のほうも秀を見つめてはにかんで微笑む。
 彼氏くんか、とその様子で察していると、「陽ねえちゃん、この人がね」と秀はその誠くんという男の子を紹介してくれた。誠くんは奥手そうに視線を伏せがちにしつつ、「初めまして」と私に頭を下げる。私も同じ言葉を返し、秀にしては純朴そうな男の子を選んだなと思った。
 それから三人で大将の焼き鳥を味わって、約束通り私がおごった。誠くんは「いや、俺のぶんは」と遠慮しようとしたものの、「いいのいいの」と私がはらっておく。お会計のとき、「飯誘ってるって男は、一度うちに連れてきな」と大将がにやりとして、「そのときはお願いします」と私は笑ってしまった。
 お店を出ると、秀と誠くんは飲みなおしてそのあとホテルでも行くそうだ。「誰かに話せてすっきりした」と私がお礼を言うと、秀はうなずき、「陽ねえちゃんも幸せになってね」と軽くハグしてくれた。秀の香りがすごく優しかった。
 連休のあいだは、秀と話したことを考えていた。
 前進しなくてはいけないのだろう。夜桜の日、私は久さんの手を離した。泣いている彼を見捨てた。久さんと結ばれない現実は、哀しいし寂しいけど、終わりを受け入れないと。そして、未来を見ようと思うなら──
 五月になって連休が明け、さっそく夜勤があった。朝コンビニで会えるかなと思ったけど、夜勤のたび会えているわけではないから、声をかけてもらえる保証はない。
 巡回のとき、警備室まで出向いて窓口を覗いた。制服すがたのあの子は、スマホを熱心にいじっていた。「仕事中にスマホはどうかと思います」と声をかけると、彼ははっと顔を上げ、私の顔を認めてまばたく。
「それとも、緊急の連絡ですか?」
 彼は気まずそうにスマホの画面を私に見せ、「……ゲームですね」と正直に謝る。
「えーっと、どうかしましたか」
「警備員さんって、ふたりじゃなかったですか?」
「先輩は煙草吸いに出てます」
「警備してほしいなあ」と私は苦笑いしたものの、まあこの場合は、「先輩」が席を外していることに感謝しておく。
「あのですね」
「はい」
「私、よく行く焼き鳥屋さんがあるんです。よかったら、今度ご一緒してもらえないかと」
 彼はさらにまばたきをした。それから、ひとまず手にしたままだったスマホをデスクに置くと、窓口に歩み寄ってくる。
「何か、こないだ俺って華麗に振られたような」
「振ってはないですよ」
「……けっこうあきらめモードでした」
「もう遅いですか」
「いやっ、ぜんぜん。焼き鳥……ですか」
「好きじゃないですか?」
「店まで行って食ったことはないですけど、食べますよ」
「じゃあ、」
「あ、あのっ」とさえぎってきた彼に、「はい」と首をかしげると、やや言いよどんで彼は言う。
「俺……その、見たんですよね」
「え」
「連休前、夜中に、陽さんが男と桜の下で話してるの」
 目を開いた。「陽さん、泣いてたし」と彼はうつむく。
「男のほうも泣いてました。何か、うまくいってないけど、愛しあってるのは伝わってきて」
「……そうですか」
「俺が割りこむなんて無理かな……とも、思って」
 私は彼を見つめて、胸元の名札を見た。伊元律。……そうだ、律くんだ。かわいい名前だって言ったら、ちょっと怒られたっけ。
「じゃあ、ごはんも無理ですか」
「………、ほんとに、あの男とはいいんですか」
「……まあ、彼には、奥さんもいますしね」
「はっ? 最低じゃないですか」
「最低」
「あ、すみません。陽さんの好きな人なのに」
「いえ、そうですね。最低です。臆病だし、ずるいし、ほんとどうしようもない人」
 律くんは私を見つめて、「好きなんですね」と哀しそうに言った。私は微笑むと、「でも忘れなきゃいけないんです」と律くんの瞳を見つめ返す。
「忘れさせてほしいって言ったら、重いですか?」
 律くんは私をじっと見て、何か言おうとした。そのとき、「えっ、何かありましたか」と慌てたような声がして、はたとそちらを見ると、おじさんの警備員さんが駆け寄ってきていた。「いえ、何もないですよ」と私は笑みを作ると、そんなに都合よくいかないかあ、と少しうぬぼれていたらしい自分を感じ、その場を離れようとした。けれど、「看護師さん」と律くんの声がして振り返る。律くんは窓口から身を乗り出していた。
「俺、その、今日の朝もコンビニにいますんで──とりあえず、そのとき、連絡先だけでも」
 そう言って恥ずかしそうに顔を伏せた律くんに、「お前、何、看護師さんをナンパしてるんだ」とおじさんがその頭をはたく。「痛てっ」と頭を押さえた律くんに私は噴き出し、「すみませんねえ」とおじさんは頭を下げた。「いえいえ」と私は首を振ると、考えるふりをしたあと、「そうですね、まずは連絡先を」と律くんににっこりしてから身を返した。
 一瞬沈黙が置かれたのち、「何だ、お前やるじゃないか」と背後に拍子抜けたおじさんの声がして、「……あの人はこれからですよ」という律くんの答えが続いた。
 これから。うん。そうだね。私はこれからだ。
 桜の花びらはもうこぼれ落ちた。あの夜、私も久さんもお互いを終わらせた。夜桜の雫のあと、私は朝を迎える。葉桜の朝、想い出は置き去りにして、新しい世界に飛び出す。
 それが律くんとの世界であるか、はっきりとは分からない。でも、たとえ律くんと何も芽吹かなくても、彼に感謝はしなきゃ。私に切っかけを与えてくれるのは確かなのだから。
 さよなら、おやすみ、大好きだった。きっと忘れないけど、思い出すのはもうやめよう。
 私にも朝は来るんだから。これからの幸せだってあるんだから。初夏が始まる。私も新しい想い出を作ろう。あふれかえった桃色が、さわやかな新緑に塗り替わっていくように。

 FIN

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