恋にならない-5

 その日も十七時の終業まで働き、お茶や飲みに誘われる前に職場をあとにする。まっすぐ最寄り駅まで帰ってきて、コンビニで夕食だけ買い、アパートにたどりつく。バッグから鍵を取り出しながら、一階の自分の部屋のドアを見て、足が止まりかけた。
 私の部屋の前にうずくまっている人がいる。去年の夏より伸びた焦げ茶の髪。「サト?」と声をかけると、案の定、顔を上げたのはサトだった。
「……ヒナ」
「どうしたの。え、今日は──」
 私が言い終わる前に、サトは表情をゆがませて涙を落としはじめた。私は慌ててサトに駆け寄り、「とりあえず部屋入ろ?」と優しく声をかける。サトはこくこくとうなずき、私にすがるようにしながら立ち上がった。
 鍵を開けてドアの中に入ると、サトは私の背中にぎゅっと抱きついてきた。私の服を握りしめる心細い手を見て、「どのぐらい待ってたの?」と訊いてみる。すると「お昼から」と返ってきたので、びっくりしてしまう。
「連絡くれたら、早退とかしてきたのに」
「……迷惑でしょ」
「そんなことないよ。ずっと待たせてるほうが心配だよ」
 あんまり身長が変わらないサトは、私の肩に顔を伏せ、そこを涙で湿らせていく。
 私はサトの手に手を重ね、「何かあったの?」と問うてみた。サトは迷子だった子供みたいに、私の軆にさらにしがみつく。
「まーくんが」
「えっ?」
「あ……、旦那が」
「あ、……旦那、さん」
 思わず、どきりとした。サトはいつも私の前では、旦那のことは「旦那」としか呼ばなかったから。
「何か、怒った」
「怒っ……た」
「最近、外で遊びすぎじゃないかって」
「………」
「そんなんじゃ、母親にはなれないって」
 少し肩を揺らすと、サトの手が私の手をつかむ。
「もう、遅いよ……って、言った。そしたら、どういう意味だとか、会ってるのは男なんじゃないかとか」
「サト──」
「いまさら、何だっていうの。子供のこと、ずっとまじめになってくれなかったのはまーくんのほうじゃない。それを引き合いに出して、私のこと、自分のものみたいに。今まで、私の心も軆も、大事にしてくれなかったのはまーくんじゃん」
「……うん」
「それに、まーくんだって遊んでたんだよ? 結婚前に、けっこう浮気してたの、私、ほんとは知ってるし」
「旦那、……さん、浮気してたの?」
「してた。私の友達と寝たのも知ってる」
 暗くて深い森の中みたいに、心臓がざわざわしてくる。
 旦那のこと、鬱陶しいなあとは感じていたけど。そんな男だとは思っていなかった。思っていなかったから、私はサトへのわがままを我慢できていたのに。
「まーくんのこと、何度も嫌いだって思った。でもやっぱり、それより私のことたくさん知ってくれてるほうが大きくて。だから一緒に暮らすのも楽だと思って、結婚もした」
 前にも、それは言っていたっけ。けれど、そこまで妥協したのは初めて聞いた。
「私、間違えたんだ。ちゃんとどきどきして、こんな私を知られたらどうしようって思いながらでも、好きな人と結婚すればよかった」
 落ち着かない動悸の中で、「好きな人……いたの?」と震えそうな声で訊いた。サトは少しだけ黙ってから、「……いたよ」と答える。
 なぜか、みぞおちがきゅっと絞られるように痛む。
「そいつとは別れて、俺と結婚しようって言ってくれてた。何で断ったんだろう。バカみたい」
「その人とは、……した?」
 そんなこと訊いてどうするの。我ながら思った。訊かなくても、分かりきっているじゃない。
 サトはしばらく反応しなかったけど、やはり、小さくうなずいた。私はとっさに唇を噛む。噛まないと、いらないことを言いそうだった。
 私は提げたままだったバッグを玄関に投げ、右肩を見ると「サト」と穏やかな声で呼んだ。サトがゆっくり顔を上げる。赤くなった瞳がゆらゆら濡れている。
 言わなくても、サトが私にしがみつく腕を緩めたので、私は軆を動かしてサトを正面から抱きしめた。サトはまた私に抱きついて、「ヒナ」と何度も私のことを呼ぶ。私は丁重に深呼吸して、サトのさらさらした髪を撫でた。
「ヒナ……」
「ん」
「……ヒナは優しいね」
「そう、かな」
「………、私、ヒナと──」
 息をすくめ、言われる前にサトの唇をふさいだ。言葉の代わりに、飢えるような舌でその想いは伝わってきた。でも、やっぱり、言葉にされるよりはマシだ。
 ヒナと結婚したい、とか言われたら。止まらなくなってしまう。だって好きだから。サトのことが本当に好きだから。今、このままめちゃくちゃにしたいくらい好きなんだ。
 サトは知らないだろうけど、私は起きたら一番最初にサトのことを考えるし、サトにもらった言葉や手をつないだときの感触を噛みしめながら、毎日眠りに落ちてるんだよ。
 そっと唇をちぎると、唾液がすうっと糸を引き、ぷつんと切れる。至近距離で瞳が触れあう。
「……ちゃんと、」
 そう言いながら、私は静かにまぶたで視線もちぎった。
「話しあわないとね」
「え……」
「旦那さんと」
「どういう……意味?」
「仲直りしなさい、って意味」
「ヒナ」とサトは私の服をつかんだ。その手の甲を包み、私はできるだけ物柔らかに言う。
「お茶飲んであったまったら、帰ったほうがいい」
「今はヒナといたい」
「私、サトにひどいことするよ?」
「ヒナなら私に何してもいいよ、だから──」
「私のほうが、よっぽどサトを束縛するんだから」
「ヒナ……」
「旦那さんのところに帰りなさい」
 サトの瞳から、再び大粒の雫が生まれてこぼれおちていく。私は今度は乱暴にならないよう、そっとサトを抱き寄せ、嗚咽が落ち着くまでその頭を撫でていた。
 そして、少しひくつくくらいになると、サトは自分からゆっくり軆を離す。
「……ヒナ」
「ん?」
「ごめん、ね」
「ううん」
「私のこと、嫌いにならないで」
「大好きだよ」
 ああ、何でかな。大好き。その言葉は罪深いほど嘘ではないのに、清らかなくらい大嘘だ。
 好き。サトが大好き。……間違いなく本当なのに、絶対的に嘘。
 サトもそれは感じ取ったのか、哀しそうに微笑んだ。「私もヒナが大好き」とつぶやくと、顔を伏せて、「帰るね」とサトは言った。私はうなずき、「駅まで送る?」と尋ねた。サトは首を横に振り、「大丈夫」と言ってから、もう一度私を見た。
「私たち、また会えるよね」
「もちろん」
「一緒に遊べるよね」
「うん」
「変わらないよね」
「大丈夫だよ」
 サトはまだ言葉を続けたかったようだけど、何とかこらえた様子で、「じゃあ」とドアノブに手をかけた。鍵もかけずにいたから、そのままドアは開く。
 私はぎゅっとこぶしを握り、サトの手を取って引き止めないように努める。
「またね」とサトの声と、ばたん……とドアの閉まる音を聞いてから、私は顔を上げて、やっと涙をぽたぽたあふれさせた。
 バカみたい。本当だ。何でサトの手を取らなかったのかな。「好き」って言わなかったのかな。この部屋に引き止めて、「もうどこにも行かないで」って怖い目をして脅さなかったのかな。
 どうして、一線を越えられなかったのかな。
 夜になって、サトからメッセが届いた。旦那とは仲直りしたらしかった。旦那はサトの好きなモンブランを買って帰ってきたそうだ。たぶん、旦那のそういうところが、サトの言っていた「私を知っている」というところなのだろうと思った。
 そして、そのときになって思った。何で仲直りするの? 壊れちゃえばよかったのに。そしたら、私がサトを──
 サトは、もう私に会ってくれないかもしれない。なぜだかそんな不安を抱いていたけど、淡いピンク色の桜が満開になった四月、サトは私にまた会ってくれた。
 ごはんを食べて、私の部屋に来て、セックスもしてくれた。いつも通りに、当たり前に、何事もなかったように──。
 そんな無意識に、お互いぜんぜんリラックスできず、息遣いさえ緊張していた。私もサトもなかなか快感に集中できなくて、そのうち、サトは泣き出してしまった。
「……サト、」
 ごめん、となぜだか謝りそうになった私に、「ヒナは」とサトは手で顔を覆うまま言ってくる。
「まだ、好きな人、いないの?」
「えっ」
「私、紹介してもいいよ?」
「な……に、言ってるの」
「旦那の友達とか、いい男の子知ってるよ」
「サト──」
「だってこのままじゃ、私、……ヒナのこと」
 手のひらをこぼれたサトの涙が、きらきら光っていた。夕暮れだったのがいつしか夜に染まり、レースカーテンのままのガラス戸の向こうで月が輝いている。服も着ないふとんの中で、しばらく、沈黙が流れた。
 胸の奥から何かがふくれあがっていく。ダメ。抑えなきゃ。そう思っても、どんどん衝動は腫れあがって、痛みさえ感じる気がしてくる。
 どうして、一線を越えられなかったのかな。
 先月のあの疑問がちりっと心を焦がしたとき、私は強くサトの肩をつかんでいた。
「好きになっていいよ」
「え……っ」
「だって、私はサトのことが好きだよ」
 ぱたり、とサトの手が落ちて、私たちは瞳を突き刺しあった。
 今度こそ、嘘でも何でもない「好き」だった。そう、私はサトが好き。旦那の元には返したくない。毎日だって会いたい。一緒に暮らしたい。
 私は──
「サトと、結婚したいよ……」
 サトが、私の瞳を自分の瞳に焼きながら、震える。
 ──ああ、やっぱり私、サトにひどいことしちゃったな。それを理解しながらも、言葉はどうしても止まらない。
「昔の自分より今の自分が好きとか、私、そういうのよく分からないと思ってきたけど、今、私はサトと一緒にいる自分が好きだよ。サトの隣にいると、そう思うよ。サトが──」
「私は」
 サトのこわばっているけど強い口調にはっとして、何だかわけの分からないことを言っていた自分に気づく。
「私は、それに応えられないのに」
「っ……」
「ねえ、ヒナにはちゃんといい人がいるよ。私なんかより。だから、私はヒナの前から消えなきゃいけない」
「サト──」
「私たち、これ以上一緒にいられない気がする」
 私は息を吐いた。我慢できず、ゆがんだ視界を飽和させて涙を流してしまう。
 何だろう。
 やっぱり、って感じた。
 最初から、いつか言われる気がしていた。今日、そう言われるのは分かっていた。
 だって、サトは優しいから。……ずるいから。
 絶対、私から逃げていくって──知っていた。
 私はうつぶせになって、「帰って」と涙声でどうにか言った。「ヒナ」と肩甲骨に触れかけた指の微熱を嫌がった。「帰ってよ」ともう一度、次ははっきり言うと、サトは黙って起き上がり、のろのろと服を着て、何も言わずに私の部屋を出ていった。
 一週間、サトと連絡を取らなかった。連絡先を交換して、たったそれだけのあいださえ、空いたのは初めてだった。
 私は依存症みたいにスマホを手放せなくて、しょっちゅう通知を確認した。サトからは何も来ない。ほんとに、このまま何も来ないのかな。
 SNSにもお互い浮上しなかった。結局、本当に途切れてしまうのが怖くなったのは私だった。
『また、ごはん行ける?』
 ずいぶん既読がつかなかったのち、やっと来た返事は『そうだね、今度。』だった。
『サトの都合のいいときでいいよ。』
『うん。ありがと。』
『私、夜はいつもヒマだから。』
『旦那がいいって言ったらね。』
 ああ、避けられてるなあ。それをひしひしと感じるほど、私はバカみたいにメッセを送ってしまう。でもサトの返事はつれなくて、そのうち、いちいち返信をつけてくれることも減ってきた。
 どうしよう。このまま私はサトを失ってしまうの? どうしたらいい? どんな言葉がサトをつなぎとめるの?
 誰か教えて。──誰かって誰?
 私にそんな友人はいない。相談できる人なんていない。誰とも一線を置いてきた。何でも話せる、それほどの人なんてサト以外にいない。サトのほかに、私には誰もいない……。

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