林間学校が終わって、七月に入ると蝉の声が生まれはじめた。梅雨が明けて晴天が続くのはいいけど、日射しが肌もアスファルトも焼いて、空気が生温く重たくなる。道草の匂いが立ちのぼり、桜の樹には生き生きと緑が茂る。
まもなく夏休みに入って、私はママと夕食の支度をしながら、杏ちゃんと一緒に暖くんに会いにいきたい話をしてみた。「ふたりで?」とママはそれでも心配そうにして、「ダメかな」と私がしゅんとなると、やや考えてから「一応、パパに相談しようか」とママは言ってくれた。私が顔をあげてうなずくと、「じゃあ、今夜の冷やし中華は特においしくしなきゃね」とママは微笑み、「頑張る!」ときゅうりを細切りにしていた私は、まな板の上で包丁を持ち直した。
パパが帰宅して、三人で食卓に着くと、私はママと顔を合わせてから、暖くんに会うために杏ちゃんとあの町に行きたい話をした。冷やし中華を食べていたパパはまじろいだものの、思ったより困った顔はせず、「そうか、鈴は暖くんと仲が良かったもんな」とうなずいた。
「電車で行けると思うから、ダメかな?」
私がパパを伺うと、「電車じゃなくて、車で連れて行ってもいいんだぞ」と意外にもパパは協力的に申し出てくれる。もちろんそのほうが安心で助かるので、「ほんと? いいの?」と思わず確認すると、「ふたりだけで電車で行かせるほうが逆に心配だよ」とパパは笑った。
そのことを次の日に杏ちゃんに話すと、「よかった!」と喜んでくれて、私たちは夏休みに暖くんに会いにいくことを改めて決めた。夏休みに入って一番最初の日曜日、パパの仕事が休みなのもあり、あの町におもむくことになった。
私はぜんぜん考えていなかったのだけど、暖くんが万が一あのマンションから引っ越していたらという場合に備え、ママが暖くんの家に電話をかけてくれた。出たのは留守番電話だったけど、その日のうちに暖くんのおかあさんが折り返しの電話をかけてくれて、『暖に伝えとくね』と約束もしてくれたそうだ。暖くんの家電なら分かってたのか、とそんなことを初めて知りつつ、私はその日曜日が来るのをそわそわと待った。
やがて夏休みに入り、くらくらするほど朝から暑い、快晴の日曜日が来た。蝉しぐれが反響する午前中、杏ちゃんが私の家を訪ねてくると、パパの運転であの町に向かうことになった。
ママはひとりでゆっくりするか、手持ち無沙汰なら司さんと南さんの家にでも行くそうだ。
私と杏ちゃんは後部座席に並んで座る。ママに見送られ、クーラーを全開にかける車は家を出発した。
「暖くん、不良みたいって言ってたよね」
「昔はそうだったけど、今はどうなのかな。性格は優しいよ」
「あたし、自己紹介は『鈴ちゃんの友達です』でいいのかな」
「うん。『親友です』でもいいかもしれない」
「ほんと? じゃあ、親友って言う!」
そんなことを話してはしゃいでいると、電車だとどのぐらいかかったか分からなかったのが、車だと一時間くらいで窓の向こうに見憶えのある景色がちらほらしてきた。
暖くんと通った小学校が前方に見えると、「前に通ってた学校だ」と私は指さし、杏ちゃんも身を乗り出す。通学路を走り、それからマンションの建ち並ぶ道へと入った。暖くんと歩いたなあ、なんてこみあげる懐かしさを覚えていると、まもなく暮らしていたマンションの前に到着した。
「パパも暖くんに挨拶する?」と訊くと、「鈴と杏ちゃんでしっかり挨拶しておいで」とパパはお土産のお菓子だけ持たせてくれた。
私と杏ちゃんは車を降りて、マンションの前に立った。二年でも、私にはじゅうぶん久しぶりだ。季節が終わったので、植木に忘れな草は咲いていない。
緊張で締めつけられるようにどきどきしている。暖くん、変わってないといいな。もう彼女とかいたら、私なんて邪魔かもしれない。でも、やっぱり会いたい。
「行こうか」と言うと杏ちゃんはこくりとして、私たちはマンションに入った。三階まで階段をのぼり、暖くんの家のドアの前に着く。一度杏ちゃんと顔を合わせ、私は深呼吸してチャイムを鳴らした。
インターホンの応答より早く、ドアが開いた。顔を出したのは、相変わらず金髪のロングヘアの暖くんのおかあさんだった。「鈴ちゃん、久しぶり!」と暖くんのおかあさんは嬉しそうにハグしてくれて、「元気にしてた?」と覗きこんでくる。私はうなずき、「暖くんのおかあさんも元気そうでよかった」と笑顔になる。
「これ、パパとママがご挨拶にって」
お菓子をさしだすと、「ああ、そんな気遣いなんていいのに」と言いつつも、暖くんのおかあさんはこころよく受け取ってくれた。それから、「今の学校で仲良しの子で、時野杏ちゃん」と隣で見守ってくれていた杏ちゃんを紹介する。「初めまして、お邪魔します」と頭を下げた杏ちゃんに、「初めまして。よろしくね」と暖くんのおかあさんは快活な笑みを見せ、「暖もいるからあがって」と私たちを家に招きいれてくれた。
暖くんがいる。ふくらむように鼓動が急にせりあげ、苦しいくらいの胸に頬が熱を持つ。奥からは何やらいい匂いがしていて、「暖にお昼作らせてるけど、食べてきた?」と訊かれ、「食べてないです」「お腹空いてるかも」と私と杏ちゃんはそれぞれ答える。「よし、じゃあまずはお昼ごはんにしよう」と暖くんのおかあさんは先に家の中に行き、「暖、鈴ちゃん来たよ」とキッチンに声をかけた。
「マジで」という声にどきんと心が高鳴る。暖くんの声──ちょっと低くなってるかも。どんどん早く脈打つ心臓に突っ立ってしまっていると、キッチンからひょいと顔をのぞかせた男の子がいた。
「鈴」
茶色の髪。繊細な顔立ち。華奢な軆。そして、変わらない笑顔でその人は私の名前を呼んでくれて──途端、脱力しそうな安堵があふれて、私は鼻の奥のつんとした感覚に泣きそうになる。
「久しぶりだな。ちょっと待ってろ。今、高菜のパスタ作ってるから」
「暖……くん」
「うん。あ、その子が友達か」
「鈴ちゃんの親友の時野杏ですっ。よろしくお願いします」
「おう。食卓ついてて。すぐ用意するから」
もう。ずるいよ。昨日も会ってたみたいに、そんな普通に。私は、ずっと会えなくて寂しくて、今、押し寄せるみたいに暖くんのことが──
私は暖くんに駆け寄り、その手をつかんで、「会いたかった」と舌がもつれないようにしながら言った。暖くんは背がすごく伸びていた。暖くんは私の言葉に一瞬きょとんとしたものの、くすりと咲って「俺も鈴に会いたかったよ」と返してくれる。
私は暖くんを見上げ、もっと言いたいことはたくさんあったはずなのに、その優しい瞳が変わっていないことにとにかくほっとして、声がつっかえてしまう。
「鈴、五年生になったんだよな」
「……えっ、あ。うん。暖くんは、中学生だよね」
「そうだな。勉強が分かんねーわ」
私は暖くんの手をつかむまま、「彼女とかできた?」とまずそれを訊きたいと思った。けれど、何だか恥ずかしくて言えない。暖くんはそんな私を見つめ、柔らかく微笑むと「鈴」と優しく手を離して、頭をぽんぽんとしてくれた。
「あとで見せたいものがあるから、とりあえず昼飯食おうぜ。な?」
私は暖くんを見つめ、素直にこっくりとした。暖くんはパスタを炒めているフライパンの前に戻り、杏ちゃんが「鈴ちゃん」と私を覗きこんでくる。私は杏ちゃんの瞳に笑みを映し、「暖くん、変わってなかった」と目を潤ませ、「うん」と杏ちゃんはうなずいてくれる。「鈴ちゃん、相変わらずピュアだね」とその様子を見ていた暖くんのおかあさんも微笑ましげにしてくれた。
暖くんが作った、醤油で高菜を和えて炒めた和風パスタをリビングの座卓で食べると、「ちょっと鈴とふたりにさせてくれるかな」と暖くんは杏ちゃんに訊いた。「もちろんです」と杏ちゃんはにっこりして、「杏ちゃんは元気だねえ」と暖くんのおかあさんが杏ちゃんの話相手になってくれる様子も見せる。
そんなわけで、私は暖くんに連れられて暖くんの部屋に向かった。
クーラーがつけっぱなしの暖くんの部屋は、昔見たときより散らかっていて、何だか男の子の部屋だった。「座っていい?」と訊いてから私がベッドサイドに腰かけると、暖くんは一冊の本を本棚から選んで隣に腰をおろした。「何の本?」と首をかしげると、「この本はどうでもいいんだけど」とページをめくり、挟まっていた紙を私にさしだす。
青い花が押し花になった、栞くらいの画用紙だった。私はまばたきをしてから、「これ」と言うと、「鈴にもらった奴」と暖くんは優しく微笑する。
「かあさんが、押し花が一番いいだろって言ってくれて」
「……そう、なんだ」
「鈴のこと、ずっと忘れなかったよ。鈴は俺のことなんか忘れてるかもって思うときもあったけど、それでも俺は鈴を忘れられなかった」
「わ、忘れたりしないよ。ごめんね、ぜんぜん連絡とかしなくて」
「それは俺もだし」と暖くんは言ったあと、しばし黙り、「鈴にとって、俺は兄貴みたいなものだろうなあって思ってて」とつぶやく。
「恋愛対象として見てもらえることは、正直、期待してなかった」
「暖くん……」
「でも、俺……鈴のこと好きでいいんだよな?」
私は目を開き、同時に視界が揺らめいて濡れる。私は忘れな草の押し花を膝に置いて、暖くんの腕にしがみついた。「鈴」と呼ばれて、蕩けるような痺れが軆に走り、「暖くんが好きだよ」と私は言う。
「私のこと、いつも、離れても、支えてくれてるのは暖くんだよ」
暖くんは綻ぶように咲うと、「俺を癒やしてくれるのも鈴だけだ」と私の肩を抱いた。何だか、頭がふわふわする。暖くんが私の気持ちを受け入れてくれた。そして、耳元で「鈴が好きだよ」とささやいてくれる。嬉しくて泣きそうになったけど、何とかこらえて「暖くんに彼女いたらどうしようって思ってた」と言うと、「そんなん、俺も鈴に好きな奴いたらどうしようって不安だったよ」と暖くんは笑った。
初めて逢ったときから、暖くんは私に優しくて、いつも思いやってくれた。私も同じ。それは、妹分としてかわいがってくれているからだけではないかと不安だった。でも、今、確かに暖くんの中で私は「女の子」だ。
「鈴がこの花をくれたから」
暖くんは忘れな草の栞を手に取る。
「いつまでも鈴を忘れずにいる自分を、未練がましいのかとか思わずに済んだ」
「……うん」
「ありがとな、あのとき『忘れないで』って言ってくれて。会えなくても鈴のこと好きでいられたのは、そのおかげだ」
暖くんにぎゅっとしがみつく。暖くんの体温、匂い、感触。それらは忘れずにいた記憶のままで、私は安堵感に包まれる。
私を忘れないで。重たい言葉だった可能性もある。けれど、それを暖くんは温かく受け取って、私を憶えている支えにしてくれた。それなら、あの日、あの青い花を渡してよかった。
窓から白昼の日射しが舞いこみ、ほのかに日向の匂いがしている。一瞬、陽だまりの中で聞いた、私を生んだ人の心ない言葉がよぎった。
でも、私は生まれてよかった。パパ、ママ、杏ちゃん、そして暖くん。みんなが私を愛してくれている。
暖くんの肩越しにレースカーテンの白い光に目を細め、言葉にならない幸福感に睫毛を伏せる。暖くんは私の髪を撫でてくれていて、その指先の優しさを私はずっと忘れたくないと思った。
FIN
