Koromo Tsukinoha Novels
澪くんは、遺影の中でも咲っていなかった。
彼は十八年のあいだに、咲ったことはあったのだろうか。ねえ、澪くん。木立くんも彩空さんも泣いてるよ。私も泣いてるよ。そうなることは、澪くんはよく分かってたよね。
それでも、あなたは──
「ふたりで帰るの、初めてだな」
隣を歩く澪くんはそう言って、冬の匂いがただよいはじめた晩秋の風に透ける金髪をなびかせる。その蜂蜜みたいな髪のあいだで、耳たぶのルビーのピアスが、暮れた空に浮かぶオレンジの街燈できらめく。
「そう、だね」
ぎこちなく答えて、私はバッグの持ち手をぎゅっと握る。
こっそり見上げた澪くんは、驚くほど長い睫毛をしている。カラコンの青い瞳、なめらかな骨格、しっとりと白い肌。フランス人形のように綺麗で、繊細で──
「俺に用事?」
車が行き交う車道沿いの歩道を見やったまま、澪くんはこちらを見もせず訊いてくる。
壊れそうな容姿に反し、彼の服装はかなりパンクだ。大きく引き裂かれてリメイクされた胸、ちぎられたままレイヤードした袖、ファスナーがあちこちについたバギーパンツ。
「う……ん」
髪で表情を隠して小さくうなずく。
どくん、どくん、と心臓が吐きそうに不安で脈打つ。その鼓動はこめかみにまで沸騰して響いた。
彼の気配があるだけで、右肩は溶けてしまいそうだ。
決めてきた。言う。伝える。澪くんに、初めて見つけたときからの、この心が甘く酔うような気持ちを。
「ふうん。何?」
顔を上げた。そこには化粧した女の子より整った顔がある。笑顔はもともと、見たことがない。
「わ、私……ね」
「ああ」
「その、……澪くんのこと、が」
一度目を伏せて息をつき、コートの袖の影でほてる指先を握る。ついで、かきあつめた勇気を一気に絞った。
「澪くんのことが、好き──だから」
きっとわざとらしいチークみたいになってる、頬の紅潮が恥ずかしい。
でも、目を見て伝えなきゃ後悔する。思い切って、澪くんの青い目を見た。
「澪くんが、好きです。だから……よかったら、おつきあいしてくれませんか」
濡れそうな私の目に反し、澪くんの目は無機質なままだった。
息が震えそうな私から視線をそらした澪くんは、暗い空中をぼんやり眺める。歩調は変わらない。
すれちがう人はいない。ガードレール越しの左手の車道では、車のヘッドライトがまばゆい。
あ、これ、……ダメだ。
そう察したとき、澪くんは静かに私を見下ろした。
「俺は、深奏さんを幸せにできないんだ」
「えっ」
「だから、悪いけど」
「し、幸せって、私は澪くんのそばにいられたら、」
「そばにもいられない。絶対に」
言い切っているのに、よく分からないお断りにとまどうと、澪くんはすりぬけた風より冷えた口調で言った。
「俺、死ぬんだ」
「えっ?」
「自殺するんだよ。だから、深奏さんに何もできない」
「じ、自殺って──」
「気持ちは嬉しい。ありがとう」
茫然と、澪くんの冷めた顔を見つめた。
自殺?
……本気?
澪くんはまた正面に視線を投げて、何事もなかったように駅への道のりを歩いた。それに並行するまま、言葉を見つけられずにうつむいた。
冗談でしょ、と笑えない。ふざけないで、と怒れない。やめてよ、と泣けない。すべてのありきたりな反応を、澪くんの横顔は防水のようにはじいている。
それは、決意という不可侵で──無力感に脳裏を暗く霞ませ、脈を絶たれて白く凍てついていく恋心に、私は息もできなくなった。
──昔から、なかなか本気の恋に出逢えない。そもそも出逢う人生を送ってこなかった。
中学時代のイジメから登校拒否、そして引きこもりになった。それから、軽く十年くらいほぼ家を出なかった。
交遊関係はすべてネット。一度、予想外の近所でオフした男の子に恋をした。あれこれと私を尊重するようなことを彼は言った。けれど結局、そう言われて心を許した私を、軆まで許させてセフレにしただけだった。
何人か、気になったり揺れたりする男の人もいたけど、さほど本気になれなくて──親に言われて、通信制高校でせめて高卒を取ることにして、そこで澪くんに出逢った。
正直、小説なんてそんなに読まない。当然書かない。なのに、文芸部に入ったのは、澪くんに近づくためだ。部室の図書室で、文芸部は好きな作家や作品の話で盛り上がったり、黙々と書いたりしている子がいる。その中で、澪くんはいつも分厚い本を窓際で読んでいた。
十九時になると校門が閉まるので、先生に追い立てられて、グループの子も単独行動の子もみんなで駅まで歩く。しゃべらない子はしゃべらない。澪くんもあまり話に加わることはない。
そんな彼に話しかけるように努め、少しずつ反応をもらって、「ふたりで帰れる?」と訊いてうなずかれて、今日、やっと募っていく想いを伝えた──……のに。
『何それ。マジ?』
帰宅してもまだ頭を混迷させていたけど、とりあえず、澪くんへの気持ちを相談していた小学校からの幼なじみの雪香に電話した。
とんでもない理由で振られたのを話すと、ひとり暮らしの部屋に帰宅したところだったという雪香は、何やら物音をさせながら顰蹙の混じった声で言った。
「……マジみたい」
『はあ……。極端なのかあ? 断るにしたって、何かあるだろ』
「やっぱ、あきらめさせる嘘かな」
『嘘じゃないと怖いよ』
「……その怖さがあったんだよね。近づけない感じの」
雪香はため息をつく。
『じゃあ──酷なこと言うけどさ。振られてよかったんじゃない?』
「……でも」
『死ぬの分かってて好きなの? しかも病気とかじゃなくて、自殺するとか言ってんだよ?』
「ん……」
『深奏には重いよ』
沈黙が流れた。首を振って息を吐き、「そうだね」と私は言った。
「雪香のほうが、普通の感覚だと思う」
『「自殺するから」なんて理由で振られたら、ぞっとして醒めるもんだけどね』
「私は、哀しい」
『ずいぶん片想いしてたもんね』
「毎日、澪くんを想ってるのが当たり前になってたのに、それも拒絶されたんだよ。死んじゃったら、片想いすらできなくなる」
『ずっと片想いでいいの?』
「分かんない。でも、生きててほしいよ。つきあってって言わなければいいのかな。そしたら澪くんは『死ぬ』なんて言わないのかな」
『冷静に考えれば、そうとう拒否したかっただけだからね』
「………、じゃあ、……私が近づかなければ」
『普通に生きてるんじゃない?』
本当に、ばっさり言ってくる幼なじみだ。ときどき、話しているとつらくなるほど残忍に突き刺してくる。
けれど、今回に関しては、そうやって客観で穿たれてほっとしたい自分がいる。
そうだ。自殺なんて、そんなにあっさり実行するはずがない。せめて実行するなら胸に秘めていて、突然思い立つ。告白してきた友達以下の女に、そんな重要な予告を無頓着に話すわけがない。
澪くんは自殺なんてしない。あれは私を拒絶する嘘だ。……よほど私がうざったかった、嘘だ。
電話を切って、話相手もいなくなると、部屋を真っ暗にしたまま唇を噛んだ。静かな寒い部屋で小さく身動きし、これもこたえるなあ、とちぎれた笑みがこぼれる。
澪くんは、そこまで私の気持ちが鬱陶しかったのか。そんなに疎まれていないつもりだった。ふたりで帰る申しこみを受け入れられて、応えてもらえるかもしれないなんて期待もちらついた。
バカみたいだ。考えてみれば、澪くんから私に話しかけてきたことなんてあった? 全部、いつも、私が押しかけていた。澪くんはただそれをうまく処理していた。
私だけ、もしかしてなんて舞い上がって、嫌われていないと信じて、一方的に強く想って──
何でこうなのだろう。初恋とまるで同じだ。相手にはそんなつもりないのに、勝手にうぬぼれて、真実を告げられると裏切られたように感じて、よけい傷つく。
膝に顔を伏せると、いつもの香水のラストノートが分かった。
よかった。そう、よかったじゃない。嘘なんだから。澪くんは死んだりしない。そんなのありえない。
それでも──この香水しばらくつけられないなあ、と流れてくる塩味に、引き攣る呼吸を押し殺した。
週末はベッドにもぐって、レポートもせずに陰鬱な繭にこもって過ごした。そして月曜日、澪くんに逢わないといいなあと重い心身を引きずって、何とか登校した。
けれど、もともと澪くんに惹かれたのは、重なる授業が多かったせいだ。澪くんは部活はひとりなのだけど、授業はよく三人行動で受けている。ひとりは、澪くんに較べれば服装は地味でも、中性的な顔立ちと明るい茶髪がかわいらしい男の子。もうひとりは、澪くんより激しいパンクファッションながら、陰のある美人の女の子。
女の子については、彼女ではない、と一応澪くん本人に聞いていたけど──彼女なのかな、とやっぱりその三人組と授業がかぶってしまい、後列にいた私は胸の黒雲にいたたまれなくなった。
先生の話なんか聞かずに、週末に放っていた別の教科のレポートをしていた。チャイムで、目覚ましが鳴ったみたいにはっと顔を上げた。何となく急いで荷物をまとめて、雑談しながら移動やスマホチェックを始める周囲を縫って、教室を出る。
次何だっけ、と歩きながら手帳を取り出したときだった。
「あの、すみませんっ」
自分にかけられた声とは思わず、速足に階段に向かっていた。そしたら、肩をたたかれてびくっと立ち止まった。
恐る恐る振り返る。私の肩をたたいたらしい手を宙に置いていた人は、明るい茶髪を揺らし、大きな瞳をどこか妖艶な印象で笑ませた。
「次の授業、出ないと危ないですか?」
【第二話へ】