romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

抜殻の潮騒-4

 土曜日は、海里くんは早朝の漁についていって留守だった。朝食のときに、麻夢さんにそれを聞かされた僕は、すごいなあと感心する。「ちょっと心配です」とつぶやいた麻夢さんに、「昔から勉強してるんですよね」と首をかたむけると、麻夢さんは微笑んでそんなことを教えてくれた。
「私たち、ここの稼ぎと内地の母の仕送りで暮らしてるんです。父は十年以上も前に亡くなって」
「そう、なんですか」
「父も漁師でした。あの子を連れて漁に出たとき、嵐に遭って──救命具はあったはずなんですけど、トラブルがあったのか、海里だけ助けて、自分は。海里は救出に出た人に保護されたんですけど、父はいまだに何の手がかりもないんです。そのとき、海里は耳が聞こえなくなって」
 そう、なのか。生まれつきだと思っていた。後天的にしては、海里くんは聞こえない耳を屈託なく受け入れている気がする。それを言うと、麻夢さんはうなずいた。
「あの子は耳が聞こえなくなったことより、父を失った哀しみが強くて、自分のことを拒否するヒマがないんですよね。昔は、ずっと浜辺で父を待ってました。何か流れつくたびに駆け寄って、父じゃないことに泣いて。今はだいぶ、浜辺でじっとしてることも減りましたけどね」
 数日前、浜辺に行くと海里くんがいた日が思い返る。あのときの海里くんは、何か触れがたかった。おとうさんが流れついてこないか、海に目を凝らしていたのだ。
「海里が漁師の勉強を始めたときは、みんな驚きましたよ。一生、海を怖がるだろうって思ってましたから。周りが思うより、あの子は海を愛してるんですね。それでも、私はついお節介に心配で」
 僕は微笑み、「海里くんは大丈夫だと思います」と言った。麻夢さんは首肯し、「ごめんなさい」と咲う。
「海里が親しくしてるんで、私まで馴れ馴れしくしちゃって」
「いえ。海里くんって、こんなふうにお客さんとよく仲良くなるんですか」
「たまにすごく懐いちゃうお客様もいますね。でも、淡々と接してるときもありますし──あの子なりに波長があるんでしょうか」
 咲った麻夢さんは、断って周りの食器を片づけはじめ、僕は切り分けた魚を口に運んだ。
 そうか。そんなことがあったのか。だったら、海里くんが僕を許した理由は何となく分かる。おそらく、僕に立ちこめる黒い霧を感じ取ったのだ。自分が父親と聴覚の喪失を抱えているように、僕も何か抱えていると。
 海里くんの明るい笑顔が偽物だとは言わない。あの笑顔をはっとさせる重たいものも、海里くんは持っているのだ。重みにそのままつぶされる僕は、余計に海里くんの強さが分かり、しみじみとしてしまう。
 海里くんは昼前に帰ってきた。昼食は一緒に食べて、海里くんに誘われ、午後は首尾の仕分けや道具の手入れを見学させてもらった。さすがに魚の生臭さが強く、ちょっと臆する僕に海里くんは咲う。僕の顔を憶えた年配の漁師さんと遜色なく、海里くんは仕事をこなしていく。
 ウェイターの仕事をしているとき、僕はそんな真剣な表情はしていないだろう。改装も終わる頃だ。明日の昼過ぎにやってくる連絡船で、僕は向こうに帰る。
 僕の瞳を覗き、海里くんもそれを思い出した。どうしても、と寄った眉に訊かれて、僕はうなずく。海里くんはうつむき、黙々と網をまとめた。
 夕暮れ時、僕と海里くんは砂浜を散歩した。ここの夕陽は、本当に赤く、向こうの橙色や桃色が入り混じった夕映えより力強い。今日一日を焼きつける緋色が空に広がり、それを受けて、海も紅に染まる。
 夕影が水平線まで伸び、波打つたびに瞳に刺さってきらめいた。結局、僕がここにいるあいだ、晴天が続いてくれた。神様が僕の休息に味方してくれたのかもしれない。
 凪いでいた風が流れはじめ、満潮へと波が豊かになっていく。これを聴きにきたんだよなあ、と改めて僕は潮騒を耳になじませ、渚に立ち止まる。
 ここに来てよかった。たった一週間だけど、すごく有意義だった。うまく言えなくても、僕は何か変わった。意気地なしだし、煮え切らないし、心も病んでいるけど、何か変わった。
 やっぱり、音、だろうか。音への嫌悪感は変わりない。大声にも恐怖がある。しかし、すべての音を闇雲に切り捨て、聴覚を憎むのはやめようと思う。
 僕はここで、こころよい音を知った。この波のように耳障りではない、聴覚に感謝できる音を。音自体はまだまだむずかしくても、この耳が聴こえることなら受け入れつつある。
 海里くんをうらやむのも違うと思える。まだどこかで、無音の世界には憧れる。でも、実際そうなれば、そんな感情論はきっと通用しない。僕は僕が思うより、耳に頼って生きている。この鼓膜が破れたら、初めは喜んでも、だんだん現実に打ちのめされていくだろう。
 足元にやってくる、橙色を帯びた白波を見る。足元の波は透明なので、夕陽をくっきり反照している。揺るぎなく潤った潮騒に耳を澄まし、濃紺と橙色が光によって混和した海に細目になる。
 すごく綺麗だ。いい匂いもするし、頬を撫でる風には潮の味がする。でも、海の魅力はやはりこの音色だと思う。
 瞳や小麦色の肌を夕焼けに染め、海里くんも海を眺めている。海里くんには、耳障りがない。代わりに、こんな恵みの音も聴こえない。
 ここの海は、見ているだけでも圧倒的だ。それでも音がなければ、何だか中身が抜けた風景になってしまうのではないだろうか。余計なものが聞こえすぎるのはつらい。だが、大切なものがまったく聴こえないのも、きっとつらいことだ。
 未晶を想う。話をしよう。僕と彼女には、それが必要だ。彼女もまた、ひたすら音を嫌悪する僕にとまどい、不可解にいらだっているのだ。せめて、音への恐怖の理由を説いておくのは、部屋に拾ってもらった礼儀だろう。
 真っ赤だった空の端々に、溶かした絵の具のように紺色が滲みはじめる。それを合図に、僕と海里くんは顔を合わせた。今晩はご馳走にしようと麻夢さんが言っていた。帰ろっかと瞳で言うと、海里くんはうなずく。僕たちは残してきた足痕を引き返し、太陽が夜に空を預けきる前に民宿に帰った。
 僕の帰る日がやってきた。朝食をもらったあと、午前中かけて荷物をまとめた。
 昼食は海里くんと食べる。海里くんが僕の帰りを惜しんでくれるのは不思議な感じだった。これまでそうやって僕を僕として見て、執着する人がいなかったせいだろう。麻夢さんになだめられる海里くんに、ドライカレーをすくう僕は笑ってしまう。
 海里くんも本気で嫌がり、駄々をこねているわけではない。僕に向こうでの生活があるのも、いつか僕がまた遊びにくるのも、僕がずるずるここで暮らしはじめる気はないのも分かっている。最後のは悪い意味でなく、ここでぬくぬくしたまま、向こうを無責任に放り出したくないということだ。
 昼食後、麻夢さんとは玄関で別れた。お金をはらい、「お世話になりました」と頭を下げると、「また、いつでもいらしてくださいね」と言われてうなずく。海里くんは港まで見送ってくれるようで、僕たちは並んで通りに降りた。
 海里くんに較べたら浅くても、僕もずいぶん日に焼けた。この肌の色は、ここで過ごした一番の名残になる。風や匂いもしっかり覚え、何よりこの波を鼓膜に響かせておきたい。ここで得た宝物は、この潮騒と海里くんだ。
 考えてみれば、僕は友達なんてできたのは初めてだ。自分がこんな、南向きの出窓みたいに暖かく開放的な人と親しくなれたなんて、意外に感じる。でも僕は海里くんが好きだし、海里くんが僕を気に入ってくれているのも分かる。
 港に立ち、小さく見えてきた連絡船に僕たちは目を交わした。また来るよと合図で約束すると、海里くんはこくりとして、何やら色褪せたショートパンツのポケットを探る。取り出されたのは、淡紅の柔らかな巻き貝だった。手のひらに収まる大きさで、海里くんはそれを耳に当てて、波を指さす。
 そういえば、巻き貝には潮騒が聴こえるとよく言う。海里くんは貝をさしだし、僕は彼を見つめる。
 海里くんは、全部分かっていたのだろうか。僕が音を嫌い、それを正しに波を聴きにきて、耳の聴こえない自分を羨望していることも。
 僕は、やっと錠が外れて開けた扉の陽光に目を細めるように微笑み、貝を受け取った。海里くんがにっこりとしたとき、つながれるヨットを大波にぐらつかせて連絡船がやってくる。
 貝を大切にかばんにしまうと、往復切符の帰りの券を握って、船に乗りこんだ。
 甲板から海里くんを見おろすと、海を銀色にするみたいに、太陽が脱色の髪を金色にしていた。強い日射しに瞳が重ねにくいので手を振ると、海里くんも手を振る。
 しばしの停泊ののち、上げられた碇とうなりだしたエンジンを皮切りに、僕は海里くんや心地よい島を遠ざかっていった。
 ずっと、甲板で海を眺めていた。どんどん海は濃くなり、それでも目を凝らせば、ときおり海草や魚が濃紺に透く。足元では、船が裂く海面に白波が生まれていた。潮の香りを飛ばしそうな風が、髪や服の裾を乱してなびかせる。
 突き抜ける青い空に瞳を通し、未晶にどんな顔しようかな、と僕は手すりにもたれた。
 未晶に会うと思っても、嫌じゃなかった。というか、会ってみたい。彼女はどんな反応をするだろう。嫌がられる可能性もあるけれど、今、僕は彼女に会いたい。
 彼女の声が聴きたい。あの怒鳴り声でなく、昔の穏やかな声を。あの怒鳴り声を作り出したのは僕なのだ。もし別れることになっても、僕には彼女の声を元通りにする責任はある。だから僕は、彼女と話をする。
 一週間振りの港は相変わらず生臭く、港に寄せる波も濁っていた。券を渡してコンクリートに降りると、まだ続く蒸した日中に息をつく。
 蝉の声が頭痛のごとく反響し、排気ガスを吐く車が道路を通り、その道路の先のコンビニには中学生がたむろしていた。いつもの、見慣れた、そりの合わない光景だ。
 ぎらつく太陽がかかせる汗をぬぐうと、僕はこの港にバスでやってきたのを思い出す。きょろきょろすると、切符売場にくっついた公衆電話のそばに時刻表があった。
 荷物を抱え直して、それに駆け寄る。
 今日は日曜日だ。たぶん未晶は、部屋でイラストの仕事をしている。彼女がどう思うかは分からない。できれば、あの怒鳴り声を修復し、潮騒のように穏やかな元の声を聴きたい。できない可能性もあるけど、そうなったとしても、僕にはいつでも波が聴こえるお守りもある。
 耳をふさがず、彼女の声を信じて。落ち着いて口を開き、話を打ち明けて。僕と未晶は、お互いに耳をかたむけるんだ。
 ちょうどバスがめぐってくる時間なのを知ると、僕はバス停へとまっすぐ、白日に目を細めながら歩き出した。

 FIN

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