御笠くんにまた犯されるのが怖くて、私はなるべく自分からも七生くんを探すようにした。そんな私に、「何かあった?」と七生くんは不安そうにしても、曖昧に咲うだけで何も説明できない。
でも、御笠くんは確かに千冬さんに口止めはしたみたいで、私のあの穢れた過去がうわさになることはなかった。
それでもみんな、隙をついては私を殴ったり蹴ったり追いつめてくる。一番怖い御笠くんは、特にここのところ無性にいらいらしている。殴りつける拳も、蹴りつける足も、今まで以上に粗暴で容赦がない。
顔に痕跡が残っても構わない、半殺しにするような様子で、千冬さんたちさえちょっと驚いている。やっぱり、七生くんのところに逃げて、「やらせない」ことに怒っているのだろうか。七生くんが現れるか、「もうやばいよ」と誰かが言い出して、降りしきる暴力は終わる。
その日は七生くんの助けは間に合わず、猛犬のようだった御笠くんが、急に私を突き放したことで終わった。どこの教室か分からなかったけど、一般教室だった。
のろのろと立ち上がり、洗面台へとよろめきながら近づくと、擦り傷を水に晒す。痛い、と眉間に皺を寄せる。床に落ちているかばんから、湿らせるハンカチを取ってこようと蛇口を止めた。そのとき、がたんと入口で物音がして顔を上げる。
七生くん──と思った。違った。私の軆は一気に強直した。
御笠くんだった。まだ、毒気を含んだ野蛮な目をしている。ほかの四人はいない、ということは……
逃げようとかばんをつかんだ。でも、焦った拍子にさくら色のタオルハンカチが落ちてしまう。慌てて拾おうとしたときには、もう御笠くんがそばに来ていて、私は屈んだ姿勢から顔を上げた。
「何でだよ……っ」
御笠くんの表情に目を開く。毒々しいほど憎しみがこもっている。なのに、その憎悪がやるせない切なさもちらついている。すごく苦しそうな表情だった。
「御笠くん──」
「俺のこと分かんねえのかよっ」
「え……」
「俺はずっと……もしかしてって思ってて。でも、やるしかなくて。何だよ。何で……ほんとに、実萌なんだよ」
な……に。私の名前なんて、どうして御笠くんが。
私が狼狽えたまま動けずにいると、御笠くんはポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。そして、それを私のさくら色のハンカチの上に投げつけた。私は大きくまぶたを押し開く。
すみれ色のタオルハンカチ──
視界が一瞬、セピア色にきしんだ。そして、あの男の子の笑顔がよぎる。
『俺は、実萌だけが、ずっと──』
うそ。うそだ。
もう一度、私は御笠くんを見上げた。
「ひのわ……くん、なの?」
その名前は、私にとって忘れるはずのない名前だった。そして、初めて御笠くんの面影に気がついた。
でも、瞳の温度があまりにも違う。御笠くんは苦々しく目を伏せた。
「この変な名前で、普通気づくだろ」
「え、えと──」
「それとも、俺の名前も知らなかったのか」
「あ……、」
「……知るわけねえよな。お前は七生しか興味ねえもんな」
御笠くんを見つめた。ひのわくん。御笠くんが、あの、ひのわくんなの?
昔、私が泣かされると、今の七生くんのように──七生くんより早く飛んできて、どんな相手でも蹴散らかしてくれた。私の頭を撫でて、顔を覗きこんで、涙を指で拭いてくれた。
嫌だ。そんなの嘘だ。
頭の中が錯落としてくる。目の前の冷たい瞳は、どうやってもあの温かい瞳につながらない。
御笠くんは、私にひどいことしかしなかった。そんな人が、あのひのわくんだっていうの? ひのわくんが、私を殴って、蹴って、犯したというの?
そんなこと……
「平城さんっ!」
御笠くんは振り返って舌打ちし、素早くすみれ色を拾ってポケットに突っ込んだ。
今度こそ、七生くんだった。私が声を上げて涙をあふれさせても、御笠くんはやっぱり冷え切った目のままで、きびすを返して離れていく。
七生くんはすれちがいざまに御笠くんを睨み、私の元に駆け寄ってきた。
「平城さん。ごめん、遅かっ──」
七生くんにしがみついた。頭の中が真っ暗に絶望していた。心臓が闇に堕ちていく。「平城さん」と七生くんは優しい声で私の背中をさすってくれる。
舌打ちと遠ざかる足音が聞こえた。御笠くん。信じられない。信じたくない。私をどんなつらいときも支えていた記憶が、こんなかたちで打ち砕かれるなんて。
「どう……して」
「え」
「どうして……私、こんなこと、されてるの」
「………、」
「転校生だから、……よそものだからって、思ってたけど」
「……理由、とかあるのかな。あんな奴らに」
「いつ、御笠くんは変わったの?」
「えっ」
「御笠くん、ほんとはあんな人じゃないんでしょう?」
「さ、さあ……御笠のことは中学で知ったし」
「……怖いよ。あんなに、変わることがあるなんて」
「昔の御笠を知ってるの?」
私は七生くんの胸をどんどん濡らしていく。しゃくり上げる声が止まらない。七生くんは私の肩を抱いてくれる。
「御笠くん……は」
「……うん」
「……ずっと、会いたかった人……っ」
七生くんの手が、困惑したのか止まる。
「それ……って、」
真実を認めたくなくて、もう言葉にできなかった。七生くんの手が、とまどいながらも再び私の髪をそっと撫でてくれる。
『おとうさんとね、おかあさんがね、リコンするんだって』
『リコン?』
『私、おかあさんと一緒に、住むおうちも変わるんだって』
『引っ越すのか?』
『うん……』
『もう会えないのか?』
『分かん……ない』
『会える、よな。俺は、実萌がどこに行っても実萌の味方だから』
『ほんと?』
『当たり前だろっ。また会えるって約束しよう。そうだ、明日ちょっとだけ小遣い持ってこいよ』
『お小遣い?』
『俺も持ってくるから。また会えるときまで、お守りになるもの買うんだ』
翌日、私とひのわくんは手をつないで、放課後にこっそり通学路を抜け出して駅前に出た。でも、どんなものもけっこう高い。やっと手が出たのが、無地の小さなタオルハンカチだった。
私はさくら色。
ひのわくんはすみれ色。
値札のシールに花言葉が書いてあったからだ。桜は純潔。菫は貞節。意味が分からなくて店員のおねえさんに訊いたら、おねえさんは微笑んで言った。
『純潔も貞節も、その人だけがずっと好き、みたいな意味かな』
どのみち、お小遣いではそれくらいしか買えなかったので、私たちはそれを買った。
『お……俺は、実萌だけが、ずっと好きでもいいぞ』
『えっ。う……うん』
『実萌は──』
『私、も、ひのわくんだけ──
ああ。ひのわくん。そっか。そうだね。
私は穢れたよね。そして今は、七生くんのことが好きだもんね。
約束、破ったよね。だから、あんなに私を罰するんだね。ひのわくんは、約束を守ってくれていたのに。
でも、私も約束を破る気なんてなかったよ。ずっとひのわくんを憶えていた。会えたら、何を捨てても、ひのわくんを優先するつもりだった。
どうして何も言ってくれなかったの? なぜ黙ったまま、ただ私にひどいことをしたの?
ひと言、「おかえり」とあの優しい瞳のまま言ってくれていたら──
陽が落ちるのが、少しずつ早くなっていく。まだ暑さは残っていても、十月になっていた。ショックもあってよろける私は、マンションの前まで七生くんに送ってもらった。
「あとはエレベーターだから」と何とか咲って別れて、エレベーターで部屋のある五階に向かう。そして部屋の並びに来たとき、家の前に人影があって立ち止まった。
その人も私を見て、唇を噛んですぐうつむいた。同じ中学の制服を着たその男の子。
御笠くん、だった。私は一瞬引き返して逃げようと思ったのに、なぜか足は、そちらにゆっくり歩み寄っていた。
「……私が許せないんだよね」
思いがけないほど、はっきりした口調が口からこぼれた。
「私が裏切ったって思って、全部──」
「違う!」
びくんと立ち止まる。御笠くんは私を見やって、「そんなことだったら」と今にも泣きそうに切羽詰まった目を向けてくる。
「俺だって、千冬の誘いを断らなかったから。俺もお前を裏切った」
「………、じゃあ、」
「いいか、今から話すこと、お前は絶対知らないふりをしろ」
「え……」
「千冬と同じクラスの見口は分かるな?」
気圧されながら、ぎこちなくうなずく。私をイジメる、もうひとりの男子だ。
「元々は、あいつだったんだ」
「え……?」
「小学校のとき、あいつがイジメられてた。俺は違う小学校だったけど」
「見口くん……が」
「中学になって、お前と同じクラスになって、俺はお前に声をかけようとしてたんだ。でも、切っかけがないうちに千冬に誘われて、流されるみたいにやっちまって。見口は千冬が好きだったから、俺に近づいて、親とかに千冬に手出ししたのをチクるって言った。それが嫌だったら、お前のことをイジメろって」
「み……見口くんが、どうして私を……」
「見口をイジメてた奴が、お前を気に入ったから。気を引くのを手伝ったら、イジメをやめてやるって言ったんだ」
「えっ……」
「俺がイジメるから千冬もお前をイジメて、千冬がやるから見口自身もほかのもイジメに混ざってきて、今の状態になった」
唇が震える。待って。お願い、待って。今、私の気を引いている人って……
「いらいらした。全部あいつの思う壺なのに、お前はほんとにあいつに惚れていくし。俺のことにも気づかないし。ただ、もう傷つかなくていいように不登校でも何でもいいから、俺たちの目の前から消えるように、全部……やった。どんなひどいことも、最低のことも、死にたくさせることも、やった」
さっきまで肩を支えていた手の温もりが、急に重くのしかかってくる。
「じゃあ、……そんな」
「分かるだろ」
「な……七生くんが、私をイジメろって……?」
「そうだよ、全部あいつだ」
「……何、で。嘘でしょ。もういいよ、ひのわくんが最低な人に変わったってだけでいい! 七生くんはっ──」
御笠くんは顔を上げ、私の腕を引っ張った。声がもれて、そのまま御笠くんの胸に倒れこむ。すぐ離れようとしたけど、御笠くんは私を抱きしめて離さない。
「俺が信じられない?」
ぴくんと睫毛が動く。びっくりするほど、弱い声だった。
「七生を信じる?」
私は息を飲みこむ。
この体温。匂い。どうしよう。憶えがある。髪を撫でる指にも、耳元に近づく口の角度も、全部、涙腺をぎゅうっと絞って私の心の底を開く。
思わずその背中に手をまわしそうになったけど、その前に御笠くんは軆を離した。
「……ごめん」
「えっ……」
「俺には、そんなの訊く資格ないんだよな。そうだよな、もう……俺がお前にやったことは消えないし」
ちぎれた軆に不安が押し寄せ、おろおろと涙を流す。その涙に温かい指が触れた。そっと、すくってはらい取ってくれる。
鮮明になった視界には、哀しいほどのセピアと重なる、私を見つめる瞳があった。
「お前が、義理の父親にされてたこと知って、もう訳が分からなくなった。あのとき、お前を殺せばいいとさえ思った。殺して楽にしてやろうって。でも、殺せなくて……煮え切らないいらつきで犯して、後悔するほど暴力もむごくなって──そうだな、俺は最低だ」
「わ……私、」
「ほんとは、昔のまま、優しくしたかったのに。見口に、七生にどれだけ、どんなふうにイジメられてたかも聞いてるんだ。俺はそれを怖いと思った。俺もお前が好きだなんてばれたら、殺されるって」
「……す、好き……なの?」
「え」
「私のこと、好き……って」
「……好きだよ」
七生くんに好きだと言われたときにはぜんぜんなかった、細胞の上気を感じた。軆がじわりと甘く痺れる。指先が溶けそうに疼く。
私はちょっと躊躇ったけど、一歩御笠くんに近づいてその胸に右のこめかみをあてた。
「お、おい──」
「私……もう、汚れてる、よ」
「えっ」
「もう、純潔でも何でもないよ。おじさんにあんなことされて、七生くんのこともあっさり信じて。ひのわくんだけなんて約束、ぜんぜん守れなかっ──」
突然、肩をぎゅっと抱きしめられる。「約束なんていいんだ」とひのわくんは絞り出す声で言う。
「それに、実萌は何も約束は破ってない。破ったのは俺のほうだ」
「ひのわくんは、」
「実萌は汚れてない。あの頃のままだ。俺だけって言ってくれたときのままだ。そうだろ?」
「……ん、うん」
「気持ちがあのときのままなら、約束は破られてない。俺も、気持ちはずっと実萌だけだった」
「ほんと……?」
「ああ。千冬と……してるあいだも、ずっと実萌のこと考えてた」
「……えっ、」
「実萌のことしか考えられなかった。今抱いてるのが実萌だったらって、そればっかりで」
ひのわくんが私を覗きこんでくる。柔らかな瞳は潤んで、私を切なく捕らえる。私もまだ、涙がちゃんと止まっていない。だから、淡いキスは塩味がした。
その温もりにぼうっとしそうになる私に、ひのわくんははっきり伝えた。
「好きだ、実萌」
「ひのわ、くん……」
つぶやく私の髪を撫でたひのわくんは、「でも」と声を落とした。
「俺のこと、振っていいんだ」
「えっ」
「何も知らないふりして、七生とつきあうほうがいい。そのほうが安全だ。七生を振るとか、そういう逆らうことは危険だから」
そう言われて軆を隙間を作られて、私は首を横に振った。
「いや」
「……実萌」
「私もひのわくんが好き」
「でも俺は──」
「どんなにつらくても、私、ひのわくんと出逢ってたから生きてこれたんだよ」
「………、」
「私のそばにいて。こんなのバカだって分かってる。すごくひどいことされた。でもそれは、ひのわくんが変わったってわけじゃないんでしょ?」
「弱く……なったかも。昔の俺なら、はなから七生を殴ってた」
「でも、そのせいで自分がイジメられたら、私が責任を感じるの分かってたんでしょ?」
「あ……、」
「私を苦しめないようにして、ひのわくんは──」
もう一度、今度はしっかり抱きしめられる。落ち着く優しい匂いに包まれる。私もひのわくんの背中に手をまわした。
「実萌」
「うん」
「ごめん」
「ううん」
「こんな奴でごめん」
「……いいの。話してくれたから」
「もう、俺が守るから。しっかりするから」
「うん」
「約束も守る」
「うん」
「実萌のことを守るから」
私はうなずいて目を閉じた。ひのわくんの速い鼓動が聴こえる。
好きな人の腕の中にいる。この感触が、ずっと心の支えだった。ここに戻れるから、何があった日でも次の日まで生きられた。ひのわくんとの約束が、私のすべてだった。
だったら、信じるべきが誰なのかは自然と分かってくる。
「ずっとお前だけだ」
そうささやいてくれるこの人になら、私も誓うことができる。ずっとこの人だけ。私はこの体温を、何よりも誰よりも信じる。
【第五話へ】