romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

あと数秒で-3

 次の部活動の日、さんざん迷って足踏みしたけれど、図書室の扉を開けた。
 澪くんは、やっぱり奥の窓際で分厚い本を読んでいた。かたむいて緩い陽射しに金髪が透け、その赤にルビーのピアスが瞬いている。
 ほかの部員にも挨拶すると、躊躇いつつ、澪くんに近づいた。逆光の中、澪くんの長い睫毛が頬で濃い影になっている。私の気配を感じ取ったのか、澪くんはゆっくりと顔を上げた。
「よう」
「……先週の本と違うね」
「あれは読み終わった」
「澪くん、読むの早いよね」
「つまんねえと遅いけどな」
「途中でやめないの?」
「最後の一行まで読まないと、分からないから」
 最後の一行まで。どうして。本ならそれができるのに、命にはそれができないの。
 生きることだって、最後まで遂げればいいじゃない。途中でやめることないじゃない。最後の一瞬まで、分からないのに──
 澪くんの隣の椅子に腰をおろした。そっと窺って、嫌な顔をされないのは確認する。
 青の瞳は、そっけない目つきでまた字をたどる。細く長い指が、厚い本を危なげに支えている。澪くんはページをめくり、そのまま読み進めるかと思ったら紐を挟んで本を閉じた。
「悪かったな」
「えっ」
「木立に押しかけられただろ。あいつのことは、裏切りたくないんだけどな」
「………、裏切るって」
「一度、『生きる』って言っちまったことがある。その頃、彩空ともつきあってた」
 彩空。そういえば、木立くんもその名前を口走っていた気がする。というか──
「つきあってた子、いるんだ」
「中学のとき」
 そうなんだ、と返したかったのに、声がかすれる。反射的に、胸が嫉妬で黒くさざめく。
「でも、やっぱり、生きるなんて俺には向いてなかったから」
 そばの席に人はいなかったけど、それでも澪くんは声を抑える。
「木立に、『やっぱり、俺は十八の誕生日が最期だ』って」
「十八歳の誕生日、っていつなの?」
「来月の十日」
 息を飲んで目を開いた。来月の十日──もう、半月もない。よく知らない私なんかを頼るなんて、木立くんのどこか焦った行動がやっと分かった。
 澪くんは再び本を開いて、静かに読みはじめた。澪くんはフランス文学が好きだ。読んでいる本も、フランス文学の翻訳であることが多い。
 今読んでいるのも、表紙をちょっと覗きこむと、原題らしいフランス語があった。Paradis d’une bulle──訳されたのは、
「『泡の楽園』……?」
「フランスの作品だけど。日本での事件を題材にしたらしい」
「そうなの?」
「俺が生まれた年にあった事件。両親を殺した犯人が、潜伏先で風俗嬢と恋をするんだ」
 澪くんのカラコンにうっすら文字が流れていくのを見つめ、あの事件って最後どうなったかな、と思った。風俗嬢と恋に落ちたのは、ずいぶんあとになって明るみに出た気がする。
 けれど、そうなのか。あの頃、澪くんは生まれて──今、死のうとしている。
 どうして、なんて本人にもやっぱり尋ねられない。澪くんから切り出さない限り、話題にも出せない。どれほど奥までえぐられた心の傷なのかなんて、訊けない。
「好き」とか「つきあいたい」ではなかった。手が届かなくていい。澪くんが死ぬなんて悪夢に較べたら、つきあえないことなんかどうだっていい。
 ただ、生きてほしい。どんなにつらい記憶があるのだとしても、自殺なんて選択はしてほしくない。
 澪くんが生きて、その未来が続いて。木立くんのように近くなくていい、あわよくば、つながりを持てて、見守ることができたら。
 この恋は、それだけで──……
「ねえ」
 願いとは裏腹に何もできず、十二月に入った。憂鬱な視線を足元に下げて学校の階段を降りていると、ふと頭上に低音の女の人の声がかかった。
 足を止めて顔を上げ、瞬きをする。踊り場から私のかたわらに、かつかつ、と高いヒールのブーツの女の子が降りてきていた。
 ショートボブの黒髪、鋭利に長い睫毛、毒々しいほど赤いルージュ。身動きに合わせて、血のりがまとわりついた大きなクロスのピアスが揺れる。服装も編み上げや安全ピンがパンクで、すぐに澪くんの友達のあの女の子だと分かった。
 同じ段差に来られて、彼女が目元にも赤いピアスをしているのに気づく。そう、たぶん澪くんと同じ、ルビー──
「木立からだいたい聞いたけど」
 彼女のほうが背が高く、少し見上げさせられる。私と違って、胸はあるのにかなり華奢な腰で、脚も長い。
「ほんとに、澪を生かしてくれるの?」
「えっ」
「澪の気持ちを変えられるの?」
 いきなりすぎてとまどっていると、彼女は息をついて、しなやかにこまねいた。
「半端ならやめて」
 どきんと痛いほど心臓が刺さる。
「澪が甘ったるい恋愛で変わるわけないわ。それは──」
「彩空!」
 彩空。その名前に私がこわばっていると、ばたばたと降りてきたのは木立くんだった。その向こうには澪くんもいて、一瞬目が合う。
「何してんだよ、お前」
 言いながらも察しているのか、木立くんは私と彩空さんのあいだに入る。「別に」と彩空さんは黒い爪の指を髪の先に絡めた。
「あたしもちょっと話してみたかっただけ」
「どうせ曲がったことしか言ってないんだろ。ごめん、深奏さん」
「う、ううん──」
「俺が注意しとくからさ。こいつに言われたことは気にしないで」
「木立、年下のくせに生意気なのよ」
「深奏さんには、お前も年下なんだよ」
 鬱陶しそうに表情をゆがめる彩空さんは、澪くんもこの場に来るとそっぽを向いた。私はおろおろとバッグを抱きしめ、「澪」と木立くんは彩空さんを引っ張りながら言う。
「俺たちは、先に食堂で時間つぶしてるから」
「は? 木立──」
「彩空は黙ってろ。いいだろ?」
 澪くんは私をちらりとして、「ああ」とワッペンとチェーンのバッグを肩にかけ直す。「ほら」と木立くんは彩空さんを追い立てた。
「じゃあね、深奏さん」
 木立くんは、あまり私と彩空さんを近づけたくないみたいだ。彩空さんもそれを察したのか、仕方なさそうに目を伏せると、木立くんを放って歩き出した。
「女王様が」とか言って木立くんは彩空さんの隣に並び、「うるさいのよ」とか彩空さんが言ったのを最後に、ざわめきでふたりの話し声は聞こえなくなった。
 澪くんを見上げた。澪くんはやっぱり起伏のない目に、今日も青のカラコンを入れている。
 彩空さん。仲良くするということは、澪くんはああいうタイプが好みなのかな。私とは正反対の人で落ちこみたくなる。
「き、綺麗な女の人だね」
「深奏さんには、あんなの『女の子』だろ」
「そう、かな」
「まだ十九だぜ」
 十代。そうなのか。何となく、二十代だと見ていた──老けているという意味でなく、妙に貫禄があった。
「変なこと言われたか」
「え、そんな。すぐ木立くんが入ってくれたし」
「……そうか」
 バッグを抱きしめて、すれちがっていく生徒の中で、時間が止まったみたいに立ち尽くす。
 彩空さんの言葉がよぎった。澪くんを生かしてくれるのか。半端ならやめて。だとしたら、半端ではないということはどういうことだろう。それが分かるなら、何だって──
「じゃあ、あいつら待たせられねえし」
「あ……」
「そもそも、何で置いていかれたのか分かんねえけど」
 澪くんは小さく息をつくと、私を置いて歩き出した。その大きな背中に、つい声をかけていた。
「み、澪くんっ」
 足を止めた澪くんは、静かに振り返る。私はバッグを抱く腕に力をこめ、澪くんがいる段まで追いついた。
「も、もしね」
「ああ」
「『生きてほしい』って言ったら、つらい……?」
 澪くんの目は静まり返った水面のように動かない。その瞳の静寂が、どんな動揺より痛い。
「もし、ほんとにそんなことされたら、私は勝手な片想いもできないよ。見守ることもできなくなる」
 そのとき、チャイムが鳴った。いつのまにか階段を行き来する生徒はいなくなっている。澪くんは視線を脇にやると、ふうっと息を吐いて、階段をまた降りはじめた。
「澪く──」
「それでも俺は死ぬ」

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