君が溺れる深海-5

 一階の廊下を進んでいる時点で、大きな喘ぎ声が聞こえてきた。紀恵さんはかすかに眉を寄せる。壱奈は失笑する。私は狼狽えてしまった。そのはしたない声は、確かに七羽くんのものだった。
 目的のドアの前で、紀恵さんは渋面のまま立ち止まる。聞こえてくる七羽くんの嬌声に、抵抗や泣きそうな感じはなくて、むしろ──。
 ドアノブをまわすと、そのままドアが開いた。卑猥な声が生々しく届いて、荒い息遣いや笑い声も聞こえてくる。「悦んでるじゃん」と壱奈が言って、正直私もそう思った。しかし、紀恵さんは部屋に土足で踏みこみ、「七羽っ」と煙草もお酒も混ざり合った臭いの室内で声を荒げた。
「ああ? 何だ、お前?」
 四つん這いの七羽くんの腰に、音を立てて腰を打ちつけるおじさんが、紀恵さんにいぶかった顔を見せた。動きに合わせ、おじさんのお腹の贅肉も揺れる。
 数人のおじさんたちの中で、白皙をさらす全裸の七羽くんは、だらしなく喘いで、突き上げた腰をみずから振っていた。目の焦点は合っていないし、よだれがべたべたと口元を濡らしている。上気した顔にも軆にも、でたらめに白い液体をまきちらされている。その液体のものらしい、青臭い臭いが鼻をついた。
 壱奈は目をすがめて「淫乱が」と吐き捨て、私も教室の彼とはあまりにも違う七羽くんのすがたに突っ立ってしまう。
「あんたら、もう一週間もこいつをこんなふうにしてんだろっ。いい加減にしろ、連れて帰る」
「ナナちゃんは全部OKでここにいるんだよ。どこの奴に知らないけど、とっとと帰っ──」
「ふざけんなっ。薬打ってることも知ってるからな」
「そんなにやばい薬じゃないだろ。こんなふうに興奮するだけのやつさ」
 おじさんのひとりが、七羽くんの片脚を抱え上げ、勃起したものをあらわにした。私は慌てて目をそらしたけど、視界の端でそれをしごかれた七羽くんは、いっそうよがる声をあげた。そして、まわっていないろれつで何か叫ぶと、全身をびくんと痙攣させて射精までする。
 それが足元に飛び散ったのを見た紀恵さんは、耐えられないように唇を噛み、もう何も言わずに七羽くんの細腕を鷲づかみにして、おじさんたちから引き剥がした。
 自分のTシャツを脱いで七羽くんに着せると、その肩を担いで部屋から引きずり出そうとする。
「おいっ! あんまり勝手なことすると──」
「勝手なことしてんのはてめえらのほうだろうがっ。いい歳したおっさん共が、ガキにヤク打ってまわしつづけて、それが正常だと思ってんのかよっ」
 紀恵さんが凄んで、おじさんたちがひるんだ隙に、私たちはその煙たい部屋をあとにした。
 すぐ近くの路地裏に入った。地面におろされた七羽くんは息を切らして、媚薬のようなもので軆が焦れったいのか、身動ぎしている。それをなだめようと思ったのか、紀恵さんは躊躇せずに七羽くんの性器を口にふくんだ。
 それを薄目で見た七羽くんは、「つけこむんじゃねえっ……」とうめいて紀恵さんを突き飛ばす。紀恵さんは七羽くんを見て、「七羽」と泣きそうな声で七羽くんを抱きしめた。
「何でっ……てめえ、余計なこと、しやがって」
「七羽、頼むからあんなことはやめてくれ」
「命令するなっ……僕は、愛されてただけなのに」
「あんなの、」
「僕には、あれが愛してるってことだ!」
「薬打たれたこと分かってんのか? それに──」
「いいんだよ、気持ちいいから。みんな、僕を愛してるから……」
「愛してるわけないだろっ。あんなの肉便器だ。七羽を人間とも思ってない」
「っるさいっ……僕は、」
 紀恵さんは、もう一度七羽くんを抱きしめた。七羽くんは抵抗しようとしたものの、今度は力がかなわないのか、突き放せない。
「はな、せっ……」
「好きだ、七羽」
「うるさいっ」
「七羽が好きなんだ」
「知るかっ。お前なんか、綺麗ごとばっかりだ。そんなん、嘘に決まってる」
「七羽、」
 七羽くんは手足をばたばたさせても、紀恵さんは容赦なくその細い軆を抱きすくめている。七羽くんは、次第にパニックになってきたようにわめきちらす。
「お前のことなんか信じない! おじさんたちは、昔からいつもこんな僕に優しかった。お金をくれた。ごはんを食べさせてくれた。みすぼらしくない服を買ってくれた。感謝してるんだ、だから軆くらいいくらでもさしだす。あの頃、僕に声をかけたおじさんがいるから、僕は……」
「……おかしいよ」
 思わず私がそうつぶやくと、呼吸を荒げながら七羽くんはこちらを見た。
「何……て?」
「おかしいよっ。そんなの、ゆがんでる」
「っ、知ってるよっ……でも、僕にはこれしかないんだ。これしか分からないんだ」
「紀恵さんの気持ちが、伝わってないはずないよ」
「………、こんな奴、勝手に僕でシコってればいい。その程度だ。僕は禿げて太って臭いおじさんとしかセックスしない。それしか無理なんだよっ」
 愕然とした表情の紀恵さんを、七羽くんは何とか押し返した。そして、よろめきながら立ち上がると、通りでなく路地の奥のほうへと逃げていく。上半身はだかの紀恵さんは地べたにしゃがみこみ、頭を抱えて息をついた。
 小さく嗚咽が聞こえてきて、何で、と思った。何で七羽くんは、紀恵さんの想いを受け取って、幸せになろうとしないのだろう。紀恵さんは、これほどまでに七羽くんを想っているのに。いつまで幼い頃に妄執して、性的な虐待に過ぎない行為を、愛だと言い張るのか──
 手を引っ張られ、私は壱奈を見た。壱奈は何も言わなかったけど、そっとしておこうという意味だと思ったので、私はうなずいて路地裏をあとにした。
 駅前に引き返すまで、私たちは、ただ手をつないで何もしゃべらなかった。改札前で、壱奈は紀恵さんの連絡先をスマホから削除した。「もう関わりたくないわ」と壱奈はつぶやき、私は何も言えなかった。
「ねえ、日南」
「うん?」
「あたしたちは、ちゃんと学校行こうか」
「えっ」
「あたしらは、あんな奴らとは違って、まともに暮らしていい気がしてきた」
「……そうだね。そう思う」
 いつかしか始まった、夜のざわめきに紛れそうな声で答える。
 ビルのイルミネーションや車のライトが、暗闇を引き裂く。夏の夜風は気だるく重く、皮膚を蒸していく。指先には、壱奈の体温が伝わってきていた。
 七羽くんは、夏休みに入る直前に、何事もなかったように教室に帰ってきた。相変わらず楚々と美しい容姿で、背筋を伸ばして席に着いている。女の子たちは、そんな彼を盗み見てひそひそささやいている。
 でも、七羽くんの内面はぐちゃぐちゃに乱され、暗黒に穢されている。表面はエメラルドグリーンの海面も、たやすく行き着けない深海は暗く、光は一縷も届かないみたいに。
 紀恵さんの想いが、いつかその深みまで届くかな。七羽くんの冷え切った傷に触れるかな。そうなればいいな。
 いつか、誰か──あわよくば紀恵さんが、溺れて沈む七羽くんの心をすくいあげてくれますように。
 サボっていたあいだの勉強に追いつくのは大変だけど、私と壱奈は頑張っている。夏休みが始まったら、遊びは返上して、ふたりで勉強するつもりだ。
 周りには、友達になったり、イジメになったり、また友達になったり、私と壱奈の関係が理解できない様子の人もいる。でも、今、壱奈は確かに私の友達だ。
 中学時代には、ひとりもいなかった友達。だから、圧するような深海から水面へと顔が出せたみたいに、今やっと、私は息をすることが楽になった。
 私は変われた。陽キャみたいな外見をすることもないまま、ちゃんと変われた。
 クーラーのために、閉め切られた窓の向こうを見る。白日が広がっている。それに目を細めたあと、私はノートに向き直った。
 まぶたに残像する日射しが心を照らす。いつかこの白い日の光を、七羽くんも見ることができればいいなと願った。

 FIN

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