romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

抜殻の潮騒-2

 僕と彼女の関係は曖昧だ。名目では恋人になっている。僕は給仕で彼女は客で、声をかけてきたのは彼女だった。
 僕は彼女が好きなのか分からない。彼女は僕を憎んでいる。僕も彼女を愛してはいない。
 彼女とのこの数ヵ月間は、いったい何だったのだろう。彼女の罵声を思い出すと、遠い記憶に血がかよって呼吸が傷つく。泣きそうになって、そのまま泣いたけど、波の音がうめいたりわめいたりすることはなだめた。彼女との生活で、こんなふうに安らかになれる機会が削られていったのは確かだ。
 夜更けまで波を聴いてぼんやりしていたせいで、翌日は寝坊してしまった。ひかえめなノックで目が覚め、見知らぬ天井と慣れない匂いにとまどい、島に来たのを思い出す。
 二日酔いみたいにふらついてベッドを降り、時刻が九時をまわっているのを確かめた。朝食は九時の予定だ。
 寝ぐせに手櫛を通して、目をこすりながらドアを開けると、隙間に顔を覗かせたのは昨日の男の子だった。
 僕の寝ぼけた面を見て、男の子はわずかに咲う。僕は頬を染め、「すぐ行きます」と謝った。男の子は階段のほうをしめした。それが何だか噛み合わなくて、僕はちょっと考え、「身支度したら行きます」と繰り返してみる。男の子は僕を見つめ、自分の耳に触れると、かぶりを振った。
 しばらく意味が分からず──ようやく理解すると、つい「ごめん」と僕は口走り、それでは伝わらないのかと頭を下げた。彼はびっくりして首を振り、もう一度階段をしめす。どう伝えたらいいのか、僕はくしゃくしゃの服を脱ぐふりをしてみた。
 さいわい男の子はそれで分かってくれて、「下で待っている」という仕種をすると行ってしまった。謝るのは何か変だったな、と反省しつつ、僕はドアを閉める。
 あの子は耳が聞こえないのか。ぜんぜん気づかなかった。昨日の夕食どき、彼が麻夢さんの弟で海里かいりくんといい、僕のひとつ下なのは聞いた。でも、耳が不自由なんて話は特に出なかった。
 着替えてベッドを片づけ、トイレや洗面所に行くと、昨日海里くんや麻夢さんが出入りしていたドアから、食堂に入った。
 四人がけのテーブルがみっつ並び、向こう側の大きな窓が日光を招き入れている。誰もいなかったけど、食事を取った形跡がいくつかの席に残っていた。
 用意の残る僕のものらしき朝食は、真ん中のテーブルにあった。焼き魚とたまご焼き、漬け物──箸のそばに伏せられたお椀がふたつある。自由に汲める水をコップにつごうとしていたら、奥のドアから麻夢さんが顔を出した。
「あ、おはようごさいます。ごはん、食べますか?」
「はい。ごめんなさい、寝坊しちゃって」
「いえいえ」と麻夢さんは微笑して、僕の朝食からお椀を取る。今日の麻夢さんは、ひとつに束ねただけの髪だ。
「冷めちゃいましたね。作り直しましょうか」
「大丈夫です。食べれます」
「飲み物は何にしますか?」
「あ、お茶があれば」
 承知した麻夢さんが奥に行くと、入れ違いに海里くんが出てきた。射しこむ日光になじむ笑顔を僕にくれると、周りの食器を片づけはじめる。お茶が来るなら、と水を汲むのをやめた僕は、いそがしそうな海里くんにやや遠慮しつつ、席に着いた。
 窓は開いていて、潮をはらんだ風が洗顔で濡れた前髪を揺らす。今日の予定は何もない。強いて言えば、浜辺に行きたい。浜辺で何もしたくない。
 麻夢さんがごはんと味噌汁、麦茶を持ってくると、「どうも」とひとまず朝食をもらった。
 昼食はここで食べても、通りの定食屋で済ましてもいい、と情報をもらうと海に出かけた。今日も天気がよく、太陽のまばゆさには目を細める。
 僕の心は、救いようのないがらくただと思っていた。青空が明るく、いい風に深呼吸できるだけで、あんがいひと息つけるものなのだ。
 知らなかった空気が、感受性を新鮮にする。どの鍵もどの鍵も合わなかった錠に、やっと合う鍵が見つかったみたいだ。波に耳を澄まし、開いた心に舞いこむ風を受け入れる。
 海から見て港をずっと右に行くと、道路が途切れて砂浜に降りれる岩場があった。海に行こうと決めたくせに、水着もサンダルもない。本当に、波の音を聴くためだけにやってきた。
 急斜面となる岩場を背後に構えつつ、砂浜の面積もある海は、波がやってきては引き、こころよい音を奏でていた。岩を越えて砂浜に降りると、さく、と足痕を残して渚をたどりだす。浜は波が届かないところはさらさらで、海藻や貝殻、木切れが埋まりかけながら落ちていた。
 潮風は香り高く、深く吸ってみると潮の味がする。前髪を追いやられるのは、瞳があらわになって嫌だったのに、風に空と海をしめされるのなら怖くなかった。
 海は望めば濃紺でも、手前は空によく似た淡い水色で、足元は透き通って白波を立てている。腰をかがめて触れてみると、太陽にほてった体温を、ひんやり癒してくれた。砂浜は、太陽の光をしっかりと受けて熱い。
 整備された海ではないので、ところどころ水面に岩が覗き、岩と岩のあいだの静かな水中には生き物が生息していた。後ろの黒い岩の斜面には、上り下りする人がいるのか、ごつごつと不安定な階段がある。
 砂浜はやがて岩で行き止まりになった。いや、腰まで海に浸かった岩を伝っていけそうでも、船虫がちらちらしているし、滑って怪我なんかもできない僕は、自重して砂浜に引き返した。
 波が届かないところに、躊躇ったあとジーンズでじかに座る。「熱っ」とつぶやき、周りに誰もいないのに気がつく。左に行けば波止場があったので、釣り人もそちらに行ってしまうのだろう。
 目を細めても、一番先には空色と紺色が接した水平線しかない。
 僕はこれまで、この不可解な心が何を欲しがっているのか分からなかった。なぜそんなに神経質なのか、なぜそんなにいらだたしいのか。
 僕の心は、こういう無作為なものを求めていたのかもしれない。ただ生きている。美しい避暑地や海水浴場ではダメだった。剥き出しの自然に響く波や風だからこそ、心は素直に共鳴している。
 だけど、正直、外界の清冽より内界の火傷が勝ってもいた。思い出すと、未晶の怒号が怖くて身を縮めたくなる。
 今、僕は浜辺にいる。波の音を聴き、風に頬をさらしている。
 なのに、未晶を想うと、鼓膜には彼女の非難が突き刺さり、うずくまった床に濡れた頬を押しつけている気分になる。
 うるさい、いい加減にしろ、病気野郎──
 中学生のとき、病院に通ったことがある。先生を信頼し、心を開いてみようと努めた。けれど、僕以外の患者も何十人と受け持つその人を、そんな特別な存在にするなんて無理だった。何でもない人に心情を吐くのが苦痛になったとき、通院をやめた。
 僕は他人を信用するのが下手だ。人の心がまったく読めない。陰って見取れない部分は、僕をめちゃくちゃに圧倒する。ところが相手は、僕を何でも承知したようににこにこと接してくる。
 その侵略的な理解が耐えがたかった。相手が僕など知ったことではないのは分かっている。それでも僕は、すべて見透かしたような笑顔に恐怖を覚える。
 怖いものは嫌いだ。怖いものは僕を怯えさせ、神経を研ぎ澄まし、聴覚と心理を直結させる。その無理に張りつめた糸に何か障れば、すぐさま切れるように僕は首を締められ、脅される。僕は恐怖に忍耐力がなかった。たやすくそれを、音との密接な爆薬にする。
 押し寄せては心に迫る波は、引きずられて海に還り、一緒に何かをさらっていく。そのなめらかな韻に耳をかたむけ、鼓膜に降りつもった声や音の不快感を流した。
 聴覚がちぎれてしまえば、耳障りに心を傷めなくてよくなる。でも、僕は人の頭を殴る勇気がないように、自分の耳をえぐる勇気もない。この心を保護するせめてもの方法は、神経を逆撫でない音を聴覚にそそぐことだ。
 海里くんを想った。そんなのは不謹慎だと分かっているが、僕は彼がうらやましかった。聴覚を雑音に穢さず、無音の世界に暮らせる。癇に障る脆弱な聴覚なら、ないほうがいい。雑音がある限り、出来損ないを脱せないのなら、僕も彼のように何も聞こえなくなりたい。もう僕は、恐ろしい怒声も絶え間ない雑音も聞きたくない。
 翌日もそんな具合で過ごし、その次の日もそうしようと朝食後に浜辺におもむいた。日射しの下で無為に過ごし、焼けていく肌だけが時間の経過を表している。
 三日ともなると、僕は物好きな旅人として景色に組みこまれて、不審をしめされなくなった。敵意などを刺してくる人もいない。
 港をずっと行って岩場に出て、砂ボコリを舞わせて砂浜に飛びおりた僕は、まじろいだ。
 海里くんがいた。波打ち際に素足を放り、触れがたい雰囲気で水平線を見やっている。ちなみに、海里くんは学校には行かず、漁師の勉強に専念しているそうだ。
 今日はお休みなのかなと足音を殺して歩み寄ると、足音を殺す気配が、かえって海里くんを振り返らせた。僕は曖昧に咲い、海里くんも微笑む。隣に立ち止まり、いいかなと瞳で尋ねると海里くんはうなずき、僕は彼の隣に腰をおろした。
 波がすぐそばにやってきた。僕は膝をかかえて脚をすくめても、海里くんは素足に受け入れている。スニーカーはそのへんに転がっていた。砂熱くないのかな、と思っても、慣れているのだろう。
 風に嗅げる海里くんの匂いは、海の匂いと調和している。脱色された髪が太陽に揺れ、透くというより吸収して金色に輝いた。水と砂が残って、細かくきらめく海里くんの褐色の脚は、ひりつく僕の肌とちがって日射しを溶けこませている。
 僕はこの島が好きだけど、やっぱりよそ者なのだろう。自然は寛容に僕を受け入れても、僕は自然に剥き出しになりきれない。
 僕の視線に、海里くんは不思議そうに首をかしげた。僕は首を振って笑むと、鏡の破片を散らしたような海を眺めやる。
 今日も空は青く風を通し、波の調子は呼吸と鼓動になごむ。海のにおいといえば、雑多に生臭いという印象だったが、自然にさらされた野性の海は柔らかな潮が本当に芳しい。
 膝に顎をうずめて未晶を想い、あの不快な衝動が低いのに驚いた。隣に海里くんがいるせいだろうか。僕は心に今を通気させ、記憶のじめつきから精神を保護できている。
 海里くんの視線に気づいて、彼を見た。海里くんの瞳は純粋だ。穢れを知らないのでなく、いくら穢れても濾過できる強い純粋だ。なあにと瞳で問うと、海里くんは心配そうに自分の胸に触れた。
 僕は海里くんと見つめあい、咲って視線を落とすと、かぶりを振る。海里くんは僕を見つめたのち、複雑そうに海に目をやった。
 泡立った波が爪先に届き、靴が砂に埋まりかける。濡れた波の音の合間に、揺れる電燈みたいに未晶の怖い声がぶれた。
 未晶の声はすごく痛い。刺さるのだ。刺さらないよう、心を硬いものでおおえば、うまくつきあえるのかもしれない。なぜ僕は、彼女に刺が食いこむ柔らかな部分をさらすのだろう。
 未晶だけではない。僕はすべてに弱みをさらす。僕が社会を外れたのは、仮面への徒労だった。でも、素顔になっても、いろんなものがずきずきするだけだった。
 僕は醜い。なのに嘘がつけない。みんなが僕を嫌がるのは正当だ。僕も僕みたいな人間とはつきあいたくない。
 向こうに帰れば、未晶とは別れるだろう。僕は人と出逢うたび、最悪のかたちで別れる。その繰り返しだ。もともと、僕には人と接する価値もない。
 海里くんは、しっとりした砂浜に指先を沈めている。彼は僕をどう思っているだろう。陰気で嫌な客だと思っているのだろうか。とっとと帰ればいいのにと──
 海里くんは僕を見、目を開くと、砂がついた手で僕の頬骨に触れた。その指先は涙をぬぐう仕種をして、僕はちょっと驚いたあと、わずかに咲う。すると海里くんも微笑み、やってきた波にすすいだ指で、僕の頬についた砂も拭いた。
 僕は一考したあと、靴を脱ぎ、ジーンズの裾をめくった。靴下は履いていなくて、そのまま冷たい波に浸す。海里くんを見ると、彼はうなずき、銀色が踊る海に目を投げかけた。
 僕は海里くんの聴覚の不自由がうらやましい。僕のその心を知ったら、海里くんはどう思うだろう。歓迎はしないだろう。白眼もしないと思う。怒るだろうか。傷つくだろうか。哀しむ──だろうか。

第三話へ

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