romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

雪の果て-5

 永衣くんの声は、焦りと共にかすかに震えていた。
 その場を立ち上がった私は、躊躇うことなくコートとバッグをつかみ、部屋を飛び出す。鍵をかけるとアパートを出て、つかんできたコートを羽織りながら駅方面に駆け出した。
「すぐそっち行く。永衣くんは刹那に連絡続けて」
『分かりました……』
「あと、永衣くん」
『はい』
「今から私がお願いすることを、絶対に約束してほしいの」
『お願い……?』
 私はひらひら舞う雪の中を走りながら、永衣くんに『お願い』を伝えた。永衣くんは息を飲みながら聞いてくれたあと、『それでほんとにいいんですか?』と確認する。私は「三十にもなって、そんなことも判断ついてないわけじゃないから」と私が答えると、永衣くんは沈黙したあと、『分かりました』と応じた。
『刹那を見捨てるわけじゃないですよね?』
「そばにいるよ。あの子が大人になれば、いくらでもそばにいる」
 視界をちらつく雪の向こうに駅が見えてくる。「電車乗るから切るね」と私が言うと、『一音さん』と永衣くんが呼び止めてくる。
『刹那は、一音さんに出逢えて救われたと思います。だから、俺からもお願いします。あいつを助けてください』
 私は一瞬、足元に視線を下げたものの、顔をあげて「もちろん」と誓った。『ありがとうございます』と永衣くんはほっとしたような声で述べ、それから、私たちは通話を切った。十八時にもならない駅前はまだ明るく、人が行き来していてにぎやかだ。それを縫って改札に向かうと、急く心を抑えて電車に乗りこむ。
 二時間かけて、刹那の暮らす街に到着した。こちらも雪が降っていた。この二時間のあいだに、何があったか分からない。刹那はとっくにひどいことを強要されているのだろう。心配で鼓動がはちきれそうになりながら、私は刹那の部屋を目指し、シャッターを下ろしはじめて活気が落ち着いてきた商店街を速足で抜けていく。
 団地は似たような建物が並んでいるから迷いかけたけど、何とか行き着くことができた。一階のドアの前に永衣くんがいて、声をかけると「一音さん」と彼は不安そうに駆け寄ってくる。
「刹那は?」
「まだ部屋出てこないです。女も」
「ドアは──鍵かかってるよね」
「開かないです」
「何か送った? 既読は?」
「つきません」
「……大丈夫かな」
 つぶやきながら、私は刹那の部屋のドアの前に歩み寄った。ノックしたら、刹那でなく女が顔を出すだろうか。いや、女を引っ張り出せるならそのほうがいいか。そう判断して、私は思い切ってドアをノックした。「一音さん」と永衣くんがやや怯えた声を出したので、「下がってて」と私はささやく。
 しばらく沈黙があったあと、不意にかちゃっと内側から鍵の音がした。息を止めて身構えた。けれど、隙間から顔を出したのは、刹那だった。「刹那」と私が名前を呼ぶと、刹那は真っ蒼な顔をあげ、「一音……」とつぶやく。
「あの女は? 大丈夫なの?」
 刹那はドアを大きく開け、私に抱きついてきた。全身がおののいている。
 何かがあったのは、それで分かった。
「刹那、あの女はどうしてるんだ?」
 永衣くんの言葉に、刹那は嗚咽をもらして泣き出した。私は刹那を抱きしめながら、こうしていて女が出てこないことに眉を寄せる。
 もう帰った? いや、玄関に女物のヒールの靴がある。
「刹那、」
 刹那は私を部屋の中に引っ張って、続いた永衣くんがドアを閉めた。
「何か、されたんでしょ?」
「……俺の、子供を生みたいって」
「え」
「だから──中に出してって言われて、そうした」
「───」
「そのあと、一緒にお風呂入ろうって言われて」
「……うん」
「怖くて……子供とか、そんなの生まれたら、俺逃げられなくなるって思って」
「………」
「あいつが先に風呂に入ったから、俺、そこにスタンガン投げこんで」
「っ……」
「……死んだ、と、思う」
 思わず茫然とした私に、刹那はいっそうしがみつく。突き放されると思ったのかもしれない。だから私は刹那を抱き留め、「ひとりで頑張ったね」とその頭をいたわって撫でた。刹那は何度もうなずき、「どうしよう」と泣きそうな声をもらす。
「俺、もう一音と逃げられな──」
「逃げる」
「え……」
「逃げるよ、今から」
 刹那がぐちゃぐちゃの泣き顔で私を見上げる。
「荷造りはしてるでしょ?」
「してる、けど──」
「じゃあすぐ出るよ。私は刹那についていく」
「一音」
「私も、やっと刹那を見つけたんだから」
 私の言葉に、刹那の瞳から再び涙がこぼれはじめる。
「こんなの終わらせる。それで、世界の果てでもどこでも行くから」
 刹那は目をつむって鼻をすすると、涙をぬぐい、うなずいた。そして、「荷物取ってくる」と私を離れて奥へと駆けていく。私は永衣くんを振り返り、「あのお願いは約束ね」と念を押した。「でも」と言いかけた永衣くんに、私は『お願い』を繰り返す。
「私と刹那が今日から一週間過ごしたら、通報して。私はずっとスマホの位置情報をオンにしてる」
「一音さん──」
「大丈夫。刹那のことは保護させる」
「けど、一音さんが」
「私は、刹那のためになれるなら、それでいいの」
 永衣くんは泣きそうな顔になりながら、私に頭を下げた。
 そうしていると、刹那がすぐ戻ってきたので、「どうしたの」と言われ、「刹那をよろしくって頼んでおいた」と永衣くんは優しい嘘をつく。「そっか」と納得する刹那の手を私は取り、刹那はそれを握り返しながらスニーカーを履く。
「一音、何も荷物ないじゃん。取りに帰るの?」
「だいたい必要なのバッグに入ってるし、あとは買えば何とかなるでしょ」
「取りに帰ってもいいよ?」
「いいの、気にしなくて。行こう」
「うんっ。じゃあね、永衣」
「気をつけろよ」
「ん。元気で」
「刹那もな」
 きっと必死に笑顔を作っている永衣くんに見送られて、私と刹那は部屋を出た。暗い空からはまだ雪がはらはら降っていた。「三月なのに雪かあ」と刹那は歩きながら天を仰ぎ、「最後の雪かもね」と隣にいる私も粉雪に目を細める。
 ああ、今から私は犯罪者か。でも、そうなっても、この子の心を守りたいと思ったのだ。一週間後には引き離されるけど、そしたらこの子は、おそらく厳重に保護してもらえる。そして、二十歳になる頃、あわよくば再会が赦されたら、今度こそふたりで世界の果てに行こう。
 この子の心身に降る冷たい雪は、この三月の雪みたいに、今日が最後だ。めいっぱい温めて見送ろう。私はこの子の春になりたい。長い冬だっただろう。だから、私がこの子に春を告げる。
 そして刹那の心に降り続けた雪はやみ、今、春の光が射す。

 FIN

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