Koromo Tsukinoha Novels
「私、お金もあげなかったんだよなあ」
永衣くんは顔を上げ、「聞きました」と初めて微笑んだ。
「それでも、一音さんと会った日はすごく楽しかったって、刹那は嬉しそうで。自分が汚れてるから嫌われちゃったって言ってましたけど」
「刹那が汚れてるとは思わないよ。汚れてんのは手出しする大人でしょ。私が理解できないのは、刹那じゃなくて、そういう大人のほうだよ」
「刹那のこと、嫌いになってないですか?」
「嫌う理由がないよ。刹那がそこまでしないと生きていけないのは、私もつらい」
私の言葉に永衣くんはややまじめな面持ちになり、「一音さんは刹那のそばにいてあげてください」と言った。
「えっ」
「それだけで、きっと刹那は嬉しいと思うから」
「そばに……って言っても、私が刹那といるのもなかなか──」
はたから見ると怪しいんだよ、と言おうとしたときだった。
突然、玄関のほうからドアを激しくたたく音がした。唐突すぎて心臓が跳ね上がる。私にもたれて力を抜いていた刹那も、びくんと身をこわばらせて目を見開く。
私は玄関のほうを見返って、不穏が血みたいに胸に広がるのを感じた。
「こんな時間にも来るの?」
「……来ます。今来たら、明け方まで帰らないです」
私と永衣くんの会話に不安そうにした刹那に、「あの女のことは俺が話しておいた」と永衣くんが説く。刹那は私を見上げてきて、「怖かったね」と私は刹那の肩を抱いた。刹那の瞳からほろっと涙がこぼれる。
「刹那くーん! 起きてるよねー! 電気ついてるから分かってるよー!」
そんな声が、ドアをたたく音に混じった。わめいているけど、うるさく甲高いというよりは、抑揚がなくて不気味な感じの声だ。
「刹那くん、ちゃんと返事してよー! ドアも開けてほしいなあ!」
刹那の息遣いが、過呼吸のように痙攣しはじめ、指先が震えるのが視界に入る。私はその手を握って、「大丈夫」と頭を胸に抱きよせた。刹那は嗚咽を押し殺し、私にしがみついて、何とか声を出さないようにする。
「刹那くん! ねえ、刹那くーん! ドア開けてー!」
何なの? マジで頭やばいじゃない。それは、スタンガンでも使って撃退しようとか考えるわ。
「刹那くん、私、ほんとに刹那くんのこと好きなの! 信じてくれないの? 結婚しようよ! 私と遠くに逃げようよー!」
刹那は、いやいやしながら両手で耳をふさいだ。涙がぼろぼろとあふれていく。
「刹那くん! 刹那くん! 私の気持ち分かってるでしょ? 私だけが、刹那くんを幸せにしてあげられるのも分かってるよねー?」
怖い以上に、気持ち悪いな。そう感じて小さく舌打ちした私は、「追い返そうか?」と言った。
「『誰?』って言われたら、駆けつけた親戚とか言えば──」
「ダメ」と刹那が涙声で私に訴えた。
「あいつ、邪魔と思ったら殺そうとするもん。先生みたいに、一音のことも……」
「そうですよ。危ないと思います」
「でもこれ、どうにかしないとこっちの気が狂うよ。近所の人、ほんとに平気なの?」
「平気ではないです。みんな鬱陶しいと思ってても、関わるのは面倒だって……」
「行かないで、一音。今夜は一緒にいてくれるって言ったじゃん」
「刹那……」
「今夜であれが終わるわけじゃないけど、今夜は一音がいてくれるって思いたい」
「……ごめん、何もできなくて」
「そばにいてくれてるよ。一音は俺のそばにいてくれてる」
どんっ、とひときわ大きなドアへの衝撃が聞こえた。蹴ったか、体当たりか、どちらだろうか。畏縮した刹那は、私の腕の中で目をつぶる。私はそれを抱き留めながら、「何で無視するのー?」という女の声に奥歯を食いしばる。
「そうやっていつも私のこと無視するよねー! 何でなの? お金ならあげるって言ってるじゃない! お金をあげるんだから、私に優しくしてよー! もっと私のこと愛してよ!」
刹那は、私の胸にうずまりながら震えている。永衣くんもどこか表情が蒼ざめている。
「私のこと愛してるって言ってよー! ねえ、ふたりで幸せになろうよー! 私ならどんな刹那くんも受け入れられるからー!」
女の世迷い言は、本当に明け方四時近くまで続いた。「今日は帰るねー!」と言ったからほっとしたら、「ねえ、帰るって言ってるんだよー! またねって言ってー?」とか声が続いたから、「いや、帰れよ」と私は苦々しくつぶやいてしまった。
女がやっと本当に帰ると、「俺が確認してきます」と永衣くんが玄関へと向かった。永衣くんの報告で、女のすがたがあたりにないと分かると、やっと刹那はほっとした様子で息をつく。
「疲れたね。少し眠る?」
私が提案すると、刹那は首を横に振ったけど、そのそばからあくびをする。
「眠いんじゃない」
「眠いけど……」
「学校行くの?」
「……今日体育あるから、絶対あいつ来る」
「サボれ」
「うん」
「私も仕事休んで、昼くらいまでいるから」
「ほんと?」
「私も眠いからちょっと寝たい」
「一緒に寝てくれるの?」
「ほんとは、私は寝ずに見張っておくべきなんだろうけど──」
「そんなことないよっ。一緒に寝よ。それなら俺も寝る」
刹那はやっと無邪気な笑みを見せ、「永衣はどうする?」とこちらを眺めていた永衣くんに目を向ける。
「俺は家で少し寝て、学校行ってくる」
「そっか」
「学校終わったら連絡するよ」
「うん、分かった」
「一音さん、刹那のことよろしくお願いします」
「永衣くんも、無理しないようにね」
「ありがとうございます」と永衣くんは微笑み、部屋をあとにしていった。鍵をかけてきた刹那は、猫みたいに私にくっついて甘えてくる。
私は冷蔵庫を覗き、食パンがあったのでトーストを作って刹那と食べた。「おいしい」と言う刹那に、「マーガリン塗っただけだけどな」と返すと、「一音と一緒に食べるからおいしいんだよっ」と刹那はちょっと照れたみたいに言った。
トーストをかじりながら、私は刹那に何かできるわけじゃない、というのは自覚していた。一緒にごはん食べたり、眠ったり、そういうことは何の解決にもならない。
どうしたらこの子を助けられるのだろう。警察? 児童相談所? 刹那はそれを望まないだろうけど、そういうところに行き着く以外に、刹那が保護される道はない。
トーストを食べ終えて「眠ーい」とまたくっついてきた刹那に、この子はこういうふうに親に甘えたことがないんだろうなあと思う。
「おかあさんに──」
「うん?」
「なれたら、いいのかな。私が」
「え」
「何だろ、養子縁組……?」
「………、」
「って、そんな簡単でもないか」
「やだよ」
「え、嫌なの?」
「嫌だよ、そしたら俺、一音と結婚できなくなるもん」
「三十路に何言ってんの……」
「本気だよっ。俺、一音のこと好きだよ。ずっと一緒にいたい」
私は苦笑して、「それなら、売りとかは辞めてほしいなあ」と刹那の頭をぽんぽんとする。刹那は私の腕にいったん顔を伏せたものの、「お金、いるから」とぽつりと言う。
「生活のため?」
「逃げるため」
「……あの女から?」
「全部だよ。あいつも、この家も、たまに帰ってくる母親も、全部から逃げたい。そのために金がいるんだ」
「貯められてるの?」
「貯めてるよ。一音のこともちゃんと連れてくし」
「はっ?」
「ずっと前、一音も『逃げたい』ってつぶやいてたじゃん」
「……つぶやいたっけ?」
「つぶやいてた! 俺、『逃げたい』で検索かけて、ヒットした人をフォローしてるもん」
私は少し考えて、そんなことも考えてたかなあと思い出した。
去年とか、そうだったかもしれない。彼氏はできなくて独り身で。親はそのまま三十を迎えるのかとうるさくて。そういうのを愚痴る友達もいなくて。何だか、すごくひとりぼっちだった。
そう、だから私も刹那をフォロバしたのだ。こんな人生辞めたいとか、今日も一日嫌だなあとか、そんなことをつぶやく刹那に共感して。私も、確かに逃げたかった。
ひとりぼっちか、とうとうとしはじめる刹那の背中を撫でながら思う。そうだな。私、ひとりなんだよな。毎日、食いつなぐための仕事しかやっていない。別に、失うほどのものなんて持っていない。
「ねえ、刹那」
「うん?」
「鬼ごっこで決めようか」
「は?」
「もうすぐ三月だよね。いきなり飛び出すのは無鉄砲だから、二月のあいだは準備しよう」
「準備って……」
「逃げる準備。行き先とか、計画も立てたほうがいいでしょ」
刹那はこちらに顔を上げ、大きく開いた目に驚きを走らせる。
「三月になったら一緒に逃げよう」
「いい……の?」
「ただし、誰かにつかまったらそこで終わり。私は警察に逮捕されて、刹那は保護される」
「っ、そんなの、」
「私を連れて逃げるっていうのは、そういうことだよ?」
「………、」
「逃げるって、一生、隠れて暮らすってことだよ。できるの?」
刹那は一瞬唇を噛んで、悔しいような表情をしたものの、「できるよっ」と私の目を見つめかえした。
「俺は一音と逃げるよ。死ぬ気で逃げてやる」
私は咲って、「じゃあ、三月になったらふたりで全部から逃げよう」と刹那を抱きしめた。刹那は私にぎゅっとしがみつき、「約束だからね」と言った。私はうなずいたあとに、「さすがにちょっと眠ろう」と軆を離す。
「えっちなことするの?」
「しないよ。小学生にはその気になれないわ」
「じゃ、俺が──二十歳になったらしてくれるの?」
「かもね。ただ、そのとき私は四十手前になってるけど」
「そんなん気にしないよ。一音がいいんだもん」
「そっか。じゃあ、刹那が二十歳になったら」
「二十歳……になった、とき、そばにいられてるよね」
私は答える代わりに微笑むと、「ほんとに、ちょっとは寝なさい」と刹那に横たわるよううながした。「一音も」と言われ、私はおとなしく刹那に添い寝する。
刹那は私の手を握って、睫毛を伏せた。私もかなり眠たかったけど、職場に連絡してからのほうがいいだろう。刹那はまもなく眠りに落ちて、私はその寝顔を見守りながら、職場に対する退職の言い訳を考えた。
二月は残り二週間くらいだった。そのあいだに、私と刹那は逃亡する計画を立てた。逃げる先。そこでの部屋と仕事の確保。荷造り。いろいろ決めていたら、すぐ三月になった。
二月いっぱいで仕事は辞めた。そろそろ就職しなくてはならない、なんて嘘で辞めさせてもらった。「またいつでも遊びにきて」と店長は言ってくれて、「ありがとうございます」と後ろめたさを感じつつうなずく。
失くすほどのものなんてない。そう思ったけど、ここはいい職場だったなと感じる。しかし、実際いずれはバイト雇用のこの店でなく、どこかに就職しなくてはならなかったし、いつまでもいられないのは分かっていた。
三月に入って一週間が過ぎ、今週末にはいよいよ刹那と出発しようとしていた。
荷造りも終わって、急遽だったのでお金はかかったけど、部屋も引きはらえることになった。段ボールは実家に運んでもらった。親は「帰ってくるなら、しっかり婚活してもらうからね」という条件で荷物を受け入れてくれた。
殺風景になった部屋には冷蔵庫もなくなったので、温めてもらったコンビニのお弁当を食べる。寒いと思ったら、はずしたカーテンの向こうではちらちら雪が降っていた。
スマホが鳴ったのは、夕方のことだった。メッセの着信音だったので、連絡先を交換しておいた刹那かなと思った。しかし、来ていたのは『とわさんからメッセージが届いています』という通知だった。
とわって、永衣くん? 彼とは連絡先は交換してなかったはずだけど──
そう思いつつトークルームを開くと、『永衣です、いきなりすみません。これ見たらすぐ通話ください』というメッセがあった。
何だろ、と思いつつ、すぐというからには、今すぐでもいいのだろうか。やや緊張しながら、通話をタップしてスマホを耳にあてた。すると、すぐに『一音さん』という永衣くんの声が耳に飛びこんでくる。だいぶ焦った声に聞こえた。
「どうしたの?」
『今からこっち来れますか?』
「え、今から? 無理ではないけど……何かあった?」
『刹那が……』
「……刹那が?」
『あの女に、襲われて』
「えっ」
『部屋に、……私を入れろって、今、ふたりで……』
「あの女といるってこと?」
『はい……。何されてるかまでは分かんないですけど……刹那、俺に一音さんの連絡先だけ送ってきて、そのあとは既読もつかなくて……』
【第五話へ】