氷点の檻-2

 二歳のときに両親に捨てられた僕は、実の父母の顔を知らない。何となく憶えているのは、雪崩れる罵声と頬への破裂で、ほかには何も残っていない。
 五歳まで施設で過ごした。仕事で外国にいた親戚の夫婦が帰国して事情を知り、僕を引き取った。手続きののち、僕が施設をあとにして家庭を持ったのは、小学校に上がる前だった。
 ふたりには子供がなかった。義父となる人が僕の母親の実兄で、つまり伯父だった。僕と義父には多少の血のつながりがあったわけで、義父のほうが僕をかわいがった。
 最初は、義母も義父の態度に添っていた。が、僕が現れて夫に自分たちの子供を作る気が失せたことに、徐々に疎ましげなそぶりをちらつかせだした。
 ときおり向けられるその冷たい殺意が、僕は怖かった。余計に僕は義父に偏り、義父も僕をかばった。義父は僕と義母のあいだに距離を作り、かつ、自分も僕につきあって妻を疎隔した。
 義父と義母は、ときどき喧嘩をしていた。今にして思えば口論程度だったけれど、幼かった僕には怒鳴っているだけですさまじく感じられた。
 隣の部屋で息を殺し、言い知れない恐怖に耐えていた。なぐさめにくるのは、いつも義父だった。
 当時、僕は子供で従順だった。何も分からなかった。優しく守ってくれる義父を信頼したのは、意思というより、無知に流されたからだ。その信頼を服従に利用させられたとき、僕は八歳だった。
 その日も、義父と義母は喧嘩していた。僕は寝室で震えていた。義父はいつも通りあやしにきて、僕をふとんに横たわらせた。なかなか眠れなかった。義母がわめいていた言葉が胸を傷つけていた。
 あの子が来たせいでめちゃくちゃだわ。
 眠らない僕の額をさすり、義父は理由があるのか問いかけてくる。僕は義母の言葉を反復し、「ここにいたらダメなの?」とかぼそく訊いた。義父は咲い、「そんなことないよ」と僕を丁寧に抱き起こして胸に抱いた。
 そのとき、義父の息が変な感じで震えたのには気づいた。が、深く考えなかった。孕まれる意味が分からなかったからだ。
 義父は僕の軆をさすっていた。その愛撫を、僕はなぐさめてくれていると思っていた。義父にはそうではなかった。お前はいい子だ。これに続いた台詞の通りだった。
「いい子だから、服を脱いでごらん」
 抵抗は感じた。判然としない、冒しがたいものも。しかし、僕は義父を信頼していた。この人が僕を傷つけるわけがない。僕は義父の言う通りにした。
 義父は僕の小さな白い軆をいじった。乳首を舐め、広げた脚のあいだを凝視し、性器に触った。
 僕はそれを“いや”だとは感じた。が、“いや”だと感じるべきなのかは分からなかった。
 義父に信頼を裏切る行為をされたと分からなかった。子供だったのだ。
 義父は僕に服を着せ直し、「おかあさんには内緒にしておくんだよ」と言った。もともと義母と口をきくのが嫌だった僕は、これにも逆らわなかった。
 とはいえ、心は吹き抜けて空っぽになっていた。その真っ白な感覚に圧倒され、やがて、異様に哀しいだるさがやってきた。義父に髪を梳かれながら、逃げるように眠った。
 義父の手が汗ばんでいたのをよく憶えている。
 その夜を切っかけに、義父はおかしくなってしまった。ふたりきりになると、僕の服を脱がせて、“いや”なことをした。
 早く抗っておけばよかったのだ。僕は何もできなかった。もがこうとしても、義父が力をこめればあっさり封じこめられる。交渉を迫られるのは次第に増え、わざわざふたりの時間を作るようにもなっていった。
 義父は、義母には僕への悪戯を隠しているつもりだった。義母はとっくに感づいていた。
 当たり前だ。義父は僕を「女の子」に改造していった。僕は睫毛の長い女の子っぽい顔立ちをしている。男女の区別も現れない年齢も加わり、よく女の子に間違えられた。義父はそれに乗って、僕を女の子あつかいした。
 この子は女だ。その認識が深まるほど、強要される行為はきわどくなった。
 義父の命令は絶対だった。髪を伸ばし、ピンクの服で女の子の格好をされられるのにも、“いや”だろうが従わなくてはならない。僕の意思や感情は切断された。九歳になった頃には、僕は女の子にしか見えなくなっていた。
 学校には行っていた。学校も救われなかった。男のくせに女の子の格好をしていて、イジメられないわけがない。
 僕は疎外され、構われるときといえば、無邪気に迫害されるときだ。長い髪を引っ張られ、スカートを揶揄われ、男か確かめようと下着をおろされる。
 学校も家と変わらなかった。学校が終わったといって救われない。家を出られるといって報われない。そんな生活が切なくて苦しくて、僕の足は常に泥に浸かったように重かった。
 小学三年生で、九歳だった。一月のなかば、三学期が始まって間もない時期だ。学校でのひどい一日を終え、とぼとぼと下校していた。純白のフリーツ生地のコートを着て、義父が買い換えたいちごみたいな赤のランドセルを背負っていた。
 乾燥して冷えこんだ風に、白い息とさらさらの髪が流れるようになびく。コートに縮んだ僕は、暖かいところに行きたいのと家に帰りたくないのをせめぎあわせる。
 自分の足が、速足と足踏みが綯混ぜになった、妙な足取りで進んでいくのを見つめた。それに集中して周りは見ていなかった。だから、いきなり誰かにぶつかったときにはびくっとした。
 慌てて身を引いて、無意識に顔を上げると、大人の男の人がいた。そのときの僕には、はるかに大人、という認識しかできなかった。今推定すると、二十歳前後だった。
 目の前にブルージーンズの細長い脚がある。黒いジャンパーに、灰色のトレーナーを着ていた。やや無理をして顔を仰がせると、ぼさついた長い前髪が真っ先に目に入った。なぜか息切れしていて、白い息が断続的に生まれている。顎も肩も腰も、全体的に痩躯だった。
 知らない人だった。そこは誰もいない、路地のような通りだった。僕はその人を見上げるかたちで、無感情にたたずんだ。
 前髪の隙間にその人の瞳が覗いていた。僕は死という誰もに訪れる境地を知っていた。その人の目は死を連想させた。死体を見たことはない。それでも死んだような目だと思った。
 黒く濁って飲みこみそうで、まるで沼だ。そう、その瞳は沼だった。
 沼の瞳は僕を捕らえていた。強くはないが、足を取るようにゆっくりと確実に、視線を僕の軆にもつれさせてくる。普通の子供なら、慌てふためいてかえって状況を悪くしていただろう。
 だが、僕の場合、こちらのほうこそ死んだ気分で毎日を過ごしていた。なので自殺志願者がおとなしく、一種やすらかに沈殿していくように、ぼんやりとその目を見つめ返した。
 逃げようとか大声を出そうとかは思わなかった。怖くなかったからだ。衝撃にぼさっとしたのではない。彼が鈍いきらめきの包丁を取り出しても、僕の心臓はぴくりともしなかった。
「おとなしくしろ」
 その声は震えていた。怯えと昂りが絡み合った震えだった。僕は冷めた目を包丁から彼の顔に移した。バカにしたわけではないのだが、それは彼の癇に障ったようだった。
「俺をバカにしたら、お前なんかこれでばらばらにしてやる」
 黙っていた。彼の言葉は聞こえていたし、やろうと思えば意味も噛み砕けた。けれど、僕にはそうしようという気がなかった。吹っかけられた言葉を理解する気がなかった。
 そもそも意識が分裂し、この状況に気持ちが向いていなかった。日陰で寒いな。僕の気持ちはそんなことにかたむいていた。直面する危険には無関心だった。
「声を上げたら殺してやる。いいか、言う通りにしろ」
 気力というものがない僕に、言う通りになるのは楽な仕事だった。ゆいいつつらいのは、義父の“言う通り”だ。
 やっぱり周りには誰もいない。彼は僕を抱きあげ、腹にぴったりと包丁を当てた。僕はぐったりと無抵抗だった。
 路地を先へと進んで道に出ると、安っぽい白い車があった。彼は僕を後部座席の下に押しこみ、ランドセルは向こう側の座席にもぐらせ、自分は運転席に乗りこんだ。
 ずっと座席の下にうずくまっていた僕は、そのあいだ、どんな景色を抜けていったかを知らない。怪しまれて車が止められたりはしなかった。
 彼は僕の状態を確かめもしなかった。ラジオも暖房もない。荒っぽい息と、方向転換か何かのかちかちという音がときどき聞こえた。
 僕の頭はまた分裂していた。かがめっぱなしで背中が痛い。背中を伸ばせるのならもう何でもいい。
 後部座席にいた時間は感覚でしか覚えていない。すごく長かった。実際には数十分だったのかもしれない。車を引っ張り出されたとき、冬の短い夕暮れは始まりかけだった。
 彼のジャンパーに包まれ、どこかに連れていかれた。ジャンパーの彼の匂いに包まれ、何も分からなかった。浮遊感覚があったので、エレベーターには乗ったと思う。
 喉元にひんやりした包丁を当てられていたが、僕は伸びた背中のほうにほっとしていた。持たされたランドセルの筆箱が、かたかたいっていた。気づくとどこかに下ろされ、ジャンパーを剥ぎ取られた。

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