恋にならない-2

 今日の仕事に無事OKをもらうと、私は自分のデスクを離れ、ロッカールームの荷物を持って、「お疲れ様でしたー」とさっさと帰る。同僚と飲みにいくことも減った。同年代は寿退社してしまったのもあるし、「先輩は彼氏いないんですかー?」という若い後輩たちの笑顔に勝手に毒を感じるのもある。
 仕事は嫌いじゃないのに、人間関係で離職するのは疲れる。なので、そもそも人づきあいはさらりと済ます。それでも、陰でお局とか呼ばれるようになっていくのは、鬱陶しいなあとは感じるけど。
『十三日、行けないかもです……。
 金曜日の夜だったら、自分も飲んでくるからいいよーとか言うんですけど。
 おのれ旦那。』
 帰宅ラッシュの電車に乗り、駅前のコンビニで夕食を買って帰ると、一日蒸された部屋をクーラーで冷ますあいだにシャワーを浴びた。ロンTとスウェットでオフモードになり、電子レンジで温めたナポリタンの大盛パスタを食べていると着信音に気づく。
 ん、と充電につなぐままスマホを手に取ると、里音さんからそんなメッセが届いていた。それを読んだ私も、おのれ旦那、と思ってしまった。
 仕方ないかといったん思ったものの、そのメッセの『金曜日の夜だったら』というところに目を留めた。金曜日の夜、もちろん私にも予定はない。というか、その翌日は土曜日だから、ある意味、普段より自由だ。そして、金曜日ならよく行くライヴハウスのどこかで何かしらイベントがあるはず、で──。
 とりあえずパスタを食べ終えて、デートの誘いみたいかなあと案じつつ、私は里音さんに金曜日の夜にふたりで食事して、ライヴでも行きませんかと送信してみた。まあ、結婚しているのなら、同性の私からの誘いを深く取ったりはしないか。
 わりとすぐ既読がついて、少し間があったあとに着信がつく。
『ほんとにいいんですか?
 ヒナさんは木曜日も行くんですよね?
 無理してないなら、私はお会いしたいです。』
 私はひとりでちょっと咲って、木曜日は自分も行きませんというのと、それなら金曜日にごはんでも食べましょうというのを送った。大きめのスプーンでデザートの焼きプリンを味わっていると、里音さんの返事が来る。
『ありがとうございます!
 旦那もいいよって言ってくれました~!』
 旦那わりとちょろかった、と思いつつ、『よかったです!』と私は入力する。
『旦那さんに、私からもありがとうとお伝えください。』
 一応、建前としてはこういう断りは入れておく。
『了解です。
 私、実はライヴハウスって行ったことないんですけど、大丈夫でしょうか?』
『あ、生ってあんまり興味ないですか?』
『いえ、機会がないだけで。
 映像見てると混雑すごそうですよね……』
『アコースティックのライヴハウスにします?
 それなら、基本着席してまったり聴く感じです。』
『あ、そのほうがいいかもです。
 けど、いつか爆音のライヴも行ってみたいです!』
『じゃあいつか行きましょうw』
『はい!w
 待ち合わせとかどうします?』
 ──そんなわけで、待ち合わせの場所や時間も決めて、私は里音さんとふたりで遊びにいくことになった。
 木曜日のオフ会も、里音さんが来るならずっとふたりで音楽の話をしていただろうし、私としては予定はさして変わらない。よし、とひとり満足してうなずくと、残っていた焼きプリンを食べながら座椅子にもたれ、楽しみだなあと脚を伸ばした。
 きっかり十日後が十四日の金曜日で、私は仕事が終わって、そのまま待ち合わせのCDショップに向かった。SNSから同じ面展をよく見ていた、例のショップだ。
『BazillusのDVD流れてるので、それ見て待ってます!』という里音さんのメッセがすでに来ていて、てことは邦楽のフロアか、と私は急ぐ。エスカレーターで邦楽フロアまでのぼり、入口の面展コーナーを覗くと、見憶えのある焦げ茶のセミロングの背中があった。
「里音さんっ」と声をかけると、はたと彼女が振り返って、「ヒナさん」と笑顔になる。
「お久しぶりです」
「お待たせしちゃって」
「いえいえ。これ観てましたから」
 里音さんはスクリーンまで展開されているBazillusの新作DVD売り場に向き直る。ホールで観客を熱狂させながら、バンドを率いてマイクに叫ぶヴォーカルの夏陽なつひが映る。
「夏陽、めっちゃかっこいいですよねー」
「ねー。昔、夏陽がインタビューで『そろそろ結婚する』って言ったとき、けっこうショックでした」
「ああ、『to be continued』の奴」と私がすぐ理解すると、その疎通が嬉しい様子で、「そうです!」と里音さんはうなずく。
「あれでメンバー全員が恋愛にぶっちゃけましたよね」
双葉ふたばの奥さんに、もともと旦那いたって話が私はなかなか……」
「不倫になる期間があったの認めてたから、少したたかれましたね。でもあれ、元旦那さんのDVから助けた感じらしいですよ」
「マジですか。確かに、義理の息子と仲いいんですよね。その子も友達とバンドやってますし。ライヴ観たことある」
「あるんですか!? 夏椰なつやれん?」
「そう、enfant terrible」
「アカウント、フォローしてます」
「はは、私もです」
「動画サイトのライヴ映像なら見たんですけど、生も観たいなあ。ベースはフェティージュの春海はるみの弟でしたっけ」
「ギターもXENONのサポートしてた悠紗ゆうさです」
「XENONかあ」と里音さんは何やら悔しそうにため息をつく。
「ネットでは公式の情報少なくて、私、まだ聴けてないんです……ファンサイトなら見つかるんですけど」
「音源、インディーズで全国流通してなかったですかね」
「え、ほんとですか」
「してたと思いますけど──まあ、私が貸せばいいですよね」
「お言葉に甘えて、お願いします」
 素直に言った里音さんに私は笑って、「何、食べましょうか」とひとまず話題を切り替えた。すると、「このへん来ると、いつも行く洋食屋さんがあって」と里音さんが言ってくれたので、私たちはそこに向かうことになった。
 意外とビル街の中に入った先にあったそのお店は、隠れ家っぽい雰囲気で、そんなに騒々しくはないのに席はほぼ埋まっていた。
 メニューもおいしそうな写真と手書き文字がお洒落で、綻びないようにラミネートされている。悩んだ挙句、私はビーフシチューに窯焼きのパンをつけて、里音さんは煮込みハンバーグとライス、そしてふたりでLサイズの生ハムサラダを取り分けることにした。
 透き通った氷が涼しげなお冷やで喉を潤し、私は里音さんに確認しておく。
「ごはんのあと、ライヴ行けそうです?」
「あ、行く気満々です」
「よかった。たまに観にいく演者さんに、取り置き頼んじゃってたので」
「え、じゃあ支払いって」
「ライヴハウスの受付のときにはらう感じです」
「よかった。一瞬、建て替えでも申し訳なかったです」
 私は咲い、スタートは十九時だったよな、とスマホのカレンダーに入れたスケジュールを確認する。
 目的の演者さんのステージは二十時過ぎとのことだったし、今が十八時で、ゆっくり二時間ある。最初から全員のステージを観る人もいるけれど、私はいつも、目的の演者さんが観れたらという感じだ。
 駅から徒歩三分のライヴハウスで、ここから歩いても十五分くらいだと思う。
 生ハムサラダがさっそく運ばれてきて、「野菜をたっぷり巻いて食べるのがよしです」と先に里音さんが見本を作って食べてみせてくれて、「なるほど」と私は真似してフォークで生野菜を生ハムに包む。
 生ハムは塩味で、しっとりした歯ごたえで、きゅうりやにんじんの細切りや、ちぎられたレタスがしゃきっと新鮮に響く。生野菜のざくざくした食感に「おいしい」と言うと、「私、野菜あんまり食べないんですけど」と里音さんは照れ咲いをこぼす。
「お肉で巻いたら食べる人です」
「お肉はパワーですから」
「ですよね」
「私も、ひとり暮らしで野菜食べる機会少ないから、助かります」
「あ、ひとり暮らしなんですか」
「ですねー。ちなみに彼氏もいません」
「えっ、じゃあ──好きな人は?」
 私は野菜をもぐもぐとしながら里音さんを見て、飲みこんでから、「いないですかね」と肩をすくめた。「そっかあ」と里音さんはくるりと生ハムで野菜をまとめる。
「でも、ヒナさんが気になってる人はいるかもしれませんしね」
 一瞬、祥汰くんのことを思い出したけれど、非表示だけでブロックはしていないのにあのあと連絡はないから、やっぱり何かに血迷って声をかけてしまったのだろうなと思う。
「里音さんは旦那さんと長いんですか?」
「長いですねえ。もともと、中学時代の同級生で」
「めっちゃ年期入ってるじゃないですか」
「いえ、中学時代はほぼ他人で。成人式で再会して、向こうが声かけてきたんです」
「ずっと好きだったとか」
「まさか。あれはあの場のノリのナンパでしたね」
「はは」
「そのとき一緒にカラオケに行ったメンバーで、また何度か遊んだりして、いつのまにかつきあいはじめてました。ちゃんとした告白とかプロポーズはなかったですね」
「そんなもんなんですか」と私が若干鼻白むと、「そんなもんです」と里音さんは苦笑する。
「朝まで一緒にいた日がなかったらつきあってなかったし、親同士が意気投合しなかったら、結婚もどうなってたか」
「えと……旦那さん、のこと──好き、ですよね?」
「好きというか、楽です。でも、子供のことあんまり考えてくれないのは見誤ったかもしれないです」
「お子さんいるんですか?」
「いないんです。それについて、ちゃんと向き合ってくれない。私は欲しかったんですけどね」
「過去形ですか」
「私、もう三十五だから。旦那が急いでくれることがなかったら、無理なのかなって」
 私はサラダを頬張り、子供なんて考えたこともないな、と思った。そもそも、パートナーができることに期待してないし、シングルマザーなんて度量もない。
 私の返事が止まってしまったせいか、里音さんは慌てた様子で「すみません」と謝った。
「まだまだこれからのヒナさんに愚痴る話題じゃないですね」
「いえ。私もそんな、これからなんて歳じゃないですよ」
「いい人に出逢ってないなら、出逢いなんていつあるか分からないものですよ」
「私は──」
 結婚はできないし、出逢いがあったって握りつぶしていくので。
 無論、そんな話は重たい気がして言わなかった。しかし本当は、里音さんとこうして食事しているのだって、結婚している彼女が距離を詰めてくることはないと思っているからで。
 特別に気に入っているから親しくしているわけでない。趣味が合うのは嬉しいけれど、それだけだ。
「──すぐに彼氏欲しいとか、考えてるわけじゃないので。しばらくは、オフ会行ったりライヴ行ったりとかです」
「そっか。そういう自由もいいですよね」
「里音さんと爆音のライヴにも行かなきゃ」
 里音さんが咲ってくれるようにそんなことを言い、私が話題を音楽のことに引き戻すと、ちょっとだけテーブルに停滞した澱みは、すぐに晴れた。やがてメインの料理も運ばれてきて、その湯気と香りに急速に空腹感を思い出す。
 とろりと濃厚なビーフシチューにも、じゃがいもやブロッコリー、ごろごろと野菜が入っていた。ぶあつい牛肉は、口の中でほろほろほどけるほど柔らかい。
 付け合わせはライスでもよかったかなと思ったものの、さすがにビーフシチューと混ぜるのは行儀悪く見えそうだし、やっぱりパンにしてよかった。
 里音さんの煮込みハンバーグもふっくらして、ナイフを入れると香ばしい肉汁があふれておいしそうだった。
 それぞれに自分のぶんをお会計したあと、「お口に合いました?」と里音さんに問われ、私は笑顔でうなずいた。ビル街のネオンが灯りはじめる中、私の笑顔にほっとした様子の里音さんに、「じゃあ、次は私が案内しますね」と私はライヴハウスに向かう道を歩き出す。
 私がときおり聴きにいく演者さんは、弾き語りながらけっこう激しめに歌う男の人なので、里音さんも聴き入っていて、音楽を生で聴くことにも感動してくれたようだった。
「ヒナさんが誰かと来るのめずらしいですね」
 イベント終演後に挨拶したとき、その演者さんに言われて、「音楽の趣味が三人とも同じだと思う」と私は笑い、物販を熱心に見ていた里音さんはCDをお買い上げしていた。
 二十二時半くらいにライヴハウスを出ると、「またごはんにもライヴにも行きましょう」と約束して駅の改札で別れ、それぞれの路線で私たちは帰路についた。
『今日はすごく楽しかったです!
 本当にありがとうございました。
 また遊んでやってください。』
 電車の中でライヴハウスに入る前にマナーモードにしておいたスマホが震え、確認すると里音さんからそんなメッセが届いていた。
 私はその返信を考えつつ入力する。
 私はこれから帰る部屋に誰もいないけど、里音さんには旦那さんが待っているんだなあと思うと、もしかして私たちは違うのかなとちらりと感じて息苦しくなった。
 里音さんとは、月に一度くらいのペースで会うようになった。別にそれをTLで隠すこともなかったので、オフ会で竜史くんや水帆さんには、「仲良さそうだねー」と揶揄われたりした。
 ただ、一度里音さんがいなかったオフ会のとき、「ヒナちゃん、女の子も好きになるんだよね」と水帆さんに言われた。「なったことはあるけど、つきあった経験はないですよ」と首をかしげると、「いや、里音ちゃんが結婚してるのは憶えときなってお節介を言いたくなった」と水帆さんはややばつが悪そうにする。私は思わず噴き出して、「それは大丈夫ですよ」とにっこりした。
 だって、私は誰とも一線は越えない。結婚できないから、パートナーにしないから、相手をぬか喜びさせないために、恋愛も始めない。里音さんもまた、結婚していて、そんな出逢いは求めていない。
 私たちは、あきらめた者同士で仲良くなっているだけだ。

第三話へ

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