お腹の中が、破裂してぐちゃぐちゃになっているのかもしれない。先月は生理が来なかった。でも、親には言えない。学校で、こんな──
みじめなあつかいを受けているなんて。
「あー、もうっ。また虫みたくなりやがって」
驟雨のようにたたきつけてくる複数の足に、教室の冷たい床に顔を伏せてうずくまる。フローリングは足痕の臭いがして、でも私は両腕をお腹にまわし、つつかれた虫みたいに丸くなる。
笑い声。舌打ち。
イラだった声でそう吐き捨てた千冬さんが、私の背中をかかとでとりわけきつく踏み躙る。
「気持ち悪いんだよ、クズ虫!」
目をつむる。刃物を突き立てられたみたいに背骨に痛みが走り、けれど、お腹は守らないとまた血を吐いてしまう。
がつっと後頭部に強く蹴りが入った。がくっと首が曲がって、鼓膜までその衝撃が響いて、一瞬何も聞こえなくなる。
「ほんとに虫だよな、この女」
私は薄目を開け、その声の主を見上げた。みんなの中で、御笠くんはひときわぞっとする眼で私を見下ろしている。すぐ目をそらしたのに、それでかえって視線に気づかれたのか、むしるように髪をつかまれて顔を上げさせられる。
「何だよ、虫螻女」
頭皮をぎりぎりと捻じられ、ぷつぷつと髪が引き抜ける音がする。
「何かやたらお腹守ってんね、こいつ」
まだお腹を抱える私を、千冬さんが御笠くんと覗きこむ。
「ふん。ガキでもいんのかよ?」
脳がきしんで、私は震えながら首を振る。「そうだよねえ!」と千冬さんやみんなが楽しそうに笑った。
「この女とかないわー」
「でもさー、どうせ便器にしかなれないでしょ」
高野さん。
「便器は便器でも、臭そうじゃね」
見口くん。
「あははっ、確かに汚い公衆トイレって嫌だよねえ」
成木さん。
また軆に足蹴が飛び散る。でも、まるで生首を持ち上げるように御笠くんが髪を離さないから、せぐくまれない。おののく息遣いが意識を圧迫して、涙で視界が滲んでくる。
「……て」
「あ?」
「離……して」
御笠くんは目を眇めると、いっそう髪を握りしめ、もう一方の手で強く頬を引っぱたいてきた。そして無表情のまま立ち上がり、手を離して私の頭を床に踏みつける。
「何かムカついた。おい、こいつの腹の手退けさせろ」
私は肩を動かし、やめて、と言おうとする。でも舌がもつれて声が出ない。みんなが私のお腹を守る腕を剥がしにかかってくる。抵抗しようとしても、男子も混じった二、三人の力なんて振りはらえない。
御笠くんの上履きと髪がこすれて、嫌な音だけ頭に残る。
「千冬」
「分かった!」
無邪気に答えた千冬さんが、後ろ手をつかまれる私の脇腹から胃を、一気にどすっと蹴りあげた。口の中にせりあげ、私は咳きこんで口元から赤いものを吐いてしまう。
「うわっ、こいつまた血吐いた」
「ちょっと蹴っただけじゃん」
「ほんとに妊娠してんじゃないの」
「最悪。マジで便所かよ」
頭の中がずきずきする。口を少し開くと、大げさなほど鮮やかな紅が口元をしたたる。赤い水たまりが床に広がって、御笠くんがやっとこめかみを踏む足を退けて、忌ま忌ましそうに舌打ちする。
「それ、ちゃんと掃除しろよ」
御笠くんに弱々しく目を向けてから、黙って自分のタオルでそうしようと起き上がろうとした。すると、御笠くんは鋭く私の肩をその場に踏みつけてくる。
「口の中に戻せっつってんだよ」
くすくすと忍び笑いが聞こえる。口の中が、涙の塩と血の鉄でぐちゃぐちゃに混ざっている。呼吸がわななく。
口の中に。もう、何が何だか分からない。とにかくこの人たちから解放されたい。その一心で、自分の吐血に舌を伸ばそうとしたときだった。
「──くそっ、お前らっ!! 先生呼ぶぞっ」
はっとして舌を引く。
みんなその声を振り返り、ため息をついたり白けた声を出したりする。御笠くんさえ、苦々しい顔はしても足を引く。千冬さんはぱっと御笠くんの腕にしがみついた。
「御笠、今日は一緒に帰ろうよー」
「……うるせえ」
「えー、ねえ、御笠──」
散っていくみんなの代わりに、ぱたぱたと足音が近づいてくる。ゆっくり顔を上げると、やっぱり七生くんだ。眼鏡の奥から私の状態を見て、表情をこわばらせると、「おいっ」と七生くんはみんなに声をかける。
「お前ら、ほんと先生たちに──」
「……いいよ」
息を切らす七生くんは、たぶん今日も放課後の学校を走りまわって私を探してくれたのだろう。
「でも平城さん、」
「いいの、……大丈夫」
言いながら咳きこんでいるけれど、先生には言ってほしくない。そうしたら、きっとおとうさんにも知られてしまう。
仕事でいそがしいおとうさん。私のことで煩わされたら、きっと嫌な顔をする。きっとその目が一番耐えられない。
「いい子ぶりやがって。死ね」
「御笠っ──」
「いいから、七生くん。私、平気だから」
私は身を起こし、手の甲で口元を拭った。悪戯で塗ったルージュを慌ててぬぐったみたいに赤く染まる。七生くんがかたわらに手提げを下ろし、ティッシュをくれる。「ありがとう」と小さく言って、私は力なく手の甲をこすってから、染みつく前にと床の血も拭き取った。
七生くんは出ていくみんなを憎々しく見て、「どうして」と私には耐えられないような目を向けた。
「ひどすぎるよ、イジメって域じゃない」
「……みんなには、ただの遊びだよ」
「早くどうにかしたほうがいい。だって……その、今月のは来た?」
「………、」
「病院に行ったほうがいいよ、絶対。危ないことになってたらどうする?」
危ない──。お腹をさする。
「……知られたくないの」
「知られて、終わったほうがマシだろ。大人が知ったら、どうせあいつらやめるんだよ」
「七生くんが、こうして助けてくれるだけ、マシだから」
「でも、たいてい途中からばっかりだよ。ほんとごめん」
「ううん。ほんとに、七生くんがいれば……いいの」
七生くんが私を見つめて、苦しそうに唇を噛んでうつむく。
私は痛みがまといつく軆を起こし、めくれていたスカートを引っ張り、蹴られた擦り傷にも血が滲んでいるのを認めた。「傷洗わないと」と立ち上がろうとすると、「保健室ぐらい行こう」と七生くんは私が立ち上がるのを丁重に助ける。
「ううん。行かなくていい」
「平城さん、無理しないでよ」
「してない。だって、保健室って不登校の子とかいて、普通の生徒は入りづらいでしょ」
「………、先生に知られたくないからじゃなくて?」
「うん」
「ほんとに」
「ほんと。平気だよ。その手洗い場まで、ちょっと、支えてくれるかな」
「……分かった」
今日のこの教室は、あの五人の中の誰かのクラスの一般教室だ。一般教室の奥には手洗い場がついている。
「僕が拭くから」と七生くんは蛇口をひねってティッシュを湿らせ、私をそばの椅子に座らせると、肘や脚をぬぐってくれた。優しい手つきなのに、それでもひやりと沁みて、びくっと軆が震えてしまう。
「ごめん。痛かった?」
「……大丈夫」
七生くんは何か言おうとしたものの、口をつぐんで、そうっと擦り傷についた血をぬぐい取ってくれる。
まだ窓の向こうは青空がある残暑で、私も七生くんも制服は夏服だ。窓も閉まって換気がなく、空気は蒸している。まだ部活の声が聞こえる。
「何時かな」とつぶやくと、床にひざまずく七生くんは時計を振り返ったけど、ここからでは眼鏡をかけていても視界が良くないらしい。時計を睨む様子にちょっと咲うと、七生くんは私を見上げて、哀しそうに微笑んだ。
「ねえ、平城さん」
「うん?」
七生くんは息をついて私を見上げてくる。私も乱れた髪を撫でながら七生くんを見る。
「お願いだから、無理しないでほしいんだ」
「え……」
「誰にも知られたくないなら、僕の前でくらい……」
「……七生、くん」
それ以上は答えづらくて、睫毛を伏せる。白いブラウスにも紺のスカートにも、足痕がたくさんついている。
「僕は、平城さんが好きだから」
どきんと心臓が動いて、思わず自分の指先を握る。
「みんなの前で、我慢するって言うなら強く言えない。けど、僕の前では何も我慢しなくていいんだよ。もう、あの日あいつらのこと見てから、知ってるわけだし」
「七生くん……」
「……皮肉だよね。ほんとはあの日、平城さんに……告白しようとして探してたんだ」
まばたきが増える。胸で脈拍が深く刻まれる。
「こんな……の、僕もつらいんだ。僕がつらいっていう理由では、勇気にならないかな?」
「……あ、」
「先生とか、ほんとに言えない?」
軆の重みが、椅子に虚脱していく。
つらい。七生くんがつらい。私の味方でいてくれる七生くんのことは、私のせいでつらい目には遭わせたくない。七生くんだけは。そう思うのに──
頬には水が伝って、ぽた、ぽた、とスカートに染みこんでいく。
「平城さん──」
「……言えない、けど」
「……っ、」
「泣いていい……かな」
「えっ」
「泣いても……ひどくしたり、しないよね」
「当たり前だろっ。いいよ、泣いていいんだ」
「七生くんなら、私のこと──」
「大切にする。あいつらのことだって、僕が殴りつけてやれば、」
「いいの、そんなことはいいから、ただ……私のそばにいてほしいの」
「いるよ。僕が平城さんを守るから」
喉がぎゅっと詰まって、涙にまぶたが震えて、七生くんの顔がよく見えない。でも、優しくて強い視線を向けてくれているのは分かる。私が手を彷徨わせると、七生くんがそれをつかんで握った。そして、その手を引き寄せて私を抱きしめてくれる。
七生くんの青いネクタイが濡れていく。私はその温かい胸の中で泣き声を上げた。七生くんは、オレンジ色に日がかたむいてくるまで、私の頭を撫でてくれていた。
【第二話へ】