春の陽射しがレースカーテン越しに暖かい窓辺でうとうとしていると、「お昼寝しようか」と優しく言ったママが私に毛布をかけた。ママも、と言おうとしたけど、眠たくて声にできないまま、私はすうっと眠ってしまった。
それから、五分だったのか。あるいは、一時間だったのか。
遠くにママの声が聞こえて、私は薄目を開けて起き上がろうとした。
「うん、こないだ三歳になった」
三歳。先週、私はママが作ったケーキとパパが買ってくれたおもちゃで、三歳になったのを祝ってもらった。……私のこと?
「そう。ケーキ作ってね。買った奴でいいのに、かあさんが作ってやりなさいってうるさくて」
かあさん。ママのおかあさんってことは、おばあちゃん?
「じゃああんたが作ればって思うけど、それはしないんだよねー。あんたのために作った子だっていうの」
何……だろう。胸騒ぎがこみあげてくる。
嫌だ。これ以上聞かないほうがいい。聞いちゃダメだ。聞いてしまったら──
「ほんとは、私は鈴のことなんかいらなかったのに」
心臓が、ずくんと、突き刺さるように脈打つ。
な……に?
ママ、何言ってるの……
鈴のこと、いらないって──
ママはまだ何か話している。でも、もう聞こえない。頭の中が真っ白に砕けて、鼓膜には穴が空いてしまったみたいだ。
その場は、こらえた。毛布の中に縮まって、涙すら我慢した。けれど、とてもじゃないけど、ひとりでは抱えこめなかった。ママに対しておどおどするようになった私を、パパが心配して「どうかしたのか?」と頭を撫でてくれた。
パパも、ほんとは鈴のこといらないのかな。その心配する目も、嘘なのかな。そんなことをぐるぐる考えて、私はいきなり泣き出してしまった。
びっくりしているパパに、私は全部話した。私の泣き声が聞こえたのか、そばに駆け寄ってきていたママの表情が、打ち明ける私の言葉のたびに凍りついていく。
ママが鈴のこといらないって言ってた。おばあちゃんのためって言ってた。お誕生日のケーキを作るのもほんとは嫌だったんだ。鈴はいらない子なんだ。鈴なんかいなくなればいいんだ。パパもそう思ってるんでしょ。鈴のことなんか、みんな、誰も、好きじゃない──
「鈴。落ち着いて、鈴」
わんわん泣きわめく私を、パパは真っ先に抱きしめてくれた。パパはいつもほんのりコーヒーの匂いがする。
「鈴、パパは鈴のことが大好きだから。安心して」
うそ、うそだ──そんな言葉を繰り返す私を、パパは何度も私の名前を呼んでなだめてくれた。まだしゃくりあげながらも、私の涙と震えが落ち着いてくると、パパはもう一度力強く言った。
「パパは鈴が大好きだ。鈴が生まれてきてくれて、本当に嬉しいよ」
私はパパの胸から顔をあげて、「……ほんと?」とかぼそい声で訊いた。パパは微笑んでうなずき、「鈴が一番大切だよ」と倦むことなく言ってくれた。涙で濡れたパパのシャツを握って、私はおそるおそるママのほうを見た。
ママは蒼ざめて私たちを見ていたけど、その瞳の奥には、確かにいらついた濁りがあった。パパもママを振り返ると、「君の気持ちは知ってたけど」とかすかにわななく声で言った。
「何も、鈴に言うことはっ──」
「い、言ってないっ……その子が盗み聞きか何かして、」
「盗み聞きされる話を誰かとしてたってことか?」
「あ、……っ」
「信じられない。どうせ職場の残り物同士でお見合いした僕たちだ。君が浮気したっていいとは思ってたけど」
「浮気なんかしてないっ。私は、その──まだ結婚してない友達との話だったから、そういうふうに言わなきゃいけなくて、」
「そんなことはどうでもいい! 鈴の気持ちを考えないのか? 母親が、知らない誰かと、自分のことを『いらない』とか何とか話してるなんて──」
苦々しく言ったパパは、いったん息を吐いて自分を落ち着けると、「少しおやすみの部屋に行ってなさい」と私に寝室をしめした。私はパパを見上げる。「大丈夫だよ」とパパは微笑み、私はぎこちなくうなずくと、ママのそばは走ってすりぬけて、寝室に向かった。
パパとママが言い合う声を、膝を抱えて聞いていた。その日以来、パパとママは顔を合わせては喧嘩を繰り返すようになった。
聞こえてくる口論で、私は嫌でも自分の家庭の成り立ちを知った。
パパとママは、惹かれ合ったふたりじゃないこと。それぞれの職場で、まだ結婚していない者同士、周りに引き合わされたこと。おばあちゃんが、結婚も出産もしないママにしびれを切らしていたこと。ママはおばあちゃんがうるさいから、パパのプロポーズを受けたこと。そんなママの事情をパパはうすうす感じ取りつつ、プロポーズは自分も身を固めないといけないという理由だけだったこと。でも、私を生んだことでママに対して感謝は持ちかけていたこと。それに反して、ママは本音では私のことをかわいいとさえ思えず、後悔ばかりだったこと──
私は自分の家に完全に「愛」が欠けていることを思い知り、両親が喧嘩を始めるとぽろぽろと泣いて、もう聞きたくなくて家を出た。ここはマンションの四階で、周りにも似たようなマンションがたくさん並んでいる。ひとりだと迷子になるから、結局一階まで降りることしかできず、マンションの前の階段にしゃがみこんだ。
初夏が近づき、陽が落ちても軆が汗ばんでいるようになった。マンションの周りの植木には花が咲いている。青い小さい花。手の甲で涙をぬぐって、とん、とん、と階段を降りて花の前にしゃがみこんだ。
きれい、と思って、手を伸ばしかけたとき、「お前、こんなとこで何してんの」と不意に声がかかってびくんと私は振り返った。
「こんなとこ、女の子がひとりでいたら危ないぞ」
男の子がいた。まだ五歳ぐらい。キックスケーターを連れて、すでに髪を茶色に染め、大きなシャツにスウェットを合わせている。私の目が涙で赤くなっているのを見取り、「泣いてんのか」と言った彼は、服の袖を引っ張って頬をぬぐってくれた。
「何かあったのか」
「……パパとママが喧嘩してるの」
「あー、もしかして四階?」
「えっ……うん」
「すげー響いてるよな。このマンションの人、みんな知ってるぞ」
そう、なのか。それは恥ずかしい気がした。みんなに、私の家が不完全なことを知られているなんて。
「あんなに喧嘩するなら、離婚すればいいのにな」
「リコン」
「んー、結婚してるのをやめるっつーか」
「そんなことできるの?」
「できるよ。うち、それでかあさんとふたり暮らしだぜ」
「おかあさんとは仲いいの?」
「まあ、そこそこ」
「おとうさんは?」
「さあ。朝からパチ行ってるとこしか見たことなかった」
「ぱち……」
彼はキックスケーターに足をかけ、「よっ」と地面を蹴ってマンションの前をぐるぐるまわる。
「お前も大変だよなあ。母親がこじらせてるように聞こえてるけど」
「……ママ、鈴のこといらないって」
「そうなのか。父親は?」
「鈴のこと好きって言ってくれる」
「じゃあ、離婚になったら父親と暮らしたいってはっきり言えよ」
彼はキックスケーターで器用にあたりを走り、「すごい」と私が言うと「へへ」と照れるみたいに咲った。
「名前、鈴っていうの?」
「うん。紺野鈴」
「俺は葉中暖。三階に住んでる」
「何歳?」
「もうすぐ五歳だよ」
「鈴は四月に三歳になった」
「まだ三歳かよ。マジでこんなとこにひとりでいたら危ないぞ」
「でも……」
私がうつむくと、暖くんはキックスケーターを降りて、「しゃーねえなあ」とどかっと階段に座った。そして隣をたたくので、私はおとなしくそこに座る。
「落ち着くまで見張っといてやるから、泣くなら泣いとけ」
私は暖くんの横顔を見つめた。話しているあいだのざっくりした感じにそぐわず、長い睫毛や細い首は繊細な印象があった。私は顔を伏せ、涙は引っこんでいたけど、やっぱり家には帰りたくないので膝を抱えた。
空色が濃くなって暮れはじめ、ちょっと強い風が吹き抜ける。そばの植木がざわりと揺れて、さっきの青い花も震えていた。何ていう名前のお花なんだろう、と思っていると、空には月と星がきらめきはじめた。
暖くんはあくびをしたり、「明日幼稚園だりーな」とかつぶやいたりしつつ、隣にいてくれた。
しばらくそうしていると、ふと背後の階段からばたばたと足音がして、私の名前の呼ぶパパの声がした。
「パパだ」
私がそう言って立ち上がり、振り返ると、ちょうどパパがマンションから出てきた。「パパ」と階段を上ると、「ああ、鈴」と私のすがたにパパは安堵を見せる。
「こんなところにいたのか」
「ん……ごめんなさい」
「いや。パパとママこそ、いつもごめんな」
私はパパを見つめた。ちらりと暖くんをかえりみてから、私はパパに視線を戻す。
「リコン……しないの?」
「えっ」
「その子が、結婚しちゃってても、リコンっていうのがあるよって」
パパは暖くんに目を向けた。「どーも」と無頓着に挨拶した暖くんに、パパはぽかんとしかけたものの「あ、どうも」と返す。
「ええと、君は──」
「三階に住んでる葉中。喧嘩はだいたい聞こえてる」
「あ──ごめんね。近所迷惑なのは分かってるけど」
「別にいいけど、今のままじゃ鈴はつらいんじゃね。俺は両親が離婚してすっきりしたからそう思うけど」
「………、離婚、か……」
「まあ知らねーけど。もう鈴のこと連れて帰る?」
「あ、ああ。そうするよ」
「じゃあ、俺帰るわ。鈴、あんまり外にひとりでいるなよ。危ないからな」
「……うん」
暖くんは立ち上がって、キックスケーターもたたんで抱えると、すたすたとマンションに入っていった。私とパパはそれを見送り、それから顔を合わせた。「お礼を──言わなきゃいけなかったかな」とパパはつぶやき、「うん」と私はパパの手を握る。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「あの子が言ってたけどね」
「うん」
「リコンになったら、鈴はパパと暮らしたい」
パパは私を見つめ、「そうだな」とうなずいて頭を撫でてくれた。「ママはもういらない?」と訊かれると、「ママも私のこといらないから」とこくんとした。
けれども、私のことをパパが引き取って離婚、という話になると、ママのママ──おばあちゃんがとんでもないと口を出してきた。せっかくできた孫なのに、会えなくするつもりかと。
パパは淡々とママの失言をおばあちゃんに告げた。すると、おばあちゃんは今度は媚びるように「鈴もおばあちゃんと離れたくないよねえ」「鈴は優しいからママのこと許してあげられるよねえ」とかいろいろ言ってきた。
私はそれがすごく嫌で、暖くんにああ言われたのに、マンションの周りまでという小さな家出を繰り返した。暖くんはそんな私を一応気にかけてくれているようで、幼稚園から帰宅すると、私のことを見つけてそばにいてくれた。
パパとママは、一年後の春にようやく離婚した。最後のほうはママは無気力で、おばあちゃんがせめて面会の機会は作ってくれと食い下がっていた。私は嫌だったけど、月に一度の面会を受け入れることでやっと離婚をのんでもらえた。
ママはおばあちゃんと、あまり関わろうとしなかったおじいちゃんもいる家へと出ていった。私はパパとマンションに暮らし続けた。
「パパ、ママとリコンした!」と報告すると、「おー、よかったじゃん」と暖くんはにっと笑ってくれた。
「じゃあ、これからは鈴のプチ家出もなくなるんだな」
「そっ、か……。でも、暖くんとはまた遊びたい」
「まあ、俺がヒマだったらな」
暖くんは飄々とそんなことを言ったけど、私が三階の家を訪ねると、いつもこころよく招き入れて遊んでくれた。暖くんのおかあさんも、若くて金髪なのにはびっくりしたけど、見かけによらず優しくて私をかわいがってくれた。
五歳から私は幼稚園に通うようになり、暖くんは小学生になった。少し生活が噛み合わなくなったものの、会えば変わらず暖くんは私の相手をしてくれた。キックスケーターで走る暖くんを追いかけて、追いつくと暖くんは「じゃあ今度は鈴が乗ってみろ」とハンドルを貸してくれる。
私はそろそろとキックスケーターに乗って、よろめきそうになると暖くんは必ず腕に抱きとめてくれて、そのとき感じる暖くんの体温や匂いが好きだった。そんなふうに過ごす中、紫さんに出逢ったのも同じ春だった。
「鈴に会ってほしい人がいるんだけど、会ってくれるかな」
白いくまとピンクのうさぎのぬいぐるみ、そしてチョコレートケーキを用意して、パパひとりで私の誕生日を祝ってくれた夜だった。そう言われて、あまり深く考えず「うん、いいよ」とは答えたものの、何でその人を私に会わせたいのかよく分からなかった。けれど、暖くんにそれを言うと「新しい母親じゃね?」と言われてどきんとした。
新しいおかあさん。どうしてもママのことがよぎったけど、暖くんのおかあさんみたいなママだっている。
「暖くんのママみたいに優しいかなあ」
私がそうつぶやくと、「あれ優しいか?」と暖くんは首を捻ったあと、「鈴のことかわいがってくれる人だといいな」と続けた。私はこくりとして、でもやっぱり不安で暖くんの手を握った。暖くんはそれを握り返すと、私の頭にぽんと手を置いた。
【第二話へ】
