私には自慢のおにいちゃんがいる。すっごくかっこいいし、最高に優しいし、めちゃくちゃ頭もいい。
だから、正直に言うと、おにいが家に彼女さんである紗琴さんを連れてきたときは、ちょっとだけ複雑な気持ちになった。でも、ほんとにちょっとだけ。
だって、紗琴さんがとても素敵な人なのはすぐ分かったし、その隣にいておにいも見たことがないくらい幸せそうだったから。
妹である私がおにいのためにできることは、紗琴さんを悪い虫あつかいして締め出すことじゃない。一緒に紗琴さんの魅力を受け入れて、歓迎すること。
そして私も、おとうさんもおかあさんも、すっかり紗琴さんが将来のお嫁さんとして大好きになった頃──そう、私が中学を卒業して、高校生になるのをひかえた春のことだった。
おにいと紗琴さんが、私たち家族には打ち明けたいことがあると話を持ちかけてきた。あんまり真剣な表情だから、まさかお別れじゃないよねと私は不安になった。
「何も話さずに、黙って、このままでいることもできるけど」
春先の陽射しが射しこむリビングで、座卓を囲みながら、おにいは静かに切り出した。隣の紗琴さんが少しうつむく。
「紗琴が、僕の家族なら知っておいてほしいって言ってて。それは──一番大きな理由は、僕たちのあいだに子供はできないからなんだけど」
子供。が、……できない。
とっさに理解できなかったのは、私だけではなかったようで、「それは──何か検査でも受けたのか?」とおとうさんが問う。
「いや、そういうわけじゃなくて。何というか──」
「……紫優くん、私が言う」
「紗琴」
「私の軆のことだから。紫優くんは何も問題ない」
「軆のことって、紗琴ちゃん、もしかして子宮とか卵巣に何かあったの?」
おかあさんの質問に、紗琴さんの肩が揺らぐ。それから、ゆっくり私たちのほうを見た紗琴さんは、「私には、子宮も卵巣もないんです」と言った。励ますように、おにいが紗琴さんの手を握る。
「私は、男として生まれてしまった女なんです」
一瞬、陽だまりができる座卓の空気が、止まった。
男? 男として生まれた? どういうこと?
「今は手術で女性の軆まで入れました。でも、さすがに赤ちゃんまでは授かれません」
紗琴さんの声が震えて、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「ごめんなさい」
私は紗琴さんを見た。ごめんなさい。……なんて、どうして言うの?
「紫優くんは立派な息子さんです。なのに、私みたいな女──女と思っていただけるか分からないですけど、愛してくれて感謝しています」
「……紗琴」
「ご迷惑かもしれません。でも、私もやっぱり紫優くんといたい。一緒に生きていきたい。中学生のときから、私を支えてくれた人なんです」
おとうさんとおかあさんは、まだ言葉が見つからないのか、無言で表情をこわばらせている。紗琴さんは涙ぐんでいて、でもおにいの手をぎゅっと握り返していて。何で、と私は言おうとした。その前に、おにいがおとうさんとおかあさんに頭を下げた。
「僕は紗琴を本当に愛してます」
「紫優……」
「だから、もし紗琴のこと分からないなら、僕は彼女を支えたいから、家族より紗琴を選びます」
おにいの張りつめた面持ちを見つめて、やっぱり自慢のおにいちゃんだと私は思った。こんなに、誰かを心から愛することができる人なんだ。
「……いいじゃん」
そう言うと、はっと四人の視線が来たけど、私は臆さずにまっすぐ続けた。
「私、おにいはやっぱりかっこいいと思う。だって、おにいが私のことも、おとうさんもおかあさんも大事に想ってくれてるのは知ってるもん。それを捨てる覚悟で、紗琴さんを選ぶんでしょ? 守りたいんでしょ? いいじゃない、かっこいいよ」
「紫陽……」
「それにね、紗琴さんは謝ることないと思う。だって紗琴さんは何も悪くないよ。というか、正直に話してくれるくらい、私たちを信頼してくれてるんだよね。そんなの、むしろ嬉しすぎるじゃん。私も紗琴さん大好きだもん」
紗琴さんが私を見つめて、透明な涙をほろほろ落とす。「ありがとう、紫陽ちゃん」と言われて照れ咲いしてから、私はおとうさんとおかあさんを見た。
「孫が欲しいなら、私が生めばいいでしょっ。まだそんな相手いないけどさ。そのうち見つけるから大丈夫!」
私が胸を張ると、おとうさんとおかあさんは顔を見交わし、ようやく笑みをほころばせた。うなずきあったふたりは、紗琴さんに優しいまなざしを向ける。
「ありがとう、紗琴ちゃん。話してくれて。きっとつらい想いも多かっただろう」
おとうさんに言われて、紗琴さんは頬を濡らしながらこくっとうなずく。
「私たちには、紗琴ちゃんはもう立派なお嫁さんよ。もし紫優が違う子を連れてきたら、紫優のほうをしかりたくなるくらいにね」
おかあさんの言葉に、紗琴さんは「ありがとうございます」という言葉を涙で喉に詰まらせる。おにいはそんな紗琴さんの頭を撫でてから、「紫陽、ありがとう」と私に微笑んでくれた。「もう、びっくりしたよっ」と私はにっこりとしてみせる。
「別れ話するかと思ったよー」
「そんなわけないだろ」と心外そうなおにいに、「えー、思ったよねえ」と私はおとうさんとおかあさんに投げかける。「少し考えたね」とおかあさんがくすっとして、「紗琴ちゃんが紫優を見捨てないなら何よりだ」とおとうさんも笑う。
泣いていた紗琴さんも自然と笑みをこぼして、よかった、と私は思った。いまさら、紗琴さんがおにいと結婚することなく、おねえちゃんにならないなんて想像がつかない。
そして四月になり、私は高校生になった。おにいや紗琴さんも通った高校だ。おかあさんが付き添うか心配してくれたけど、「ひとりで大丈夫!」と私はひらひら桜が降る晴天のもと、真新しい制服で高校に向かった。
中学のときに特に仲の良かった子は、将来のために進学校に行ってしまった。私はそれを応援したものの、最初から友達である子がいないのはちょっと寂しくはある。
校門のそばで新入生向けのパンフレットが配布されていて、それにクラス発表も記されていた。そして、書いてあるクラスと出席番号を参考に、入学式が行なわれる体育館に用意した席に座っておけということだった。
体育館どっちかな、と歩きながら地図のページを開いていると、通りかかった昇降口で、男の先輩数人がかたまって話しているのが目に留まった。
「あの子かわいくね?」
「いやー、女はロングヘアっしょ」
そんなこと話しながら、女子新入生を目で追ったり、指さしたりしている。品定めかよ、とその無粋さにむすっとしていると、「やばっ、あの子美少女じゃね?」という声が聞こえてきて、セクハラじゃないのと少し睨みつけてやると──
目が合った先輩がいた。その先輩は明らかに私をしめしていて、やば、とでも言いたげに手を引っ込める。
美少女。って、私かよ。別に嬉しくない。おにいの妹なのだから、嫌味だけど容姿は私だって負けていない。
その先輩は私にやや気まずそうにだけど、笑顔を作った。私は無表情のまま会釈だけすると、パンフレットに目を落として体育館への道を急いだ。「久賀振られたなー」という爆笑が背後に聞こえて──それが、奏先輩との、なかなか印象の悪い出逢いだった。
入学式の数日後、新学期が始まった。友達はいなくても、同中の子はいないわけではない。けれど、運悪く私のクラスには顔見知りすら見当たらなかった。ゼロから友達作りかあ、と少し憂鬱だったけど、やるしかない。
席が近い子には、なるべく挨拶したり話しかけたりした。そのうち、前の席である桐原さんという女の子が私の声によく応えて、自分からも話しかけてくれるようになった。やがて、どこかのグループにいるわけではないけど、桐原さんと行動するおかげでぼっちとして浮いてもいない、適度なクラスでの位置を手に入れた。グループに属したほうがカーストは高いけど、代償が何かと多い。
五月の連休明け、お昼は桐原さんと教室を出て、休み時間だけ開放される屋上に向かうようになっていた。そこでふたりでお弁当を食べていると、「あ、あの美少女ちゃんじゃん」と影がかかったので、私は顔を上げてさすがにびくっとした。
そこには三人の男の子がいた。ネクタイの色によると三年生で、先輩だ。隣の桐原さんは、どちらかというとおとなしい子だから、不安そうに私を見た。
私がしっかり撃退しないと。
そう思って、何ですか、と言おうと箸を止めると、「久賀、リベンジ行けば」と眼鏡をかけた先輩が笑った。久賀と呼ばれた茶髪の先輩は、「俺、もうあの日に振られただろー」と答え、その先輩をまじまじとした私は、あ、と思い出す。この人、私を「美少女」としめしていた人だ。
「この子たち困ってるよ」と茶髪先輩の隣のおっとりした感じの先輩が、止まっている私と桐原さんを見取って言い、「ごめんね」とも続けてくれる。この先輩は怖くないかも、と思ったので、「いえ」と私が応じると、「いや、こいつは彼女いるからね!?」と茶髪先輩が割りこんできた。
どうやら──私がその先輩には反応したことが悔しかったらしい。なので私は、茶髪先輩は無視しておき、「何か用ですか」とほかのふたりに訊く。
「ははっ、すがすがしいまでの久賀スルー」
「この子は、友達になった子?」
何かこの人しか会話にならないな、と感じて、私は彼女持ちの先輩を向く。
「はい。中学時代の親友は進学校行っちゃったし、今、この子とは席も近くて。ね」
私がそう微笑むと、桐原さんはこくりとする。
「そうなんだ。すぐ友達を新しく作れるってすごいね」
「そうですかね」
「え、待って、何で渚とは会話して俺とは目も合わせないの? 俺、そんなに無しなの?」
茶髪先輩が半泣きの声で言って、私ははあっと大きなため息をつくと、やっとそちらを見る。
「はっきり言いますけど、軽そうな人は無しですね」
「俺、軽くないよ?」
「軽くない人は髪を染めずに校則を守ると思いますが」
「え、校則は……破るものじゃん?」
「格言みたいに言ってますけど、間違ってます」
「ええー。でも、俺小学校のときからこれだし。いまさら黒とか、たぶん君もびっくりすると思うよ?」
「私は先輩の長年の茶髪を知らないので、特にびっくりしません」
「マジか。どうしよう、俺、黒戻ししたほうがいいのかな?」
「知るかよ」と眼鏡先輩はげらげら笑い、鬱陶しいなあと私はたまご焼きを口に突っこむ。「何かごめんね」と桐原さんに言うと、一応かぶりを振ってくれる。
そのとき、ふと彼女持ちの先輩がどこか不思議そうに私を見つめていることに気づいた。「何かあります?」と訊いてみると、彼女持ちの先輩は「ちょっと、知り合いに似てる気がして」と言った。
「ちょ、渚、何でさっきから俺のお気に入りを口説くような」
「口説いてはないけど。ほんとに似てる人がいるんだ」
「何? 顔? 性格?」と眼鏡先輩に突っ込まれ、「顔……かな」と彼女持ち先輩はつぶやく。顔……って、もしや、おにいを知ってる人? おにいもこの高校だったし……
「てか、腹減ったわー。とりあえず食おうぜ」
「俺、この子と一緒に食べたい」
「私たち、もう食べ終わるのでここ譲ります」
「ちょっとしゃべろうよ。俺がけして軽くないことを分かってもらわないと──」
無視して、お弁当を黙々と胃に詰めこんだ。それを見て、桐原さんも急いで食べはじめる。五分もかけずに食べかけだったお弁当を完食すると、お弁当箱をランチバッグにしまって、私たちは立ち上がった。
三人との身長差にすくみそうになっても、ここでビビっていたらナメられるかもしれない。私は毅然としたまま、「どうぞ」とだけ言ってその場を抜け出した。「名前も訊けなかったよ!」と茶髪先輩の抗議が背中に聞こえて、何か子供っぽいな、と思った。
【第二話へ】
