氷点の檻-3

 部屋だった。藍白のベッドに座らされている。この人の部屋なのは分かった。まったく散らかっていなくて、彼の匂いが染みついているほかには、生活臭がなかった。
 玄関に鍵をかけて、僕の正面に来た彼は、包丁を握りっぱなしだった。
 僕はレースカーテン越しに、ガラス戸が床に夕陽を伸ばすのを見ていた。
「こっちを向け」と言った彼の声はうわずっていた。僕はおとなしく彼を向いた。包丁が電燈を飲みこみ、きらめきを主張している。大きい包丁だ。鋭いというより強そうで、確かに僕なんかばらばらにできるだろう。
 しかし、僕にはそこはそれだった。緊急の恐怖より慢性の疲労が勝っていた。この状況がいったいどうかなんて、どうでもよかった。夕べ義父に、脚のあいだを脚のあいだに密着させられ、抱きしめられたことのほうが重大だった。
 僕の心は重すぎた。反射光を眼球に突き刺す包丁を振りかざされても、そちらに心を舞いあげることができなかった。
 彼は僕を凝視していた。今思えば、困っていたのだろう。誘拐され、見知らぬ部屋に置かれ、刃渡り二十センチ以上の包丁を突き出されているくせに、授業中みたいにぼんやりしている。
 そんな子供に、彼はどうしたらいいのか分からなくなった。どうしても僕の瞳が読めず、だんだん焦りを見透かされたのではないかと怖くなり──彼が僕の喉に包丁をきつく押し当てたのは、支配権を持とうとした必死の行動だったのだろう。
 僕は無反応だった。食いこむ冷たい包丁は、僕の体温を吸収して温かく染まった。僕は剥かれた沼と見つめ合っていた。依然、視覚は脳にも心にも接続されず、僕は何にも及ぼされなかった。
 彼の恐怖も杞憂だった。彼が焦っていることなど知ったことではなかった。外界がなかった。内界がすべてになり、眼前は視界でなく残像になった。閉じこもって氷結の記憶に溺れる。
 女子トイレに閉じこめるみんな。
 面倒を避ける先生。
 僕がどうなろうと気にしないおばさん。
 そして、おじさんは──
 義父を思った途端、胸がぎゅっと縛り上げられた。頬にかかる長い髪や、リボンのついた白いコートが意識に障った。柔らかい桃色のセーター、ふかふかした水色のスカート、僕は何を着てるんだろう。男なのに。何でこんなに女の子みたいなんだろう。
「お前によく似合うと思ったんだよ」
 恍惚とした義父の声が、鼓膜にべっとりとしたとき、破裂してぐちゃぐちゃになる恐怖が襲ってきた。抑えつけられて動かせない手足の感覚に硬直する。上がらない悲鳴の鬱積が喉を詰める。苦しさに喘ごうとすると、唇を塞がれて息ができない。
 義父の声がする。いつもの言葉が。聞こえる。あの忌まわしい呪文が。
「さあ、そのかわいい──
「服を脱げ」
 びくんと顔を上げた。眼球に焼きつくものが視覚になっていた。覆いかぶさってくる黒い影は、当然義父だと思った。
 いや、と言おうとした。しかし、何かに喉をつぶされていて声が出ない。かぶりを振ろうとしても、これも喉を抑えるものでかすかしかこぼせない。涙が頬をぼろぼろにし、ぼやけた視界にますます義父の気配が強まる。
 されていることの意味は知らなかった。頭から堕ちていくあの虚脱が受け入れてはならないものだとは分かっていた。くすくすと嗤われるこの格好を強いる義父が変なのも知っていた。
 説明はできない。とにかく僕は、義父に触られたくなかった。
 後退ろうとした。肩をつかまれた。とっさに目をつむった僕はもがこうとし、すると、「おとなしくしろ」と血迷った声がする。
「逆らったら殺してやる。喉を掻っ切って、ほんとにやるからな。俺の言うことを聞かなかったら、どうなるか分かってろ。切りきざんでやる」
 畏怖がふっと冷めた。凍てついたのではない、沸騰したものがやわらぐように、幻覚の急流が冷めた。切り替わるでも入れ替わるでもなく、目の前にいるのが義父でなく彼だと認識がすりかわった。
 殺す、という意味は知っていた。例の“死”につながることだ。今ここにいなくなることだ。
 この世界にいなくなる。強烈に惹かれた。義父はこの世界にいる。殺されたら、義父は僕に触れなくなる。
 胸いっぱいに希望が広がった。殺してやる。この人は僕と義父を引き離してくれる。殺してもらわない手はなかった。
「いいよ」
 ふと、喉に押しあてられているものが包丁だと思い出した。気にならなかった。義父に触られないためなら、何も怖くない。
「殺していいよ」
 沼が揺れた。僕は笑みさえ浮かべて波紋に映った。
「殺して?」
 彼は僕を見つめた。僕は瞳を開いた。
 やましくなどなかった。本気で死にたかった。彼は僕の清冽な瞳にいっそう困惑した。
「どうしたら、殺してくれるの?」
 この言葉が本音だと悟った拍子、彼は相手がバケモノだと悟ったみたいに包丁を引いた。密着していたので、やわく肌が剥げる感触がした。
 僕は喉を意識して目を下げ、彼に向き直ると首をかたむけた。彼は怒ったように僕を離れ、包丁を床にたたきつけると、奥のドアのひとつに入ってしまった。
 なぜ彼が怒ったかが分からなかった。言うまでもなく彼は、自分の思い通りに怯えない僕に、ガキにまでバカにされたと腹が立ったのだろう。しかし、当時の僕には、彼の癪に障った要因が解けなかった。
 僕はそこで初めて恐怖を覚えた。僕は分からないものが怖かった。義父の行為により、分からないものは恐ろしいことを潜ませている、そんな偏見があった。
 僕は憤慨した彼より、なぜ彼が憤慨したかが怖かった。自分の言動を振り返っても、彼に反抗した心当たりはない。それこそが彼の気に障ったなんて、知る由もなかった。
 彼の不在に、部屋は空っぽになった。部屋には暖房も何もかかっていない。寒さとそわつきに身動ぎした僕は、コートの中に小さくなった。下げた目で、蒼白い手元や女の子の服をなぞる。
 家に帰っていないことに気づいた。慌てるも何もなかった。帰らなきゃ、とか、帰りたい、とは思わなかった。むしろ、できれば帰りたくなかった。
 彼が消えた物音もないドアをちらりとして、帰れって言われるのかな、と落胆に近い想いがよぎる。義父や義母、学校も思い、やだなあとガラス戸を見やる。
 冬の日暮れは塗り絵より早く闇に染まる。その日もそうで、一瞬にして夜に取ってかわられた。室内では電燈がぎらぎらとしていた。
 彼は不意にドアを開けた。帰ってくるなり、ガラス戸の雨戸とカーテンを閉めた。暖房をつける横顔は怒っていなくて、何事もなかったように包丁を拾って、台所の流しに置く。
 僕は彼の広いけれど頼りない背中を見ていた。彼は僕のそばに来ると、「無事に帰れると思うなよ」と白いコートを脱がした。帰らずに済む、とほっとして僕はこくんとした。もう彼はおろおろしなかった。
 分裂の意識や、義父の幻覚の通り、僕には内的に落ちこんで目先のことしか見れない傾向があった。無事に帰れると思うな。僕はその言葉の表面、あの家に帰らずに済む、というのしか見ていなかった。ここにいてどうなるかはいっさい考えていなかった。
 彼は僕を拘束したりしなかったし、刃物も携帯しなかった。その晩、食事はもらえなかったが、それは慣れていて気にならなかった。義父が出張で留守にすると、義母はことさら僕に冷たく当たり、食事も抜いたりする。
 ひとりインスタント食品を食べた彼は、夜になるとあぐらに人形のように僕を乗せて本を読んだ。写真集だった。女の人も女の子も入り混じっていた。みんな服を着ていなかった。僕は興味がなくて、彼の腕に埋まってその匂いと柔らかな熱に溺れていた。
 家や学校に較べれば心地よかったのも、ここにいるのを深く考えさせなかったのだろう。夜が更けると、何の明かりもない中、彼の温かな匂いの腕に抱かれて就寝した。
 ここまでは本当に何もなかった。考えさせられることをされたのは、日づけも新しい夜中だった。
 熟睡していた。だが、僕の熟睡はもろい。眠るあいだに手出しされたくない無意識が、熟睡しつつも異変を感知すればすぐ目覚めるよう神経を改造した。ぐったりと意識を失うことができない。
 そのときにもそれが働いた。目が覚めて気がつくと、部屋にはほのかな非常燈がつき、僕はベッドで服を脱がされていた。
 肌を剥かれるなんて義父と同じことなのが悪かった。僕の神経は、内的にも外的にも引き攣れ、硬直してしまった。
 彼は、僕が起きたのに気づいていなかった。彼は彼で衝撃を受けていた。僕は全裸だった。彼の目は、僕の脚のあいだに釘づけになっていた。信じられないように大きく脚を開かれ、僕は寒さと“いや”という思いに身をよじった。
 そこで彼は、僕が目覚めているのに気がついた。彼は僕にかぶさるかたちで、ベッドスタンドのリモコンで部屋の明かりをつけた。
 ぱっと闇が消えたまばゆさに目をつむった僕は無視し、彼はなおも僕の脚のあいだを確認した。後ろのほうに指が這った途端、僕はその手を義父のものだと錯覚して泣き出した。
 彼は構わず茫然とした。僕の軆を横たわらせた。手が離れた途端、僕は彼を彼だと思い出した。
 僕は彼を見た。彼も僕を見た。
 沼ははりつめていた。
「……男なのか」
 何も怪訝な質問ではなかった。僕をひと目で男だと見抜けたほうがすごい。それぐらい、僕は女の子にしか見えなかった。
 彼は女の子を連れてきたかったのだ。女の子に、たぶん義父がやるようなことをしたかった。いよいよ連れてきて、触れようとしたら男で──

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