空に手が届かないなら-3

「それでも、同じ家庭内にいると感づくものがあるんだろうね。視線とか、触れ方とか。だけど、まだ実際に何かされたわけじゃないから誰にも相談できなかった。母親も、学校も、施設とかだって、何かあってからじゃないと話も聞かない。考えすぎとか被害妄想で片づけておしまいだよ。されてからじゃ遅いのにね。だから、かごめは親戚の中でゆいいつひとり暮らししてた僕のところしか、行く宛てがなかったんだ」
 どこか遠い瑶伊の目に、俺は視線を下げる。
「それで、二年くらい一緒に暮らしたかな。あの部屋でね」
「今はそいつ、どうしてるんだ」
「死んだよ」
「はっ?」
「死んだ。ほんとにこないだ。一応、自殺ってことになってる」
「一応って」
「かごめがいなくなって、何日かして、紗依が僕の部屋に来たんだけど。紗依は、かごめは自分が殺したって言った」
 俺は凝然と瑶伊を見つめた。
 何? 紗依……が、殺した? 紗依が人を殺した?
「それから、僕が紗依をかくまってる。まあ、かごめが飛び降りて、警察の捜査は実家にしかいってないみたいだね。僕の部屋にいたことは誰も知らなかったから」
「飛び降り、ってことは、普通自殺なんじゃねえの」
「紗依は自分が突き落としたって言ってる」
「何で?」
「そこまでは聞いてない」
「だって、紗依はかごめって奴が好きだったんだろ?」
「うん」
「なのに、殺意を抱かせるようなことをかごめって奴はやったのか?」
「分からないけど、かごめは人とのつきあいを角立てる子ではなかったよ。正直、紗依の言ってることも、どこからどこまで本当なのか分からないし」
「……そうか」
 俺は水滴の浮いたグラスに手を伸ばし、氷がきいた冷たい烏龍茶を飲む。
「とりあえず紗依は、もう家に帰れないし、今まで通りの生活もできないって言う。だから、僕の部屋にいるんだ」
「お前、甥っ子殺したかもしれない女が憎くはないのか」
「やっぱ殺したと思う?」
「俺はそう思いたくねえけど」
「僕も正直、紗依の話を丸のみにしていいのかとは思う」
「そう、だな。俺も信じたくねえな」
「紗依が誰かをかばってるとか、僕もいろいろ考えるんだけどね。紗依はとにかく、かごめを殺したからかくまってくれって言うだけ。だから、これ以上深い話が気になるなら、紗依に直接訊いてね」
「………、」
「僕から言えることは、紗依の好きな人はもういないってことだよ。かごめは確かに死んだ。それは、僕も確認してる」
「……もう、いない」
「だから、まだ紗依をあきらめる必要もないのかもしれないね。僕は気にしないんで、部屋にはいつでもおいで」
 俺は視線を下げた。
 直接、紗依に訊く。話してくれるだろうか。瑶伊の話では、どういうことなのかすっきりしなくて、ただ混乱する。だいたい、殺したって。そんなにさらっと言われても簡単に信じられない。
 紗依は本当に「かごめ」が好きだったのか? 好きだったとして、本当に自殺ではなくて殺したのか?
 考えても、何にも分からない。ただ、紗依のすがたを思い返し、あの細腕で男を殺すなんてあまりにも非現実に思えた。
「瑶伊」
「ん?」
「あんたには、かごめって奴はただの甥だったのか」
「というと」
「好きだったとかないのか」
「そりゃあ、好きだったよ。大事にしてた」
「恋愛対象ではなかった?」
「どうだろうね。自分でもはっきりしないけど──守りたかったよ。それはすごく思う」
 瑶伊はカクテルに口をつけ、少し瞳を傷ませる。
 守りたかった。なのに、そいつを殺したなんて言う紗依をかくまっている。瑶伊は紗依の言葉を信じていないのかもしれない。むしろ、紗依を守ることがかごめを守ることにつながっているのではないか。だとしたら、それはどういう真実につながるのだろう。
 烏龍茶を飲み、きらきらした夜景を見下ろした。
 ちょっと怖い。それでも、紗依に訊くしかない。お前はなぜ俺の前から消えることにしたんだ。単純に、かごめを好きになったから? あるいは、どういう理由か知らないが、そいつを殺したからなのか?
 次の日もよく晴れているのを、自分の部屋の窓からしばらく眺めていた。頭の中では、昨日の瑶伊の話がぐるぐるしている。
 紗依が人を殺した。そして、殺した相手を助けていた相手にかくまってもらっている。人を殺す、なんて葬式に出たこともない俺には「死」自体がふわふわしていて実感がない。瑶伊に揶揄われたんじゃないよな、とも考えるが、それにしては不謹慎か。
 とりあえず、紗依に確認してみないと始まらない。本当に人を殺したのか──俺は仰向けになっていたベッドを起き上がり、行くか、と寝汗が染みたシャツを脱いだ。
 着替えて身支度をして、アスファルトを焦がす太陽の下に出る。ちょうど昼時で、日射しは一番ぎらついている。汗をむしりとられて、喉が渇いて、あっという間に熱中症になりそうだ。蝉の声は七月より減ってきた。駅に着く前に、自販機でスポーツドリンクを買って甘い香りのそれをごくごく飲んだ。
 ホームでは意識が薄れそうに蒸されたが、乗った電車は冷房がぐっと効いていて助かった。街に出るとまたふらふらになりかけながら歩いて、汗びっしょりになって瑶伊のアパートに到着した。
 紗依はいつも通り家事をしていて、ベランダに洗濯物を干していた。「琉羽の昼ごはん作っておいたよ」と言われて、キッチンを覗くと焼き餃子が添えられた炒飯があった。
 俺はそれを電子レンジで温めると、ベッドサイドに腰かけて食べはじめる。洗濯物を干し終えた紗依は、かごを床に放って俺の隣に座った。
 俺が紗依を見ると、紗依も俺を見る。
「何」
「え」
「炒飯まずい?」
「いや、うまいけど」
 紗依は肩をすくめて、「あーあ」とベッドに倒れる。
 折れそうな腕、もろい肩や腰、細い脚。
 本当にそんな非力そうな軆で男ひとり殺したのか。やっぱりいまいち胡散臭く感じていると、「昨日」と紗依は天井を見つめるまま口を開いた。
「瑶くんと何話したの?」
「えっ」
「口説かれた?」
「何でだよ」
「琉羽は瑶くんの好みかなと」
「知らねえよ。口説かれても拒否るし」
「じゃあ、仲良く飲んだだけ?」
 俺は答えずに餃子を口に入れた。無言でもぐもぐとしていると、紗依は寝返りを打ってこちらに背を向ける。
「かごめくんのこと聞いたの?」
 どきっとして、炒飯をすくおうとしていたスプーンが止まる。紗依はそれをちらりとかえりみて、「瑶くんは口軽いなあ」とゆっくり身を起こす。
 俺は紗依に顔を向けてから、皿を膝に下ろす。
「本当なのか?」
「何が」
「だから、その……死んでるって」
「うん」
「……殺したって」
「そうだよ」
「冗談で済まねえぞ」
「冗談じゃないよ。あたしがかごめくんを殺した。ビルの屋上から突き落としたの」
「何……でっ、そんな、」
 俺の膝から皿が落ちそうになって、紗依がそれを受け止める。そして淡々と皿を床に置くと、「好きになったんだもん」とつぶやく。
「かごめくんにひと目惚れしたの」
「好きなのに殺したのか?」
「好きだから殺したの。ぜんぜん相手にしてくれないから」
「はあ? 何だよ、そんな幼稚な理由──」
「好きな人に相手にされない気持ちは、琉羽には分かんないよ。本気で誰か好きになったことなんてないでしょ」
「俺は、」
「少なくとも、あたしには本気じゃなかったんじゃない?」
「何でそんなこと言い切るんだよ。本気だよ。まだ本気でお前のこと好きだよ。じゃなかったら、」
「じゃあ、ほかの男に目移りしたあたしを殺したいでしょ?」
「あのなあ、」
「本気ってそういうことだよ。あたしのこと殺す気はないなら、琉羽の気持ちはその程度ってことだよ」
 何を言われているのか分からない。突然外国語で怒鳴られたみたいだ。
 殺す、とか、そんなのは考えたこともない。でも、だからって「その程度」になるとは思えない。
「三日間、一緒のモーテルでかごめくんと過ごしたの」
 俺は眉を顰めながら、紗依を一瞥する。
「それで気持ちが変わったらつきあうけど、変わらなかったらごめんねって言われて。かごめくんは変わらなかった。だからあたし、許せなくて」
「そんな、好きな奴が振り向かなくて殺すなんて、キリがないじゃないか。人類のほとんどが人殺したことがあるぞ、そうなったら」
「みんな、本気じゃないんだよ」
「お前おかしいよ、ちょっと」
「知ってる」
 紗依は膝を引き上げるとぎゅっと抱えこむ。
「かごめくんが、おかしくさせたの。ほんとに、手に入らないなら殺すか、自分が死ぬかしたくなる人だったの。かごめくんを知らない琉羽には分かんないよ」
 俺は舌打ちして、頭を抱えた。紗依が少し常識から外れているのは知っている。でも、これはおかしすぎるだろう。
 紗依の感覚が分からない。それとも、かごめにはそこまで異常な色香でもあったのか。美少年だった、とは瑶伊も言っていたが──。
「お前、それってほんとの話なんだよな」
「どういう意味」
「誰かかばってる嘘ではないんだな」
「かばうような大事な人はあたしにはいないよ」
「エゴでかごめって奴を殺したのか」
「そうだよ」
 俺は息をついて立ち上がった。「帰る」と言うと、「うん」と紗依は俺を見上げる。
「あたしのこと、怖い?」
「……怖いっつうか、気持ち悪いわ」
「そお」
「もう来ないかもしれないけど」
「うん」
「瑶伊にはよろしく」
「琉羽」
「ん」
「かごめくんに逢わなかったら、大好きだったよ」
 俺は唇を噛んで、何か言おうと思ったが言葉が見つからず、無言で玄関に歩いた。廊下に出ると、視界が水分で滲んでくるから情けない。
 アパートを出て、まだ日中で街は人通りの混雑もないので、そのへんのビルの植えこみに座りこんだ。目をこすっても、瞳にぼやけた膜ができる。
 ずるいだろ、と鼻をすする。一番最後に、『大好きだった』なんてずるい。
 理性では理解できない。でも、情動なら痛いほど感じる。そこまで、紗依はかごめって奴に惚れたわけだ。なのに俺は紗依を忘れられず、捜して、探りあてて、通いつめて、バカじゃないか。
 紗依は本当にかごめが好きだったのだろう。殺してでも手に入れたかったのだろう。俺にはそんな強い衝動は確かに分からない。かごめの身になって考えたら、とんでもないことだろう。想いに応えなかったから殺されたって、そんなの、紗依を怨んで化けて出てもおかしくない。
 殺すことで、当然憎まれるとは紗依は考えなかったのだろうか。そんな考えも及ばないほど、かごめが欲しくて狂っていたのか。あっさり話されたけど、やっぱり、行動が異常なほど安易だと思う。

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