病院に到着すると、先生は五階の一乃の部屋でなく、一階の集中治療室に向かった。あたしはそれを追いかけたけど、もちろん廊下までしかついていけない。看護師さんが慌ただしく行き来していた。
見舞いはいない。あたしひとりだ。そうだよな、と思っても不安で長椅子に座りこんで震えそうになる。
何で。夕方まで元気に咲っていた。あたしのこの手に手を重ねてくれた。そういう病気なのは、分かっている。発作のたび思うことだけど。それでも、何でこんないきなり──
「教えてあげただけなのに」
ふと、そんな声と共に足音が近づいてくるのに気づいた。
「真冬には彼氏がいるよって」
え、と顔を上げて、目をみはった。あたしと同じ高校の制服を着た男の子──
「それぐらいで、死にかけるなんて」
銀実はあたしの隣に来ると、椅子に腰を下ろした。あたしは銀実を見つめて、まさか、と脳から足元まで白く凍てつくのを感じた。
「しろ……一乃に、言ったの?」
銀実は屈託なく咲った。もう、あたしに好意のある笑顔ではなかった。
「一乃に何か吹きこんだの!?」
「隠してるほうがおかしいだろ」
「ふざけないでっ! 一乃は、」
「自分に彼氏にいるって知ったら死ぬ? うぬぼれすぎじゃない?」
「彼氏……なんか、先生はそんなんじゃないっ」
「……っ、じゃあ、何で俺にはそう言ってくれないんだよっ」
「あんたこそ、うぬぼれてるじゃない! あんたなんかどうでもいいんだよ、一乃はっ──」
あたしは椅子をよろけながら立ち上がり、閉じている集中治療室のドアを強くたたいた。
「一乃! お願いっ。違うの、こんな奴のこと信じないで! 言うから! あたしが好きなのは一乃だって、ちゃんと言うから!! ねえ、だから──」
めちゃくちゃにわめいていて、「真冬ちゃん落ち着いて!」と顔見知りの看護師さんに抑えつけられた。
涙がどんどんあふれてきた。恐怖がこみあげて止まらなくて、頭がおかしくなりそうだった。
一乃。嘘だ。このままなんて絶対嘘だ。そんなの許すものか。また話せる。会える。そして伝えられる。
あたしは、生まれてから、一乃しか好きになったことがないよって。
──それから、三十分も経たずに、一乃は息を引き取った。
あたしは仮眠室にいて、先生がベッドサイドに座った。あたしは途切れ途切れに銀実のことを先生に伝えた。先生はため息をついて、しばらく何も言わなかったけど、不意に口を開いた。
「同じだろ?」
「……え」
「真冬には、そのガキも俺も同じだろ」
あたしは先生を見た。
「真冬は、いつもかずくんしか見ない。昔から、いくらやっても、かずくんなんだよなあ……」
あたしは、先生の眼鏡をかけた横顔を見つめた。そうか、とぼんやり思った。一乃がいなくなったということは、もう、先生のそばにいなくてもいいのか。
そう、一乃のためだった。全部一乃のためだった。そのために先生の恋人のように、奴隷のように、生きてきたのに──それが、一乃を殺した。
あたしは嗤って、先生のネクタイを引っ張った。
「先生」
「ん」
「あたしには、行くところなんてないよ」
「……ああ」
「行きたい場所もない」
「ああ」
「何か、もう、殺してくれないかな」
先生はあたしを見た。
「そうしたら、最後まで俺に縛られてたことになる」
「……うん」
「いいのか?」
言いながら、先生はネクタイをほどく。あたしはその手に手を添え、ネクタイを首にまわした。
「先生が好きだったら、楽だったかな」
「……無理なんだろ?」
「先生としてきたこと、一乃としたかった」
先生は目を細め、あたしの首に絡みつけたネクタイを一気に引っ張った。ぎゅうっと喉が絞められ、視界が暗転する。
息が吸えない。吐けない。
脳が腫れあがって、感覚が痺れて、それでもなお、力いっぱい首を締め上げられて──
あたしはずっと、この人につながれてきた。霞む視界で、やっぱり先生は満足そうに笑っている。
でも、もう終わりなんだ。あたしはやっと解放される。たったひとりの大好きな人の元に駆けていく。
一乃。
今、逃げ出すから。
この呼吸が止まったとき、あたしはやっと一乃と自由に愛し合える。
あたしのつなぐのは一乃。一乃をつなぐのはあたし。
死がふたりを別つまで? 違う、あたしたちは、死でやっと結ばれる。
FIN