Koromo Tsukinoha Novels
授業なんか、そのままサボった。家に着いた私は、自分の部屋に入った途端、まるであの日の血のように涙をあふれさせた。
寒さの中を突っ切ってきた頬も、澪くんに会うかもしれないと整えていく服も、あまりの涙の量にぬかるむように濡れていく。
喉の中に痣ができたみたいに、呼吸するのが痛い。視界も脳裏も足元も、割れてぐらぐらと壊れていく。
どうして。何で死ぬなんてそんな哀しくてひどいことを、あっさりと口にするの。死にたくないのに生きられない人だっている。そんな教科書的な文句も浮かばないほど、澪くんの答えがつらい。
それでも俺は死ぬ。木立くんにも言ったの? 彩空さんにも言ったの? 生きてほしいと言われたとき、澪くんはそう言ったの?
きっと、そうなのだろう。親友に、恋人に、大切な人に、澪くんはそう答えながら生きてきた。だから、木立くんは私なんかに声をかけた。彩空さんは私なんかと声をかけた。
澪くんを変えられるかなんて、私には分からない。でも、澪くんを想う気持ちは本物だ。
澪くんが好きだ。生きてほしい。澪くんの命が続くのを見守れるなら、もうそれでいい。この恋は、それだけで幸せになれる。
それでも、澪くんは死を選ぶの? 私の想いなんて、何の力にもならない? 誰も澪くんを止められないの?
翌日、泣きすぎて目が腫れぼったいから、軽く度も入った眼鏡をかけて登校した。
うなだれていたから、声をかけられて初めて、校門に木立くんと彩空さんがいるのに気づいた。澪くんはいない。ふたりは私の眼鏡の奥の目の事情は分かっているようで、それには触れずに「話がある」と中庭に連れていかれた。
「澪が決めてる日は、知ってる?」
ベンチで隣に座った木立くんに言われて、その質問が分かってしまう自分にまた泣きたくなる。
「……十八の誕生日」
「うん。一週間後だ」
はっとして、一週間、という生々しい近さに本気で肩が震えた。
そうだ。今日は十二月三日。十日まであと七日。
狼狽した視線が徐々に落ちこんでいく。そんな私を彩空さんは背後から校舎にもたれて眺めている。
「こ、木立くん……たちは、その、怖くないの」
「怖いけど。俺たちは麻痺しちゃったから。かえって、まだ実感がない」
「澪くん、ほんとに……」
「俺には分からない。世紀末の予言みたいにはずれるのかもしれない。一度、やっぱり迷信だったと思えたようなときもあるしね」
スカートの上で手を握った。
「……言ってた。木立くんに、『生きる』って言ったことがあるって」
「そっか。あのとき、澪にそう言わせたのは、彩空だから」
私は小さく彩空さんをかえりみた。彩空さんは睫毛の奥から私を見返す。
「あたしが無理だったから、ひがんであんたも無理だってバカにしてるんじゃないわ」
「彩空」
「思ってるでしょう。生きてほしい、見守りたい、それだけでいいって。報われない片想いでも、澪が生きてるだけで幸せだって」
「彩空さんは思わなかっ──」
「思ってたわよ、あたしだって! でも、そんなふうに思われたくらいで、澪は変わらないのよ。どんなに想っても、想わせてって頼んでも、澪は言ったわ。『俺は死ぬ』って」
「──……」
「どうせ二の舞だって言いたいの。昔のあたしを見てるみたいで、それがいらいらする。あんたがやってることは、あたしがじゅうぶんあいつにやってみたわ」
彩空さんは瞳を苦くさせて顔を伏せた。
そうか、と思った。彩空さんも同じなのだ。この気持ちを彼女も知っているのだ。澪くんが好きで、生きてほしくて、想っていたくて、なのに、「死」で絶対的に拒絶されて。
「それでも」
木立くんを見た。妖艶で大きな瞳は、私をくっきり映す。
「澪のそばにいてくれないかな」
「え……」
「深奏さんなら、なんて期待させることは言えないけど。澪のそばにいてやってほしい」
「……でも」
私が彩空さんを一顧すると、「彩空はああいう意見で」と木立くんは肩をすくめる。
「言っておきたいって言うから、言わせたけど。こいつなりの厚意だしね。澪のそばにいるなら、実際知っておいたほうがいいことだし」
「……私、ほんとに、たぶん何もできない……よ」
「澪を想ってくれるだけでいい。俺は、それで何か変わるかもって、まだ──」
「澪」
さえぎるように聞こえた彩空さんの言葉に、木立くんははっと昇降口につながるほうを見た。私もそうして、目を硬くさせる。
そこには、いつも通り無表情な澪くんがいた。澪くんは私たちをひとりずつ見ると、かすかにため息をついた。
「もういい」
「澪、俺──」
「俺が話すから」
「えっ」
「俺から全部話す」
そう言った澪くんは大股でこちらに歩み寄ってくると、硬直していた私の腕をつかんで、「来い」と引っ張ってきた。
私は取り落としかけたバッグを慌ててつかみ、澪くんを見上げて、木立くんと彩空さんを振り返った。木立くんは何か言いそうでも何も言えないように、彩空さんは冷淡な目を唾棄のように、よそにやった。
つまずきかけて慌てて正面を向き、私は何とか澪くんの歩幅を追いかけた。
澪くんが足を止めたのは、図書室の前だった。ドアには鍵がかかっていて、澪くんはちょっとだけ眉を顰めた。でも無理に入ることはせず、廊下の突き当たりで人通りを遠ざかると「寒いけど、ここでいいか」と手を放して訊いてくる。
「う、うん──」
つかまれていた腕を無意識にかばってさすると、「痛かったか」と澪くんがそれに金髪の隙間から目をとめる。私は慌てて首を振った。
「ならいいけど」と澪くんは窓にもたれ、陽射しは緩いけど逆光で表情が窺いにくくなる。蜂蜜のような髪は透け、血のようなルビーのきらめきが眼球を痛ませる。
「あいつらが必死になってることに、お前を巻きこんで悪いな」
「……私も、同じ気持ちだから」
「俺は──」
「私も、澪くんと生きたいと思ってる」
澪くんが少しうつむいたのが、髪が揺れたので分かった。私は唇を噛んで、それでも、昨日あんなに流したのに、なおもこみあげそうな涙のまま続ける。
「木立くんの気持ちも、彩空さんの気持ちも分かる。ふたりとも、澪くんに何も求めてない。ただそばにいたいだけで──一緒に生きていきたいだけ。私もだよ。私は、あのふたりほど澪くんに近くないけど。それでも、澪くんと生きたい。なのに……澪くんは、私たちと生きることができないの?」
澪くんは微睡むような冬陽の中で顔をうつむけたまま、何も言わない。校舎の笑い声やさざめきは、やがてチャイムが鳴って静かになった。
澪くんが断った通り、ここは寒くて肌が少し粟立つ。
沈黙がとどこおったあと、澪くんがいつもの低い声で口を開いた。
「俺の人生は、何秒かしか残ってないようなもんだ。あと少しで止まる。『お前、女みたいだな』って──そう言われたときからカウントダウンだった。俺に初めてそう言ったのは、兄貴だった」
いつのまにか首を垂れていた私は、顔を上げる。
「何でだろうな。そのあともそうだけど、女みたいな男っていうのは、男の中でいろんなはけ口の対象だ。男みたいな女は女の中でたぶんそんなことないのに、男の場合は蔑まれて犯される。精神的にも、俺は……肉体的にも」
「えっ」
「ふたり部屋でも、風呂でも、家にいるあいだはいつも、兄貴が俺の軆をまさぐってた。男らしくない俺を軽蔑した目で、生温い息を荒くさせて、俺の軆に臭い精液をぶっかけて。目をそらしたら殴られる。逃げようとしたらのしかかられる。泣いたら口を塞がれる。『にいちゃんのこと好きだよな?』そう訊かれても、嫌いなんて言えばぶたれるんじゃないかって怖くて。『どのくらい好きか知りたいから教えて』どうやってって訊き返した声がどもってて、兄貴はにやにや笑った。『簡単だ、あーんって口開けて』──分かるか?」
乾燥した口の中が震えて、声は出なかった。目の前が真っ暗で、そのせいで光景がまぶたに浮かんでしまう。
「兄貴にそんなことされて、俺は男ってもんが分かんなくなった。自分も男なのに、男が分からないんだ。ただ、その頃から死にたかったのは憶えてる。だから、いっそ殺してほしかった。だから木立に『友達なら殺してほしい』って頼んで、『何でそんなこと言うのか分からない』って、それであいつには事情は知られた。それでも、俺は男を分かってない男だったから、小四くらいから同級生にも手を出されるようになった。最初は服を脱がされたり、それを写メられたりだったけど。いつから触られるようになったんだったんだろうな。不本意だけど、兄貴のせいでうまかったから。『何でフェラがこんなにうまいんだよ』『おっさんに教わったんだろ』『いくらで売ってんだよ』とか、めちゃくちゃなうわさが立った。そのせいで大人にも変な目で見られるようになって、そもそも兄貴との仲を疑ってた親がついに切れた。男たらしの息子なんかいらない、変態を育てた憶えはない、『早く死ね』って」
ずきり、と左手首のケロイドが神経に食いこんだ。木立くんの言葉。私の経験と、澪くんの経験は、同じ……
「中学生になって、何度も自殺しようとした。そしたら俺のことを憶えちまった警察に怒鳴られて、病院をまわされて医者にも責められて。彩空とつきあって、生きようとしたりした。でもやっぱりダメだった。俺には死が当たり前だった。面倒見なくていい十八になったら捨てる、縁を切る、ひとりで生きろって親に言われた。俺は……弱いな。首にガムテープもケーブルも巻けるのに。カッターで手首も首も切れるのに。自分で食っていく自信だけは、どうしても持てなかった。それは自由なのに、自信がなかった。分からなかった、自分で生きていくってどういうことなんだって。何で苦労してまで生きなきゃいけないんだって。自分で自分を養うなんて理解できない、意味が分からない、俺はこんなに死にたいのに!」
強くなった澪くんの声にびくんとしてしまう。一気に記憶を吐いた澪くんの息は、わずかに震えていた。
「だから……」
澪くんの視線が来たのが分かった。私はもう言葉をかけられない。
「俺は死ぬ。十八になったら、死ぬんだ」
頭の中が真っ白だった。
ひどい感情かもしれない。それでも生きてよ。そう言うのが正しいのかもしれない。なのに、私はとてもそう思えなかった。
無理だ。私には無理だ。無力という意味じゃない。あまりにも彼の傷が深くて、その絶望の重さが垂れこめる。
そして、思ってしまう。私、この人に“命”を強要できない──
「深奏さん」
逆光から澪くんの影が動いた。我に返ったとき、口元に塩味がした。
「あんたが泣かなくていい」
泣く……ああ、私、泣いてしまっているのか。
「感謝してる。俺の読む小説の趣味なんか、どうだっていいだろうに聞いたりしてくれて。この話もできればしたくなかった。一緒に傷ついちまうだろうから。それでも聞いてくれたな。ありがとう」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。そんな優しい声、嫌だ。
お願いもっといつもの声で話して。
こんなの、もうこれが──
「そこまでしてくれても」
終わりのようで、
「俺は」
終わりのようで、
「生きるってことでは応えられないけど──」
終わりのようで……
腕を引いて、澪くんは私を抱きしめた。骨張った腕が肩を覆う。眼鏡の中でぼろぼろと涙がこぼれて、澪くんの胸を濡らしていく。嗚咽を抑えようとしても、軆が痙攣する。
「キスくらいしてやりてえけど」
澪くんの自嘲の笑い声が、哀しみを帯びる。
「俺から、あいつらの汚いもんがうつっちゃ悪いよな」
誰か来たら、この抱擁すら終わるのに。それでも、私は声を出して泣き出してしまう。
澪くんは私の頭を撫でてくれる。温かな手が髪をなだめてくれる。それでも涙は止まらない。この手が冷たくなるのは、もう間近に迫っている。
その音が私にも聞こえる気がした。ひどく恐ろしい音。ひどく優しい音。ひどく冷たい音。
カウントダウンの秒針。
あと数秒。数秒しか残っていない。
そしたら、この人は死んでしまうのに。
私には止められない。秒針を折って、カウントダウンを止めたい。でも、もう間に合わない。
私の好きな人は、あと数秒で命が時間切れになって、生まれ落ちた日に死んでしまう。
FIN