「真冬」
はっと目を覚ました。明かりをつけない暗い部屋で、眼鏡をはずした先生がベッドサイドに腰かけていた。あたしはまばたきをして、ゆっくり身を起こす。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
「早かったね」
「夜勤を代わってもらったからね」
息をついて、「そう」と答えていると、先生はあたしの髪に手を伸ばして梳く。
「何か食べなくていい?」
「……うん」
「じゃあ、とりあえずその気にしてくれる?」
あたしは先生を見て、そうか、と床に降りた。お仕置き。床にひざまずくと、先生のスラックスのファスナーを下ろした。
下着から取り出すと、まだ柔らかいそれを口に含んだ。先生は、あたしの髪を指に絡めて遊んでいる。根元までくわえて、先端まで舐め上げるのを繰り返す。先生が少しずつ硬い熱を帯びてくる。手も使って刺激していると、「よし」と先生はあたしの顔を上げさせた。
「立ち上がって、ベッドに手をついて」
バック好きじゃないんだよなあ、と思いながらも、おとなしくそうする。先生もベッドを立ち、あたしの背後に移動した。そして、あたしの腰を抱いて、後ろからあたしの胸をまさぐる。腰を抱いたほうの手は下着の中にもぐりこんできて、核をいたぶる。
息が熱っぽくなってきて、あたしの脚のあいだから小さな水音が跳ねはじめると、先生は背中に硬い胸にかぶせて耳元にささやいた。
「前から思ってたんだけど」
「っん……うん」
「俺とこうするとき、俺のことって考えるの?」
「え……っ」
「それとも、やっぱりかずくんのこと考える?」
あたしは目を開いて、先生を振り返った。すごく意地悪な瞳が笑っていた。
「かずくんのこと考えながら、いくんだよね?」
「そ……んな、しないっ……」
「じゃあ、今日はかずくんに抱かれてるって思っていいよ」
「や、……何、それっ……」
「かずくんの名前言ってみて」
「やだ、あ……っ、」
「俺の言うこと、何でも聞くんじゃなかった?」
あたしは目をつぶって唇を噛んだ。それが「お仕置き」か。
先生は、あたしが一乃を想っていることくらいお見通しだ。この男は、あたしのこの気持ちさえ穢すというのか。
「かずくんのこと、考えたりしないの?」
「し、しな……いっ、」
「じゃあ、かずくんがどうなってもいいんだ?」
「……や、やだ。も……何、どうして──」
「かずくんの名前を言って」
「そんな、のっ……」
「かずくんに抱かれてるんだよ」
「やめ……て、そんなの、だ……め、」
「かずくんでいってよ。そしたら、許してあげるよ」
先生はあたしの下着をおろし、いつのまにか硬直したものをあたしの入り口に当てがった。
考えたこともない。考えたくもない。一乃に抱かれるなんて、そんな妄想はしたくない。しかもこの男で、そんなことは──
「ほら、かずくんのが入っていくよ」
「……めて、」
「かずくんの名前、言ってごらんよ」
「っや……おねがい、もう、やめ……」
「かずくんを想って、かずくんの名前を言えばいいんだ」
「あっ、か……ずの、……かず、の」
「気持ちいい? かずくんが全部入って」
「い……いい、きもちいい、かずの、もっと……かずのっ」
体内のそれが、ぐっとあたしをつらぬいてくる。
一度こぼれたら、止まらなかった。一乃の名前を何度も呼んでしまう。もし一乃だったら。今、こうしてあたしをつらぬいているのが一乃なら。
そう思っただけで、刺激に過敏になって震えてしまう。乳房をつかむ手も、核をこする指も、奥まで突くものも、一乃だったら。一乃、だったら──
考えはじめるとたまらなくて、まるで皮膚を一枚脱いだように、愛撫でめちゃくちゃに感じてしまう。
一乃。あたしだけのかわいい一乃。その一乃があたしを抱いている、つらぬいている、突き上げている。呼吸が痙攣して喘ぎ声が狂おしくなって、身を反らせて感電するようにわななく。迷子が母親を呼ぶように一乃の名前を繰り返し、そのたび核に響くほど強く動かれて、壊れそうな意識の中で、あたしは白くはちきれるように達した。
途端、張りつめていた力がふっと抜けて、床に座りこんでしまう。ベッドに顔を突っ伏して、軆の中のそれもずるっと体内から抜ける。髪を引っ張られて顔を上げさせられ、頬に白濁が散った。唇の端に、苦みが染みこむ。
「可哀想だね、真冬は」
息を切らしながら目を上げると、先生が見下ろして笑っている。
「そんなに好きな人と、セックスできることはないんだから」
顔射されたのも気にせず、ベッドにまた顔を伏せた。先生はさもおかしそうにくすくす笑いながら、部屋を出ていった。
死ね、と思った。あんな男。こんなあたし。死ねばいい。いつも思う、先生とのあとは。死ぬべきなのは一乃じゃなくて、あたしだ。
土日は、先生はほとんど留守だった。あたしはベッドにくたばって過ごして、日曜日の夜にやっと、シャワーを浴びたりサラダぐらい食べたりした。
月曜日、登校すると銀実が声をかけてきたけど、いつものように屈託なくでなく、さすがに気まずそうだった。あたしが無視するので、放課後まで何度も話そうとしてきたけど、目も合わせずに放課後になった。
あたしはまっすぐ帰宅せず、病院に行って、一乃の病室を訪ねた。
「真冬」
あたしが顔を出すと、一乃はほっとした笑みを浮かべた。金曜日から三日来なかった。謝ると、一乃は首を横に振って「大丈夫?」と首をかしげてきた。
「え、あ──あたしは、何にもないよ」
「ほんと? いそがしいなら無理しないでね」
「いそがしくなんかないよ。平気」
一乃は大きな瞳にあたしを映した。何だかあたしは、その瞳をまっすぐ見返せない。先生にお仕置きされたときの、自分の喘ぎ声が幻聴になって、恥ずかしい。一乃は不安そうに睫毛を陰らせる。
「真冬、ちゃんと食べてる?」
「た、食べてるよ」
「でも、こんなに細い」
一乃の手が手の甲に重なって、あたしはびくんと肩をこわばらせる。
「女の子だから、こんなに細いのかな。僕、よく分からないけど……」
あたしの細い手に、一乃の折れそうな手が重なっている。その体温や感触だけで、泣きそうになる。あたしは、一乃の手を丁寧に包んだ。そして、「大丈夫だよ」と何とか微笑むと、一乃はあたしを見つめてほのかな笑みで表情を温めた。
夕方になって帰宅すると、先生がまたリビングのソファでうたたねしていた。「風邪ひくよ」と揺り起こすと、先生は目を覚まして眼鏡を押し上げた。背伸びをしてあたしを見上げ、「かずくんに会えた?」と訊かれて眉を寄せかけても、しらばくれてうなずいた。「そっか」と先生はあくびをして背伸びする。
「先生、夜勤なの?」
「今日は日勤だった。今夜はゆっくりできる」
「……ふうん」
「何か食べにいこうか」
「別にいらない」
「こないだ肉食ったから、魚か。寿司行こうか」
「………、じゃあ、着替えてくる」
逆らっていて、機嫌を悪くさせたくない。そう言ってあたしがおとなしく部屋に向かうと、「よし」と先生も立ち上がった。
それから地上に降りて、月極駐車場にある車で街に出た。コインパーキングに車を置き、人混みがあるから手をつなぐと、たまに行くお寿司屋さんまで歩く。
「先生」
「ん」
「一乃って、せめて生きることはできるの?」
「どういう意味」
「よくあるでしょ。生きられて二十歳までとか」
「………、心臓に負担がかからなければ、そこまで危険じゃない。でも、歳を取るほど負担は否応にもかかってくるからね」
「二十歳まで生きられる?」
「分からない。かずくんの場合、発作が突発的だからね」
先生の表情はまじめで、あたしはうつむくしかない。
可哀想だね。あの日の先生の言葉がよぎる。一乃も含めて言ったのだろうか。一乃はたぶん、セックスも知らずに死ぬ。
あたしが一乃にせめてできることってないのかな、と先生の手を握ったとき、ふと先生が立ち止まった。
「何かな?」
あたしは先生を見上げた。先生は前方を見て首をかしげている。あたしはその視線をたどり、目を開いた。
「しろ──」
先生があたしを見下ろし、また銀実を見た。制服すがたのままの銀実の背後には、同じく制服の見憶えのあるクラスメイトがいる。
「友達?」
「……そんなんじゃない。行こう、先生」
「──“先生”?」
銀実が一歩踏み出してきて、あたしは先生のほうに身を寄せるように飛び退く。先生はおもしろそうに笑っている。
「ほんとに、彼氏?」
「あんたに関係ない」
「いたんだ……やっぱり」
「真冬って意外とモテるんだね?」
先生が言って、「こいつは物好きだよ」とあたしは吐き捨てた。
「しろー」と銀実の友達が呼んでいる。
銀実は先生を見上げた。何か言おうとしたみたいだけど、綽々としている先生に言葉がなかったのか、結局唇を噛んで友達のほうに行ってしまった。
「負け犬くんだね」
先生は苦笑すると、お寿司屋さんの方角に歩き出す。あたしも並んで歩き出しながら、ちらりと銀実たちを振り返った。銀実は顔を伏せていて、表情は分からなかった。
お寿司を少し食べさせられたあと、帰ったらまたやるのかなあ、と気だるく思いながら車に戻ったときだった。
突然、先生のスマホが鳴った。あたしは先に車に乗りこんで、自分のスマホをいじっていた。がちゃっと乱暴にドアが開く。どうしたの、と訊く前に先生は舌打ちしながらエンジンを入れた。
「先生──」
「病院に行く。いいな?」
「え、何、」
「かずくんに発作が出た」
あたしは目を開いた。発作。それは──今までにも、数えきれないほどあったけど。先生の様子で、ときおりあるそんな発作ではないのが分かった。鋭く走り出した車に、あたしの心臓まで冷たくなって脈が引き攣ってくる。
【第五話へ】