romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

雪の果て-1

 仕事から帰ってくると、ワンルームの真ん中にまずふとんを敷いて、しばらくくたばる。
 コンタクトもそのまま、化粧を落とさないどころか、着替えさえしない。そんな余力もない。三十分ぐらい、本当に死体みたいにぴくりともしない。
 それから、のろのろと腕を動かしてバッグをたぐりよせ、スマホを目の前に持ってくる。
『帰宅しました』
 職場のグループにこう書きこむのも、仕事のうちだった。
 モール内のキャラクターショップ、閉店後も仕事があって帰宅が遅くなることも多いのに、スタッフは女子ばかりだ。社員兼店長も女性なのだけど、昇格前のバイト時代、仕事上がりの夜道で見知らぬ男に追いかけられたことがあるらしい。
 だから、部下の私たちスタッフの身も案じて、家に着いたらグループにひと言『帰宅した』と書きこんでほしい、みんなの帰宅を確認して自分はタクシーで帰るから、と強く言っている。
 私は構わないというかありがたいけど、「そのまま彼氏に会うときとか面倒だよねえ」と言う若いスタッフもいる。その場合は、『彼氏と合流』と書けばいいのではと思うけど、そしたら彼氏のいない一部スタッフが不機嫌になるのだ。
 店長の提案は厚意だし、そこまでぴりぴりしなくてもいいのにと思う私も彼氏はいないけど。
 最後に彼氏がいたのは二十七歳のときで、三年前だ。彼の部屋に行くことが増えてきた頃、彼の態度がもどかしい期間があって、突然「何で、俺のベッドに勝手に座るんだよ」と言われた。
 一瞬、わけが分からなかった。
 彼曰く、外から帰宅して着替えないどころか、クッションもはさまずにベッドに踏みこまれるのが、めちゃくちゃ嫌だったらしい。結婚も意識していたぶん、帰宅したらそのまましばらく死亡する私は、決定的に合わないと思って別れた。
 そのまま、次の男を捕まえる余裕もなく、年明けに三十になった。
『ただいま。今日も疲れた』
 グループを閉じると、SNSを開いてつぶやく。病みアカではないけど、何となくそんなことをつぶやいてしまうのは、少ないフォロワーが『お疲れー』というリプやいいねを投げてくれるからだ。
『もうすぐ零時だよ。今帰ったの?』
 中でも、この刹那せつなという名前のフォロワーは優しい。『うん、今帰宅』とリプを返すと、『一音いちねはいつも遅いから心配だよ』と刹那は応える。たぶん男なので、こいつの彼女は幸せだろうなとか思いつつ、『ありがと、気をつけて帰ってるから大丈夫だよ』と応じる。
 しばらく刹那と文字で会話したあと、私は起き上がった。ふらふらとユニットバスに向かい、シャワーを浴びて化粧を落とし、眼鏡になって着替えも済ます。ほんと今日も疲れた、とあくびをして、レンチンのナポリタンを食べて、テレビをつけて午前三時くらいまで深夜アニメをたしなむ。
 寝る前、気が向いて『もう寝よう』とかつぶやくと、刹那から『おやすみ』とリプが来ることもある。私はそれにいいねを返し、部屋の明かりを落として眠りにつく。
 起きるのは七時で、十時の開店に備えて九時までにはタイムカードを切る。午前中から昼下がりは、わりとゆったりしている。
 学校が終わる時間になると、小学生から高校生まで女の子のお客さんがひしめく。会計、品出し、陳列、また会計。めまぐるしく働いていると、閉店はすぐだ。
 ディスプレイの変更をしたり、セール品のPOPを作ったり、値段をタグに打っていったり──そんなこんなで、お店を出るのが二十二時を過ぎるので、店長が心配するのもおかしくはない時刻になる。
 とはいえ、三十女を襲う奴もいないと思うんだよね。内心では、そんなたかをくくっていた。
 その日も二十二時半に仕事を上がり、徒歩で帰れる圏内のアパートへの夜道を歩いていた。駅前を離れて住宅街に入ると、あたりはぐっと暗くなる。一月下旬、息が真っ白になって、吹きつける風が指先の感覚を奪っていく。
 やっとアパートへの一本道に入って、速足になったときだった。すれ違いざまの男が、突然「ねえ、こんな時間に危ないよ?」と声をかけてきた。黙ってすれちがえばよかったのだ。なのに、私は怪訝に眉を寄せて、「もう部屋なんで」なんて答えてしまった。
 そしたら、男が腕をつかんでこようとしたから、初めてびくっと目を見開く。
「何ですか?」
「部屋まで送ってあげるよ」
「は?」
「女の子ひとりじゃ危ないし」
「えっ……いや、別に、」
「部屋どこ? ついていくから」
 あ。やば。
 この寒さのせいでなく、内側から、背筋がさーっと凍てついた。私はやっと口を閉じ、つかつかと歩き出した。すると、男は隣に並んで、まだ何か言ってくる。
 何だよ。お前みたいのが、まさに危ないんだよ。どうしよう。このまま部屋には行けない。警察か。このへんに交番あったっけ。いや、110番すればいいや。
 私はスマホを取り出すと、「警察呼びます」と本当に電話をかけようとした。
 途端、男は舌打ちして並行する足を止め、逆方向へと離れていった。安全か振り返ろうとしたけど、やめておき、画面が点燈したスマホで店長に電話をかけた。すぐつながって、『どうしたの?』と言った声に男のことを話した。
 店長は、急いで部屋に帰り、あとからでも警察に言ったほうがいいとまくしたてた。私が部屋に着くまで電話を切らずにいてくれて、私は無事に帰宅できた。『ごめんね、残業今日も多かったもんね』と謝る店長に、「電話できて助かりました。もう大丈夫です」と私は答える。店長は自分のことを思い出したのか、ちょっと涙声になりながら、明日は出勤を無理しなくていいと言って、私たちは電話を切った。
 部屋の鍵とチェーンをもう一度確認して、ふとんを敷いて転がると、「うわーっ」と私はいまさら鳥肌を立ててぞっとした。
 暗くて私の年齢なんか関係なかったんだろうけど、それでも、あんなことほんとにあるんだな。店長が心配するはずだ。今日はスマホで身を守れたけど、気をつけて防犯ブザーくらい用意しようかな。
 部屋が静かだと物音にびくりとしてしまうので、テレビをつけておいた。まだアニメはやっていなくて、チャンネルはニュースかバラエティだ。
 ふとんで死亡する時間が終了し、シャワーを浴びても、何も食べる気がしない。熱いコーヒーだけ用意し、湯気の香りを嗅ぎながらそれをすすった。
 眠れるかなあ、と名残る恐怖感と嫌悪感に不安になっていると、ミニテーブルに置いていたスマホが鳴った。
 ん、と手に取ってみると、SNSのDMだった。刹那からだ。『まだ仕事?』という短い内容で、ああ、と日課の帰宅報告をしていなかったことに気がつく。
『ごめん、いろいろあってつぶやいてる余裕なかった』
『そうなんだ。ごめん、昼休みのツイはあったから心配になって』
『いいよ、ありがとう。嬉しいよ』
 私はコーヒーを飲んで、これで会話が途切れるのが何だか寂しいような、変な気分になった。だから、つい『帰宅中に変な男に絡まれちゃって』とか送信してしまった。しばらく間があったあと、『は⁉ やばいじゃん』と反応が来る。
『一応、警察に届けたほうがいいのかな』
『どうだろ。警察あんまり頼りにならないから』
『明日、防犯ブザーは買おうかな』
『ブザーとかぬるいって。スタンガンでいいよ』
『どこに売ってるか分かんないって』
『頭おかしいのナメたらダメだよ』
 スタンガンねえ、とネットショップで検索しようとしたら、『俺スタンガン持ってるけど、使わないからあげようか?』と刹那のDMが続いた。
『刹那、スタンガンなんて持ってるの?』
『うん』
 男だよね、と続けようとしたものの、何だかそれは、男は痴漢に遭わないと言っているようなのでやめておく。
『刹那は使わなくていいの?』
『俺は何とかなるよ』
『じゃあ、譲ってもらおうかな』
『スタンガンって、郵送とかOKなのかな? 武器だし、直接渡したほうがいいかも』
『私、明日仕事休むと思うから、少し遠出もできるよ』
『じゃあ、明日オフしよう』
『刹那は仕事いいの?』
『平気だよ。どこで待ち合わせる?』
 プロフ情報で、刹那が隣県に住んでいるのは知っている。私が市街地の駅を指定すると、『分かった、行けると思う』と返ってきた。
 そんなやりとりを見返してから、実はさっきの男が刹那でした、なんて──とちらりと思った。ないと思うけど、少し、一応、警戒しておこう。
『眠れないみたいだったら、いつでも連絡して。相手するから』
 刹那の言葉にほっとして、『ありがと。そうだったらDMするね』と送る。それで会話は終了し、いつのまにかテレビではアニメが始まっていた。
 私はぬるくなったコーヒーを飲みほし、そういや刹那に彼女がいるのかを確認しておくの忘れたなと思った。別にデートではないから大丈夫か。
 歯を磨き、カップを洗って水切りに並べると、何となく非常燈を残してふとんにもぐりこんだ。
 翌日、朝一で店長にやはり今日は休むと伝えておいた。そして、あまり勘違いされないようにおしゃれはひかえ、シンプルな黒のニットワンピースにキャラメル色のコートを羽織って、昼前に部屋を出た。
 化粧はしたけど、コンタクトでなく眼鏡にした。眼鏡の何が悪いとは言わないけど、たぶん、これでデートという雰囲気にはならないはずだ。
 待ち合わせは十三時だから、少し急ごう。職場である駅前のモールの前はささっと走り抜け、駅構内の改札を抜けてホームに出る。市街地は少し久しぶりだなあと思いつつ、快速で目的の駅まで一本で到着した。
 例のベッドの件で別れた彼氏と、よく待ち合わせたのが北口だったので、変に迷わないように、今日の待ち合わせもそこにしておいた。
 やっぱり多少どきどきしつつ、私は刹那にコートの色と眼鏡のことをDMで伝えた。『もう着いてる?』と訊くと、『俺は紫のパーカーにジーンズだよ』と返ってくる。私が周りを見渡そうとしたとき、「あ、一音でしょ?」と声がかかる。
 思わず眉間に皺が寄った。「一音」は私のハンネで間違いない。しかし、この声──まさか女の子、と思いながらばっと振り返る。
 そこにいたのは、女の子じゃなかった。何なら、男の人でもなかった。まだ声変わりもしていない、小学生ぐらいの男の子だったのだ。
「は……? 刹那……?」
「刹那だよ。わー、一音けっこう大人だねえ」
「……君、いくつ?」
「十一! 小六!」
 私は、無言で改札に引き返そうとした。「えっ。何、どっか行くの?」と刹那はついてきて、私は深呼吸したあと、立ち止まって彼と向かい合い直す。
「今すぐ家に帰りなさい」
「え、何で」
「何でもいいから、帰りなさい」
「でも、お茶とかしたい……あ、スタンガン持ってきたよ」
 なるほど、刹那はかなり美少年だった。ちょっと作り物じみて感じるほど顔立ちは整い、だぶっとしたパーカーでも分かるほど、軆の線も細い。
 これなら確かに、親あたりがスタンガンでも何でも持たせて、変質者から守ろうとするだろう。というか、実際、私よりこの子のほうが明らかにスタンガンが必要だ。
「スタンガンは持っておきなさい」
「でも、俺いらな……」
「いらないと思ってるうちが華なんだよ。襲われてからじゃ遅い」
 刹那は開こうとした斜めがけのバッグを、むすっとした表情で閉じる。私は冷静になるためにふーっと息をついてから、子供とはいえ「ごめん」とは真摯に伝えた。
「そういや、君の年齢確認してなかった私も悪い。ほんとにごめん。とりあえず、今日私に会ったのはなかったことにして」
「何で? 俺、楽しみにして来たのに」
「それも謝る。でも、私は君とは一緒に歩けないから」
「どうして? 子供ってかっこ悪い?」
「かっこ悪いんじゃなくて、道徳的、倫理的にだな」
「道徳の授業は嫌い」
「授業! 三十路女にはもう遠い言葉なんだよ、それは。分かる?」
「よく分かんない」
「とにかく──あ、交通費は私が返すよ。いくらかかった?」
「………」
「一万円で足りる?」
「……変なの」
「は?」
「何もしてないうちから、金くれるとか」
 私が怪訝な表情をすると、「交通費とかいいから、何かおごってよ」と刹那はしゅるりと私の腕に腕を絡める。

第二話へ

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