空に手が届かないなら-1

 十七歳の夏休み、好きな女の子が行方不明になった。
 いなくなる前の日にも俺は彼女に会っていたけど、別におかしい様子はなかった。事件に巻きこまれたのか、みずから消えてしまったのかも分からない。
 捜索願いを出しても、夏休みに問題を起こす学生なんて無数だから、警察はあまりまじめに取り合ってくれなかったらしい。彼女の家族は途方に暮れ、手掛かりをつかむ行動を起こそうともしなかった。
 だから俺はひとりで、彼女と出かけたクラブやライヴハウスを巡って、そのすがたを捜している。
 彼女とは、よく夜の街を歩いた。俺たちが出逢ったのは通っていた同じ高校だけど、俺も彼女もあまり良い生徒ではなかった。
 今年の春、俺は留年して一年生をもう一度始めようとしていた。退学にしてくれてもいいのに、とか思いながら午前中から授業をサボって、その日も勝手に早退しようと校舎を抜け出した。
 桜がまばゆいほど満開で、青空が射す陽光の中、淡い桃色が絶え間なくひるがえっている。彼女は校門のそばのそんな桜の下にしゃがんで、春風に長い髪をなびかせていた。
 くっきりした二重。ガラス玉のような瞳。細い首。
「何してんの」と自然と立ち止まって声をかけると、「放課後になるの待ってるの」と彼女は俺を見上げた。
「まだ午前中だけど」
「教室いたくないから」
「ここ目立つだろ」
「裏庭とか屋上じゃ逆に先生が見に来るよ」
「学校出てサボればいいじゃん」
「行くとこない」
 俺は小柄な彼女を見下ろし、「じゃあ」とほとんど何も考えずに言った。
「一緒にサボるか?」
「えっ」
「俺も今からどっかでサボるからさ」
 彼女が俺を見つめる。その瞳には、茶色の髪、かったるい目、華奢な軆をした俺が映っている。彼女は一度顔を伏せたものの、顔を上げなおして立ち上がった。
「先輩かな?」
「留年したから、一年だよ」
「あたしも一年生」
「名前は?」
紗依さより
「俺は琉羽るわ
「呼び捨てでいい?」
「うん」
 肩に降った花びらを無造作に落とし、俺が歩き出すと紗依は隣に並んだ。陽射しの匂いがただよって、暖かい春風が桜をざわめかせている。
 その日から、俺たちは学校で落ち合うと街に出て、取り留めなく一緒に過ごすようになった。映画を観たり、CDショップで試聴したり、ファミレスでしゃべったり──
 モーテル街を歩いたついでに、不器用に軆も重ねてみた。初めはただの雰囲気に流されたセックスだった。けれどやがて、ちゃんとつきあうことにしようと気持ちを告白しあって、改めて俺たちは結ばれた。
 初めから紗依が好きだったわけではない。けれど彼女と過ごすのは心地よかったし、その気持ちは確かに恋になっていた。心から好きになって、まじめにつきあって、大事にしたいと俺が思った女の子は、紗依が初めてだった。
 しかし、夏休みに入って一週間くらいで紗依は突然消えてしまった。ケータイもずっと電源が入っていないようでつながらない。紗依が親しくしていた人間として、俺は一応警察に事情を聞かれ、彼女の家族が狼狽えて何もやっていないのを知った。
 それから俺は、紗依と歩いた街に出向き、見かけていないか店員に話を聞いたり、見落とさないように周囲を見まわしたりしている。
 一緒に行ったバンドのライヴ。一緒に飯を食った店。一緒に終電まで過ごしたクラブ。いろんなところを見てまわっているけれど、紗依は見つからないし、手掛かりもない。
 カレンダーはすぐに八月になった。その日、歩き疲れて入ったバーは、紗依と来たことがあるバーだった。紗依は普通に酒頼んでたなあ、と思いながら俺は烏龍茶にしておいた。酒は飲めなくもないけど、すぐ酔ってしまうほうなので、このあとも街を歩きまわるから飲めない。
「紗依ちゃん、見つかりました?」
 カウンターから俺に烏龍茶をさしだした、歳の変わりないバーテンがそう訊いてきて、俺は首を横に振ってグラスを持ち上げる。
「もう十日ぐらい経つなあ」
「心配ですね」
「うん……。何だかな。ただの家出なら、俺には居場所言ってくれるってうぬぼれかな」
「事件なんですかね」
「ケータイもつながらないし。充電切れてそのままになってるのかも」
「警察も役に立ちませんね」
「ほんとだよ。これで紗依が死体で見つかったら、やっと動くんだろ」
 毒づいて烏龍茶を飲んだときだった。俺の隣の席に座った男が、バーテンにカクテルを注文した。
 俺は頬杖をついて、グラスをかたむけてからんころんと氷が響くのを聴いていた。またそろそろ出歩くか、とも思っていると、不意に声がかかった。
「紗依を捜してるの?」
 はっとして声を振り向いた。
 こちらを見てにこにことしているのは、今隣に座った、凛とした眉に悪戯っぽい瞳をした男だった。骨格が顎も肩もしっかりしていて、二十代半ばだろうか。
 俺がまばたきをしていると、男はバーテンから透明のカクテルを受け取って口をつける。
「あの子を捜してる男の子がいるって聞いたけど、それって君かな」
「……たぶん」
「琉羽くん?」
「あんたは──」
「僕は、あの子の保護者だよ」
「保護者」
「彼女は今、僕の部屋にいる」
 ぎょっと目を開いた。
 何を言っているのだ。俺とバーテンの話を盗み聞きしたイカれた奴か。そんなくだらない誘い文句で、たぶらかしてくる奴も多い街だ。
 それでも、これまでかすりもしなかった手掛かりに軆がこわばって動かない。バーテンがほかの客に呼ばれて離れると、俺はその男に向き直った。
「あんた、紗依の何だよ」
「同居してる保護者だよ」
「同居……って、」
「それだけだよ。変な心配しなくても、僕はゲイだから」
「……俺に、紗依の居場所を話していいのか?」
「琉羽くんなら自分を捜しにくるかもしれないって、あの子から言われてたから」
「ほんとなんだな?」
「騙しても、君は僕の部屋に確かめにくるんだろ」
「行っていいのか」
「あの子がどう反応するかは分からないけどね」
 男は飄々と笑って、「僕は瑶伊ようい」と名乗ってきた。紗依から聞いた憶えのある名前ではない。
 信じていいのかと思いつつ、ほかにあてなんてない。いちかばちか、連れこまれてみるか。ゲイに連れこまれるのは、失敗だったらそういうことになるわけだが、覚悟しよう。この街を適当にふらふらしているだけでは、紗依への糸口もつかめそうにない。
 俺は瑶伊と一緒に涼しいバーを出て、むしむししたモーテル街の裏通りになる、いくつかのアパートの並びに出た。その中のひとつのアパートの階段を瑶伊はのぼっていき、俺は続く。
 心音が深くなってくる。紗依。何やってんだよ。こんな胡散臭い男と本当に同居しているのか。家にも帰らず、俺に連絡もせず。
 だいたい、この男は何なのだ。保護者? 親戚か? 保護者なら、なぜ紗依の家族に無事さえ伝えないのか。それとも、紗依は無事じゃない……?
 瑶伊は鍵を取り出し、廊下の一番奥の部屋のドアを開けた。「どうぞ」と言われて、躊躇いそうになったものの、俺は部屋に踏みこんだ。
 ふっと冷房が肌をなだめた。かなり散らかった部屋だった。本、洋服、CDが床に散乱している。窓際のベッドに視線を向け、俺は目を開いた。
 そこで青いキャミソールドレス一枚で寝ているのは、紛れもなく紗依だった。
「紗依」
 俺は床のものを蹴散らかして、ベッドサイドにひざまずいた。腰まで伸びる長い髪に触れると、紗依のまぶたがぴくんと動いて、瞳が開く。
 紗依は俺を認めて、「あー……」と声をもらしたものの、すぐに寝返りを打って背中を向けてしまった。
「紗依。何だよ。俺だよ」
「琉羽……」
「そうだよ。お前、ずっと行方くらまして何やってんだよ。捜索願いとか出てるぞ」
「仕方ないでしょ……」
「俺だって、紗依のことすごい心配してて」
 紗依は突然仰向けになって、俺の顔を覗きこんできた。そのまっすぐな視線に臆すると、「あたしね」と気だるそうに紗依は身を起こした。
「好きな人ができたの」
「はっ?」
「だから、琉羽とは終わりにしたい」
「何、……え、この男?」
「瑶くんはゲイでしょ」
「俺と別れたいから、家にも帰らないのか?」
「そういうわけでもないけど。家よりここにいたいの」
「わけ分かんねえし。その好きな奴がここに来るのか?」
「まあ、近いかな。ね、瑶くん」
 話題を振られた瑶伊は、「どうだろうね」と人を食った笑顔でいつのまにか用意したコーヒーを俺にさしだす。濃い香りがふわりと揺れる。
 俺はそのカップを受け取らず、「みんな心配してるんだぞ」と紗依を睨む。紗依は鼻で笑って、「あたしを心配するのなんて、琉羽くらいだよ」と言った。
「家はあたしなんかいなくても大して困らないよ」
「警察で事情聞かれたとき会ったけど、そうは見えなかったな」
「家の中のことがばれるのが怖かっただけでしょ」
「家の中──」
「父親が頭おかしいの。学校サボってることで、矛先もけっこう向かってきてた」
 俺は視線を下げた。紗依の家庭の話なんて初めて聞いた。確かに、警察で俺が会ったのは紗依の母親と姉だけだったが。
「俺とは、もう別れたいのか」
「うん」
「……それでも、俺は紗依が好きだよ」
「知ってる。琉羽があたしを捜すのも分かってた」
「俺に見つかってよかったのか」
「あたしがチクるなって言ったら、瑶くん黙ってるでしょ」
 俺は背後にいる瑶伊を振り返った。瑶伊はにこにこと微笑んでくる。胡散臭い。
「この瑶伊って奴は、危なくないのか」
「あたしをかくまってくれてるんだよ」
「かくまうって」
「まあ、いろんなことから」
「ほんとに、こいつが好きな奴じゃないのか」
「惚れてたら、逆に部屋に置かないでしょ」
 確かに、自分に惚れてる女なんてゲイには邪魔臭いだけか。しかし、本当にゲイなのかも分からない。
「琉羽がここに来るのは自由だよ」
 俺は紗依を見た。キャミソールドレスなので脆い肩は剥き出しで、鎖骨が浮いている。
「あたしが心配なら、ここに様子見に来ていいから」
「……いいのか?」
「いいから、琉羽があたしを捜してたら、ここにいるの伝えていいって瑶くんに伝えたの」
 俺は瑶伊を見た。俺に淹れたはずのコーヒーをすする瑶伊は、「紗依はね」と俺の目線にしゃがみこんだ。
「好きな人のそばにいたいんだよ。それには、この部屋が一番近いんだ」
「そいつがここに来るのか?」
「そうかもしれないね」
 俺はうなだれ、紗依にどう答えるべきかに悩んだ。
 紗依はもうそいつが好き。俺に気持ちはない。たぶん、この部屋にいることで、日常に戻るよりそいつの近くにいられるのだろう。
 だとしたら、俺は──

第二話へ

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