私とサトは駅まで走って急いだけれど、スマホで乗り換えをチェックしたサトが、「ダメだ、もう乗り換えが間に合わない」とつぶやいた。
私は最寄りまで一本だからまだ間に合う。「旦那に車で迎えにきてもらうしかないかあ」とサトはまだはずんでいる息を白く染める。私も胸を抑えて呼吸を鎮めながら、少し考え、「私の部屋に泊まっていってもいいけど」と提案してみた。
「えっ、でも──」
「……ごめん、旦那さんがダメって言うか」
「いや、旦那、ヒナのことは信頼するようになってるから、もしかしてOKかも」
「ほんと?」
「ここまで迎えに来るの、旦那も面倒だろうし。ちょっと訊いてみるね」
サトはスマホを取り出し、旦那に通話をかけて耳にあてた。さいわいすぐ出てくれたようで、サトの説明を聞いた旦那は、意外にも『ゆっくり泊まっていけば』と言ってくれたらしい。
というのも、旦那は旦那でもうお酒が入っていて、どのみち運転できないのだそうだ。スマホをバッグにしまい、「ほんとに私、お邪魔していい?」とサトは遠慮を見せたけど、「別にやましいものはないから」と私は笑う。
物販を買いあさって、タクシー代にも余裕がないのは訊かなくても分かる。かくして、私たちは一緒の電車で、私の住む町へと向かった。
私の最寄り駅を出ると、駅前のコンビニでスイーツとドリンクを買って、ふたりで部屋に到着した。サトは物珍しそうに私の部屋を見まわし、壁際の棚に並ぶ大量のCDには目をみはっていた。
私は暖房を入れ、コートやマフラーを脱いでクローゼットにしまう。サトの赤いコートもハンガーにかけ、ガラス戸のレーテンレールに下げておいた。
とりあえず手洗いを済まし、テレビをつけて雑音を作ると、私たちはそれぞれ買ったスイーツを食べる。私は抹茶のスティックケーキ、サトはシンプルなエクレアだ。
「眠い?」と訊くと「そんなに」とサトが答えたので、私は何枚かCDを選んで「興味ある奴かけよう」と床に並べた。サトは目をきらきらさせながら悩んだものの、「XENONがある」と目敏く見つけたら、興味が一気にそのアルバムにかたむいたようだ。私はいまどき持っているコンポにヘッドホンをつなぎ、テレビの音を絞ると、サトにXENONの音楽を味わってもらった。
そのあいだに私はシャワーを浴びて、もこもこあったかいルームウェアで身を包む。私が戻ってきたのに気づいたサトは、微笑んでヘッドホンをずらし、「かわいい」と言った。
「機能性です」と私は答え、サトにもシャワーを勧める。「着替えは貸すから」と言うと、「じゃあ、甘えちゃうね」とサトもシャワーを浴びにいった。
そのあいだに私は座椅子を部屋の中央からずらした。敷きぶとんはないけれど、フローリング剥き出しでなく、ホットカーペットがあるからいいか。ふとんはサトに貸して、私は着る毛布に包まろう。
そんなふうに就寝の準備をしていると、サトが私のロンTと緩めのレギンスを着て帰ってきた。
「もう寝るの?」
「眠くない?」
「あんまり。ライヴハウスの音でくらくらしてる」
「じゃあ、サトが眠くなるまでお話でもしてますか」
「ヒナが眠いなら」
「私はもう、明日もその次も休みだし。つきあえるよ」
「ありがと。ヒナは優しいなー」
私は少し咲って、「カーペットあったかいから」と床をしめす。サトは素直に座りこみ、「ほんとだー。幸せ」とごろんと仰向けになる。私は着る毛布をまとって、「ふとん使っていいよ」にサトにふとんをかけた。
「ヒナは?」
「着る毛布あったかいから」
「いや、明け方とか寒いでしょ。一緒にふとん入ろ」
「いいの?」
「うん」
そんなわけで、明かりを消してから、私はサトと同じふとんにもぐりこんだ。ホットカーペットもほかほか温かいけれど、それだけじゃない、サトの体温が伝わってくる。
「サト」
「ん?」
「旦那さんに、ほんとに怒られたりしない?」
「え、大丈夫だよ」
「泊まることになったの、急だから」
「平気平気。あっちもそこそこ、自由なもんだから」
「……そっか」
何、だろう。信頼なのかな。
少しだけ、うらやましいと感じる。それは、ふたりの関係がだろうか、あるいは、サトをつかまえている旦那さんがだろうか。
もし旦那さんが、今サトのスマホに連絡を入れてきて、『やっぱり帰ってきて』と言ったら、サトは帰っちゃうのかな。
暗闇に慣れてきた目で、私はサトの横顔を見つめる。やだな、と思った。今夜はそばにいてほしい。帰らないでほしい。誰が何と言おうと、今夜は私と一緒にいてほしい。
私の視線に気づいたのか、サトもこちらを見て微笑んでくれる。
「どうしたの?」
「……えっ」
「何か泣きそう」
「………、幸せだね」
「え」
「サトがいる、旦那さんは」
サトは私の瞳をじっと見つめてきて、「今はヒナといる」とそっと頬に触れてきた。どきんとした私の頬を、サトは笑って軽くつねった。そうされると、私も思わず笑ってしまう。
「ねえ、ヒナ」
「うん」
「恋バナでもしようか」
「恋バナって歳かな」
「まあ、いいじゃない」
「というか、サトは二十歳から旦那さんなんでしょ」
「学生時代にも恋したよ」
「へえ」
「女子高だったんだよね、私」
「女子高」
「すごく、好きになった人がいて」
「………」
「先輩だったんだ」
私がまじろいだのは、さすがに暗闇では見えなかったと思う。けど、サトはそのまま言葉を止めてしまった。だから、小さく息を飲みこんで、私が会話をつなぐ。
「……女の人だったってこと?」
テレビも消して雑音のない部屋に、サトの身じろぎが響く。そして、ゆっくりと吐き出すように言う。
「うん。そう」
「そっ、か……。つきあったの?」
「仲良くはしてもらったけど、先輩、大学生の彼氏いたから」
私は闇の中に光るサトの瞳の潤いを見つめる。サトはこちらに首をかしげ、静かに問うてくる。
「気持ち悪い?」
私はかぶりを振って、「私も、女の子好きになったことあるよ」と答えた。
「ほんと?」
「つきあったわけじゃなくて、片想いだけどね」
「学生のとき?」
「二十代のとき。職場のそばのカフェでバイトしてたっぽい子」
「告白した?」
「してないけど、連絡先訊いたら断られた」
「つらいね」
「うん……。いつのまにかいなくなってて、辞めちゃったのかって気づいたときは、私が悪かったのかなあとか思った」
私は当時のことを想い、もう彼女の顔も声も思い出せないのに、「好きだったなあ」とつぶやいた。
しばし沈黙が流れ、「ヒナはいい子だよ」と不意に言ったサトが、ふとんの中で私の手を取ってきゅっと握ってきた。心臓が揺れる。その手の温もりを嬉しいと感じてしまう。
私はその手を握り返すと、ダメだ、と思ったのと同時に、引っ張ってサトを抱きしめていた。
「……ヒナ」
サトの壊れそうな声がした。私はその顔を覗きこむと、その柔らかい唇にキスをしていた。サトは肩を少しこわばらせたけど、抵抗はしない。私は触れただけの唇を離すと、もう一度サトをぎゅっと腕に抱いた。
どうしよう。サトとキスできて、嬉しかった。ふわっと幸せを感じた。長らく感じたことのなかった感覚。好きになった人に優しくされたときにあった、あの甘い感覚。
……あれ。
私、もしかして、サトを好きになってる?
いや、でも、サトは結婚している。水帆さんにも忠告された。あのとき、私はサトにそういう興味はない、結婚しているサトも私に近づいてこないから仲良くできるのだと思った。
でも、サトと過ごした時間が重なっていくほど、その想い出が心の中で宝物として降り積もっていく。
サトが私の背中に腕をまわし、しがみついてくる。いつものシトラスの匂いはしなくて、私と同じシャンプーとボディソープの香りがした。その軆の感触は温かく、ごつごつした男と違う。
「私、女の子としたことないけど、ヒナならいいかなって思うよ」
「サト……」
「それでヒナにもっと近づけるなら」
「私……は、」
「ヒナは、私に触りたくない?」
私は噛んだ唇をこわごわほどくと、もう一度、サトにキスをした。ついで、ロンTの中に手を忍びこませる。なめらかな肌。腰の曲線。柔らかい感触。小さく吐息をこぼし、「我慢しないよ?」とサトの耳元でささやいた。サトは濡れた瞳でうなずく。
その夜、私はサトと軆を重ねた。
結婚はできない。だから恋愛もしない。最後の片想いがいつだったか憶えていないし、わざわざ思い出すこともない。
そう思ってきた。でも私は、いつぶりかの恋が心に咲いて根づいていくのを、鼓動の中に確かに感じ取っていた。
ごはんを食べるとき。ライヴを観るとき。そして、私の部屋で過ごすときが、サトとの時間に加わるようになった。
一緒にふとんにもぐりこんで、触れあって絡みあい、キスを交わす。お互いを指先で刺激して、軆の奥が蕩けて濡れてくると、私がサトの脚のあいだに口づけて指で体内をほぐす。サトの甘い声を聞きながら、私も自分の核を指でいじって、愛液を内腿にしたたらせる。
最初は女同士のやり方なんて分からなかったから、ふたりでAVのストリーミングを購入して観たりもしていた。けれど、百合作品はたいていディルドやペニスバンドが登場して、「別にこういうのじゃないよねえ」と一緒に苦笑してしまった。だから、結局軆に触れて気持ちいいことをひとつずつ見つけていって、それが私とサトのセックスになった。
分かっている。サトは結婚している。たぶん私のために離婚することもないだろう。でも、それでもいいと思ってしまう自分がいる。サトのそばにいたい。寄り添い合って、手をつないで、一分でも長く一緒にいたい。
愛しあったあとも、一緒に浴室でシャワーを浴びる。ボディソープで洗いっこしたり、相手の髪をシャンプーしたり。お風呂上がりも、髪を乾かしあったら、お互いの軆にもたれて甘えてくっついている。視線が絡むと、自然と笑みをこぼしてしまう。
ずっと、このままでいられるかな。そんな、綿菓子みたいにふわふわした夢見がちなことも考える。
でも、サトは私のパートナーにはなれない。サトのパートナーは、どうしたって旦那だ。もし旦那がいなかったら? 私、サトとならパートナーとして、未来を約束していたのかな。
そんなふうに考える自分にちょっと驚く。本当に私は、結婚もパートナーもあきらめていたのだ。出逢いだってないと思っていた。
サトにいつか言われたっけ。出逢ってないなら、いつ出逢いがあるか分からない。ほんとにそうだ。サトのことなら、私は引いてきた一線の内側に招ける。招きたいと思う。
もちろんサトは、その一線を越えてくれないだろう。旦那がいる限り、サトは私を最優先には選ばない。私のことを見て、と割りこもうとしても、きっと私がそうやってふたりの領域を冒そうとしたら、サトは私のことなんか──
三月になって、緩やかに陽光が春めいてきた。昨夜は仕事が終わって、サトと落ち合うと、私の部屋でじゃれあって過ごした。サトは終電ぎりぎりの時間に帰っていった。
泊まってくれることはない。私は本当は泊まっていってもらって、もっともっと時間を共有したい。でも、そんな欲張りを口にしたらサトを困らせるから、黙って笑顔を作り、駅まで見送る。
帰り道、夜風はまだひんやりしているなと思いながら歩いた。部屋に着くと倒した座椅子にひとりで横たわり、ぼんやり、サトを想っているうちに眠ってしまった。
朝、カーテン越しの朝陽がきらきらしているのを見つめ、ひとりで朝を迎えるって孤独だなあなんて感じた。
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