奥へ、もっと奥へ──入口をかけ離れていく。奥深くまで迷いこんでいく。落ちる影が濃くなって、私はつないでいる手を握る。その手さえあれば、やがて死ぬだけの樹海も怖くない。
割ったたまごをふたつフライパンに落とし、水を入れて破裂するような音に蓋をする。
午前七時を少し過ぎた。背後のリビングでは、初夏の陽光がきらきらと射しこんでいる。オーブンに設定した電子レンジからは、パンが焼ける匂いがしている。目玉焼きが半熟になるのを待つあいだに、廊下のほうで物音がして、足音が近づいてきた。
「おはよ」
顔を出すのは、弟の燐しかいない。この春、燐は高校三年生になった。進学するつもりはないと言っている。私同様、高卒で働きたいのだそうだ。
「おはよう」と私が返すと、「うん」とジーンズとシャツを羽織っただけの燐は冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して、マグカップにそそいでごくんと飲む。
「目玉焼き?」
「半熟」
「飯に乗せて食いたい」
「今朝は食パンしかなかった」
「ふうん」
蓋を取ると、ふわっと湯気が白く舞い上がる。湯気が消えると、うっすら白い膜のかかった半熟の目玉焼きが現れた。塩胡椒を振りかけていたとき、ちょうど電子レンジのベルが鳴って、燐がトーストを皿へと取り出しにいく。
「乗せて」
燐が持ってきたトーストふたつに、つながった目玉焼きをフライ返しで切って、ひとつずつ乗せる。燐はサラダが用意してあるテーブルの席に着くと、さくっと香ばしい音を立てて、それを食べはじめた。私もコンソメスープを入れてから正面の席に腰を下ろす。
朝はいつも食欲がない。本当は、成長期の燐に合わせて、もっとしっかり作らなくてはならないのだけど。
「仕事、慣れた?」
生野菜のサラダにドレッシングをかけながら、燐は訊いてくる。
「責任だけ増えた」
「無理すんなよ」
「うん」
「来年は俺も働いてんだし」
「高卒って意外と厳しいよ」
「大学行ってる金がそもそもないだろ」
燐の五つ年上の私は、今の職場で四月からバイトから準社員になった。事務職で、PCとひたすら向き合うという仕事内容はあんまり変わらなくても、量と勤務時間が重くなった。肩凝りよりも頭痛がひどい。仕事中の眼鏡の度も厚くなった。
「私のときは、奨学金とかもあるって言われたけど」
「俺はねえさんみたいに頭良くないよ」
「そうかな」
「勉強、好きでもないし」
「ふうん」と私はコンソメスープをすすり、味が染みてふやけたクルトンを飲みこんだ。
燐はすぐ朝食を胃に片づけると、ばたばたと登校の支度を始めた。私も食器を洗うと、今日着ていく服を選んで、化粧をする。
いつも先に家を出るのは燐だ。リビングの壁にかかった鏡の前で眉を整えていた私は、燐の「いってきます」の声に振り返り、「いってらっしゃい」と返す。
燐が家を出て、化粧を終えると、洗濯物を集めて帰宅したらすぐ放りこめるようにしておく。そして、バッグをつかんでヒールを履いて、マンションの一室の家を出る。
連休明けでまだちょっとだるい軆に、早くも熱っぽい陽射しがそそいでくる。こつこつ、と足音がアスファルトをたどる。このあたりは住宅地で、マンションだけでなく、メゾンやハイツやコーポが立ち並んでいる。
以前の家からこの町に越してきたのが七年前で、駅までの入り組んだ道にもずいぶん慣れた。同じように通勤する人を縫い、ICカードで改札を抜けて、満員電車に乗りこむ。
市内までの約二十分間は、最悪だ。密着する軆、イヤホンの音漏れ、他人が吐く息も気持ち悪い。痴漢も少なくなくて、毎日乗る車両や扉の位置を変えなくてはならない。神経質に目を閉じて、よろけて人にぶつからないことだけを祈る。
咳払い。新聞の臭い。スマホをタップする爪。
いらいらしてくる。息苦しさでめまいも覚えた頃、やっと目的の駅に着いて、電車を吐き出される。
徒歩五分で会社の入ったビルに到着する。更衣室で同僚と「おはようございます」を言い交わしながら、ベージュの制服に着替えてタイムカードを切る。
九時までには着席、PCを立ち上げておく。九時から軽く部長が朝礼を行い、それが終わると、一日の配分を考えながらPCで作業を始める。ポーチから眼鏡を取り出して、私もすっかり覚えたブラインドタッチで数値を打ちこんでいく。
「早永さん」
午前は休息もなく、ずっとPCと向かい合っている。バイトの頃は、これで終わる日もあった。あるいは、午後だけの日もあった。少なくとも残業はなかった。でも、準とはいえ社員となると、こき使われるのが増えた。
今日もランチのコンビニのパンを食べていると、そう声がかかってデスクに書類の束を置かれた。
「これ、井崎さんがどうしても納期に間に合わないって。手伝ってやって」
ふうっと息をついた私は、そう言った上司の敦海さんのにこにこした顔を見上げた。
「またあの子ですか」
「ほんと困るよね」
「そう思ってるなら、私に仕事まわすんじゃなくて、少しはしかってやってください」
「僕には都合がいいからね。早永さんに話しかける切っかけになる」
屈託のない笑顔にうんざりして、書類の束を一瞥した。
「分かりました」
「また?」
「はい」
「僕と食事してくれるなら、手伝ってあげるし、井崎さんにもひと言言ってあげるのに」
「何度も聞きました」
「そんなに僕に興味ない?」
「ありません」
「つきあってくれるまで、君には嫌がらせするよ」
「大した嫌がらせじゃありませんから」
敦海さんは楽しげにくすくす笑うと、「じゃあよろしく」と書類に手を置いてから、オフィスを出ていった。私は苦々しく顔を伏せ、クロワッサンの封を開けた。
バターが香る柔らかい生地を黙々と食べながら書類をめくって、先月もできてなかった仕事じゃない、と舌打ちしたくなる。クビになってもおかしくない子なのに、敦海さんのあの気紛れのせいで、部長には何の報告も行ってない。
ここに勤めはじめて五年近くなるけれど、あんなにしつこい男は初めてだ。私の淡白さに、言い寄っているうちから冷めて、いつもみずから男は去っていく。敦海さんは、二年前にこの支社に主任として配属されてきた。それから私に目をつけて、しょっちゅうこんなくだらないちょっかいを仕掛けてくる。
迷惑もいいところで、早くあきらめてほしいのに、なかなか見切ってこない。適当に相手したら飽きるかとも思うのだけど、変につけこまれて深入りもされたくない。
男なんていらない。
男なんてみんな同じだ。
私は、あの子さえいればそれでいい──
その夜も、私は燐の部屋のドアを開けた。燐はベッドに腹這いになって、スマホを見ていた。シャワーを浴びて、ポニーテールにしていた髪を下ろしてマキシワンピースになった私は、ベッドサイドに腰かけてスマホを覗きこもうとした。
「ダメだよ」
燐はボタンで画面を落として、スマホを胸に伏せる。私はちょっと咲って、スマホを奪い取ってみようとする。燐も咲って私の悪戯を防ぎ、手首をつかむ。
すぐ近くになった顔に、少しずつ笑みが崩れ落ちて、その吐息が絡み合って、燐は軽く私の唇に口づける。その優しい感触に、睫毛が震える。
「気持ち悪い男がいるの」
「あの上司?」
「うん」
「だから、社員になるより仕事変えたらって言ったのに」
「ほんとは、燐を大学に行かせてあげたい」
「行きたければ、自分で資金作って行くよ」
「そうやって、私から離れていくの?」
燐は私の手首を引き寄せ、今度は深く口づけてきた。燐の舌の感触。味。熱。私の奥まで伝わっていく。私も燐の口の中を愛撫する。こぼれる息継ぎがほてる。
燐の手が私の腰にまわって、ぎし、とベッドが軋んで軆が重なる。
「俺はどこにも行かない」
「……燐」
「ねえさんを離したりしない」
燐は身を起こして、額に額を当てながら私のワンピースのボタンを外していく。私も燐のTシャツの中をまさぐって、硬い筋肉の背中を指でなぞる。
燐の右手が下着をつけていない私の乳房を包んで、左手が私の髪を撫でて、唇が私の耳たぶを甘く食む。私は空に声を彷徨わせながら、脚のあいだが熟れたように熱く湿るのを感じる。下腹部に当たる燐のものも、ジーンズの下で苦しげにふくらみを帯びていく。
燐の舌が私の首筋をたどり、私は少し軆を離して、燐のTシャツを脱がせた。燐のきめ細やかな肌に指を這わせ、唇で鼓動を聴く。燐の骨張った指のあいだを私の髪が流れる。息遣いと衣擦れがひそやかに響く。
「燐」
「ん」
「愛してる」
「うん」
「燐だけ」
「知ってるよ」
燐は私の軆をすくいあげ、位置を入れ替えてベッドに押し倒した。燐の腰が、私の腰を服越しにこする。息遣いが溶ける。焦れったさに視覚が泳いでくる。
燐は私の乳房に唇を寄せ、舌を絡みつける。舌と腰の動きがゆっくり波動を持ち、静かな波紋で私を白く刺激する。声がぽたぽたと虚空に落ちて、私は燐のたくましい背中を抱く。
核が敏感に腫れて、入口があふれてくるのが分かる。
「燐……もう、」
「……俺もやばい」
布越しの快感があまりに切なくて、泣きたくなってくる。燐は私のワンピースをたくし上げて下着を紐でほどき、自分もジッパーを下ろす。入口が、求めて小さく痙攣しているのが分かる。そこに先走った燐が触れて、私たちは軆を合わせて、そのまま硬い脈打ちが中をつらぬいてくる。
私は押し寄せる充実に目をつぶる。燐はそんなに激しく動かない。奥まで突いて、核まで響かせ、私を先に何度もくらくらしてくるほど絶頂に近づける。私は次第に喘ぎ声もかすれさせ、蕩けるように熱いため息をもらす。
自分が燐を締めつけるのが分かる。燐のかたちを、手を添えるように感じる。そこまで私が昇りつめかけて、燐の腰が動きはじめる。私の中で自分を昂ぶらせ、小さくうめきながら、狭まった体内で欲望のまま駆り立てる。
濡れた音がうごめいて、ベッドの軋めきも早くなる。私は燐の軆にしがみつき、その振動に揺すぶられて途切れる声を出す。
「ねえ……さ、っ」
「……や、名前……っ」
「……藍、藍っ」
「り……んっ……っ」
何度も名前を呼び合いながら、私たちはひとつになる。
毎晩。ひっそり。激しく。姉弟という殻を脱ぎ捨てる。
このときだけ、燐のことだけ、すべて拒絶する私は許し入れることができる。
だから私は、燐以外、何もいらない。
ようやく痺れるほどの戒めを解いて絶頂が満ちると、私たちは明りを消して同じ毛布にくるまる。燐は腕まくらをして、甘い指先で私の髪を梳く。胸に何か当たっていて拾い上げると、さっき奪えなかった燐のスマホだった。
「充電しなくていいの?」
燐はスマホを受け取り、画面を点燈させた。ぼんやりそれを眺めていた燐は、私に差し出した。私は向けられた画面を見た。
『二年のときから、リン君が好きなんだけど。
やっぱり、あたしは友達かな?』
「誰?」
「今は友達」
「つきあうの?」
「さあ」
私は、画面を押し返した。燐はベッドスタンドにスマホを置くと、「寝よ」と言って私の頬をさすった。私は暗闇を縫って、燐の黒い瞳を見つめたけど、小さくうなずいてまぶたを下ろした。
分からない。いつまで、私たちはこんな揺りかごの中のようなことをしているのだろう。けれど、やっぱり、燐のほかには何もいらない。
まぶたを閉じると、その中がまたたく。影。襲う影。私は樹海にいる。怯えるほど迷う。手を差し出したのは燐だった。影はただ横たわる。おかあさんが泣きながら私と燐を抱きしめる。
おかあさん。
……今、どうしてるかな。
そう思うと、電源が落ちるように眠たくなる。燐にぎゅっとつかまる。思い出したくないことは思い出さず、そのまま私は夢にさらわれた。
【第二話へ】