私が乗った市街地への電車は、がらがらだった。こんな時間に、のぼり電車に乗る人はそんなにいない。逆のくだり電車からは、この町に帰ってきた人がどっと降りていた。
クーラーが寒いぐらいにきいている。がたん、ごとん、という電車のリズムを聴きながら、壱奈の彼氏って写真見たことあるかも、と思い出した。
そう、「次」になっていなければ、仲が良かった頃にスマホで写真を見たことがある。大柄そうなのに肩幅とか骨ばっていて、長い前髪の隙間から煙草を吸っていた。その髪は、毛先がグラデーションでグリーンになっていて、年齢は聞かなかったけど、たぶん年上だと思う。
「あんま優しくないけど、そばにいるからさー」
そのとき、壱奈はそんなことを言っていた。私は七羽くんの優しいところが好きだから、今思うと、優しくないのに好きだという感覚はよく分からないなと感じた。
目的の駅には、二十一時までに着いたけど、私の地元とは打って変わってごった返す人混みと広い構内に、ちょっと迷ってしまった。結局十分くらい遅れた私に、「遅っせえな」と壱奈は毒づいたものの、さいわいそれだけだった。
壱奈は、濃い紫のノースリーブのミニワンピを着ていた。腕も脚も細くて綺麗だ。化粧はラメやグロスで派手めで、プラチナの髪は右肩でまとめている。
「ついてきて」
壱奈はそう言うと歩き出し、私は慌ててその華奢な背中を追いかけた。壱奈は、金のアンクレットが光る慣れた足取りで人を縫い、私ははぐれないように必死についていく。
どこに行くんだろう、と降りそそぐネオンをちらちら見ていると、『HOTEL』という字がちらほらして、並ぶ看板にもピンク色が増えてきた。
「壱奈」
思わしくない雲行きを胸の内に覚えていると、そんなしゃがれ声がした。「紀恵」と壱奈はその声がしたほうに顔をあげて駆け寄る。
そこに立っていたのは、やはりあの写真の「彼氏」だった。グラデーションの髪の色は、グリーンでなくレッドになっている。
「どう?」
「もう部屋」
「ごめん、こいつが遅れてくるから」
「のこのこ来ただけマシだろ」
「まあそうだけど」
壱奈は私を振り返り、あの日以来、絶対に向けなかった笑顔を私に向けた。
「日南さー、どうせ処女じゃん?」
思いがけないことを言われて、「は……っ?」と私が肩を揺らして動揺すると、「それさあ」と壱奈は笑みのまま続けた。
「高く買ってくれる人がいるから、そこに捨てちゃいなよ」
「買う……って、」
「うまく売ったら、あんたにも一割くらいあげてもいいよ。あ、五万は稼げよ? それ以下だったらあんたの自腹」
「な……何、どういう意味? 私、」
「このホテルの509号室に、客もう待ってっから、早く行ってくれね?」
壱奈の彼氏──紀恵さんが、ラブホテルの名前が入ったライターを渡してくる。わけが分からなかったけど、とりあえず、このふたりが私を──私の「処女」を売り物にしようとしているのは分かった。
何で。冗談じゃない。
そう言いたいのに、ふたりの虚ろだけど鋭利な眼つきに、逆らう勇気が出ない。
「私……なんか、行っても……喜ばないよ」
かろうじてたどたどしく言うと、「処女じゃないの?」と壱奈が眉を寄せる。
「え、と……」
「どっちだよ」
「……したことはない、けど」
「じゃあ売れるんだよ、それだけで。一回きりだけどね」
「早く行ってくれね? あんまり遅いと、こっちが部屋代はらうことになるんだよ」
私はうつむき、何で、と思った。
何で、ここまでされるの。こんなの、もうイジメじゃないよ。何なら、私も犯罪を犯すことになる。売りってことでしょ? そんなこと──
「さっさと行けよ。どうあんたなんか、売らなきゃ一生処女だろ」
壱奈はぞんざいに吐き捨て、私にライターを握らせると、腕を引っ張って背中を突き飛ばした。私は前のめりによろけ、泣きそうになりながらも足を踏み出す。
同じ名前がネオンで浮かぶホテルまで、まっすぐ十メートルくらいだ。背後では、壱奈と紀恵さんが見張っているのが分かる。
逃げられない。
……嘘でしょ?
私、こんなことで初めてを──
「かわいいね。ほんとに僕みたいのとしてくれるの?」
行き交う人の中に、そんな会話が聴こえて、私はびくんとそちらを見た。
何? 何なの? この界隈は、本当にそんな犯罪がまかりとおってるの?
そう思った私は、次の瞬間、視界に入った人物に目を開いた。
七羽くん。
七羽くんが、制服のままで、赤ら顔のおじさんに肩を抱かれて歩いていた。
え……? 本当に七羽くん?
制服は、確かにうちの高校のものだ。あの凛とした中性的な容姿も間違いない。七羽くん、あんなおじさんと何してるの? かわいい? 僕みたいのと? それって──
こちらの視線を感じたのだろうか。一瞬、七羽くんもこちらを見た。
見たけど、教室のときみたいに近づいて助けてくれることはなかった。おじさんと腕を組んで、その肩に寄り添い、欲情をあらわにする笑みに蕩けそうな微笑みを返している。
私は息を飲みこんで、ライターを握りしめると、急にその場を駆けだした。「日南っ」と壱奈の声がしたけど、振り返らずにホテル街の中に迷いこんだ。
エステとかヘルスとかいう看板、いわゆるキャッチと呼ばれそうな人、異国人もちらほらしてくる道に出たときには、本当に焦ったけど、それでも走った。たぶん、けっこう危ない場所を抜けたおかげが、壱奈は私に追いついてこなかった。
頭の中がぐるぐるまわる。暴れる心臓を手のひらで抑える。壱奈も。紀恵さんも。七羽くんだって。みんな何を考えてるの? あんなところで何をしてるの?
私がさせられそうになったこと。七羽くんが行なおうとしていること。そんなの、絶対、やっちゃいけないことだ。
壱奈が私をこんなことに乗せようとしたのは、哀しいけれど、おかしくないかもしれない。壱奈は私を軽蔑している。私を汚して、それがお金になるなら、やりかねないだろう。でも、七羽くんは──?
少し周りのネオンが落ち着いた場所に出て、私は息切れしながらスマホを取り出した。壱奈からの着信だけでなく、おかあさんからの着信もある。私は涙をこぼしながら、マップを起動させて、一番近い駅を検索した。
さいわい、私はちょうど市街地のあの駅からひと駅走ったことになるみたいで、そばに駅があるみたいだった。私は目をこすると、その駅を目指して、頼りなくきょろきょろしながら歩き出した。
月曜日は、死にたくなるぐらい学校に行きたくなかった。あんなにずぶ濡れたのに、結局風邪はひかなかった。
のろのろと朝食を食べる私の正面のおとうさんは、いつも通り機嫌が悪い。私が今の高校に行くことになってから、ずっとそうだ。おかあさんは、そんなおとうさんの顔色を窺い、私がイジメられているとか、たぶん察しているのに何も助けてくれない。
こんな両親に、「学校行きたくない」なんてひと言は、「今からもう死ぬ」という言葉以上に言えない。
自分の顔に、憂鬱が露骨に出ているのが分かる。だから、うつむいて登校する。クリーニングから返ってきたばかりで、妙にぱりっとした制服に、なじまない感じを覚える。
雨は降っていないけど、空は灰色の雲で埋まっていた。また放課後くらいには雨かもしれないと思いつつ、電車で高校最寄りに移り、ざわめく制服の群れに混ざった。
壱奈に会いたくない。七羽くんのことも、どう受け止めたらいいのか分からない。お腹の底から、もやもやと不快な霧がこみあげてくる。
きついな、と精神的な重圧に息が苦しくなっていたときだ。
「真田さん、おはよう」
不意にそんな声がかかって、はっと振り返った。そこでにこやかにしていたのは、七羽くんだった。
揺らいだ心臓に、ごくんと嫌な生唾を飲む。
「ひとり?」
「え……あ、うん」
「壱奈は別?」
そういえば、七羽くんって、壱奈のことを名前呼びだ。教室でもわりと軽くやりとりしている。深く考えたことがなかったけれど、何かつながりがあるのかな。
「………、友達、じゃないから」
私の返答に、「そっか」とうなずいた七羽くんは、細い首をかたむけて長い睫毛をしばたき、私を見つめた。
「こないだ、会ったね?」
「えっ」
「ホテル街で」
七羽くんを見た。七羽くんの瞳は、優しいのだけれど、どこか無感覚だった。
「……ええと」
「一応、黙っておいてほしいんだけど」
私は、愕然とした表情をしてしまう。それはつまり、おじさんとの「あのあと」を肯定している。
「ごめんね。人に知られると面倒だから」
「な……んで、あんなこと、してるの」
「何でって言われてもなあ」
「お金が欲しいの?」
「お金も欲しいね」
「男の人が好きなの?」
「どうなのかな」
「古旗くんなら、もっと……かっこいい人とか」
「ああ、僕は薄汚れたエロいおじさんがいいんだ」
「………、」
「そういうおじさんは、僕を優しく愛してくれるからね」
よく理解できずにいると、「黙っておいてもらう代わりに、ひとつ、真田さんのことを助けてあげる」と七羽くんは悠然と微笑んだ。
「壱奈のイジメから助けてあげる」
「えっ……」
「それが、僕のことの口封じでいい?」
七羽くんの瞳を見つめる。催眠にかけるような、私の視覚を吸いこむ瞳をしている。
壱奈のイジメから助ける。そんなこと、できるの? 本当にしてくれるの? 私をかばってくれるということ?
そんな期待を粉砕するように、「壱奈はね、人殺しなんだ」とあまりにも唐突なことを七羽くんは言い出した。
【第三話へ】