リリィズラブ-1

 大学生のときからつきあっていた男の人を、ついに振ってしまった。今日は私の誕生日の一週間前。かなり唐突に申し出たので、彼はびっくりして、「何で?」と怒るよりも泣き出しそうにした。
 いい人だと思う。優しいし。私を愛してくれている。でも、そんな私にはもったいない人だからこそ、これ以上、茶番にはつきあわせたくなかった。
 私も彼も、ちょうど三十歳になる。別れている場合ではない年齢だ。結婚。結婚。結婚。周りはその言葉を繰り返す。正直、それにいらいらしていたところもある。
 何で男と結婚しなきゃいけないの?
 一生この人をカモフラージュにするの?
 そんなの、彼にはこれまでつきあってもらって感謝しているだけに、残酷すぎる。
 彼と話し合っていたカフェを出ると、きらびやかなネオンが周りのビルに灯っていた。日曜日の人出が通りを行き来している。八月、夜になっても空気は蒸し暑く肌に絡みついてきた。
 彼には本当のことを言ってお別れしようと思っていたのだけど、結局言えなかった。そういう人ではないと分かっていても、腹いせに人に言われたらたまらない。
 えみの奴、レズだったんだよ。
 僕をカモフラにしてたんだ。
 十年間も!
 自分の中でその痛罵を想定すると、やはり悪いのは自分だと感じる。彼は何も悪くなかった。もしかしたら、正しい償いは、黙って彼と結婚して、自分を偽り殺していくことなのかもしれない。でも、それは誰も幸せにならない。
 ため息をつき、スマホを取り出すと、通知のついているSNSのTLをチェックした。セクマイ関連をフォローしている裏アカも見ておく。
 たまに飲みにいくビアンバーが、今夜はイベントを開催をしている告知が流れていた。確かここって、イベントのときは、最初にチャージすれば飲み放題だ。お酒たくさん飲みたいしな、とそこに顔を出すのを決めた私は、人混みの中を駅に向かって歩き出した。
 ──初めて好きになった人は、小学生のときに親友だった女の子だ。彼女はちょっと人づきあいが苦手なところがあった。だけど、そのぶん仲良くなるとすごく懐いてくれる。
 私は彼女が、私にだけは特別に笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。手をつなぐことだって、小学校のあいだは自然にしていてくれた。
 中学生になってからだ。並んで歩くときはくっつくようだった肩に、間隔が空くようになった。私を避けているわけでなく、じゃれあうことがなくなっただけだと頭では分かっていた。
 それでも、私が気持ち悪いのかな、この気持ちに気づかれてないかな、と被害妄想はふくらんだ。そんなもやもやしている中で、私の中で決定打になったことが起きた。
 休み時間、彼女と廊下で話をしていた。そしたら、先生に呼ばれたか何かで、彼女は教室の中を向いて「はーい」と駆け出した。
 私は置いていかれたくなくて、それを追いかけた。そして、『待って、私も行く』という合図として彼女の手を握った。
 その拍子、彼女はすごくびっくりした顔で、私の手を振りほどいたのだ。
 一瞬、電気みたいな鋭敏な沈黙が走る。彼女は私の手を取り直すことなく、その手を引っこめた。脳内が青く冷たく、停電していく。
「……ご、ごめん」
 そう言うしかなくて、何とか声を発すると「ううん……」と彼女は首を横に振る。
「嫌、だった?」
「え、……と」
 彼女が答える前に、また声がかかった。「ちょっと行ってくるね」と彼女はぎこちなく咲い、教室に入っていった。
 私は自分の手を見つめて、急速に心臓から黒煙があふれてくるのを感じた。
 女の子が女の子の手を握るのは、おかしいことなの? こないだまで普通だったのに、中学生からは異常になってしまうの? だとしたら、私自身さえも「おかしい」ってことになっちゃうよ。
 男子となんか、手をつなぎたくない。私は、女の子と、あの子と、手をつないでいたい。
 彼女は中学三年間、私と仲良くしてくれた。二度と手をつなぐことはなかったけど。そして、顔見知りのいないレベルの高い進学校に進んだ。
 私もそこに行きたかったけど、先生に無理だと烙印を押された。レベルの低い高校しか行けないというほどではなかったし、平均偏差値の高校ぐらいは余裕だったけど、さすがにトップクラスのその進学校は無理だった。
 彼女は、最後まで何も言わなかった。
 あのとき、手を振りはらった理由。私と違う高校に行く理由。友達づきあいが苦手なのに、知人さえいない高校に進む理由。私には無理だと分かっている高校に進む理由。
 私と離れるため?
 私を近づけないため?
 私のこと、気持ち悪いとか思ってるの?
 分からない。高校生になって、連絡を取ることも減って、そのうちつながりは途絶えた。ずっと好きだった気持ちだけが、うやむやに残って胸をかきみだした。その息苦しさを一蹴したくて、大学二年生のときに例の男の子とつきあいはじめた。
 でも、男の子と手をつなぐのはもちろん、キスしたりセックスしたりするのは、ひどく苦痛で嫌悪感が粟立った。女というだけで、必ず受け身なのも嫌だった。私は攻めるほうが好きだったから、中に突き立てられて動かれるのはかなりつらかった。
 彼とつきあっているストレスを発散するために、社会人になってお金が自由になると、ビアンバーやガールズオンリーのイベントにおもむくようになった。正直、しばらくつきあった女の子もいるから、立派な二股をやらかしていたわけだ。
 今は特に気になる女の子もいない。出逢いが欲しいなあ、なんて思っていると、イベントを開催している例のビアンバーの最寄り駅に着いていた。
 三年くらい前に見つけたここは、わりと穴場のビアンバーだ。線路沿いのちょっとした飲み屋街に混じっていて、きらきらした歓楽街の雑居ビルに入っているわけではない。最寄り駅も地元の人しか降りないようなところで、客は知る人ぞ知る常連が多かった。でも、定期的にイベントを開催し、新規のお客さんをつかむ機会もたゆまず作っている。
 イベントのコンセプトは『十代限定』とか『アラサーで集まろう』とか──今日は『年の差が出逢う日』らしい。私はお店の前に到着すると、ドアをゆっくり押し開け、もれてきたざわめきを窺ってみた。
「あっ、いらっしゃいませ」
 そんな声がかかってそちらを見ると、ショートカットで黒服を着たボーイッシュな女の子が、カウンターを出て私に駆け寄ってくる。
「けっこういるね。まだ入れる?」
「大丈夫です! 最初だけチャージ二千円いただいてるんですけど」
 ひとまず私は店内に入り、後ろ手にドアを閉める。そしてバッグから財布を取り出し、千円札二枚を彼女に渡した。
「ありがとうございます。いったん外に出たら、再入店は不可になっておりますので、気をつけてくださいね」
「ありがと」と私は彼女ににこっとして見せてから、知ってる顔はいないなと広くない店内を見まわす。三席のカウンター、ボックス席もみっつ、ボックス席の女の子たちはカラオケで盛り上がっていた。
 カウンターの一番手前のスツールが空いていたので、私はそこに落ち着くことにする。
「大学四年生かあ。大学生は若いわー」
 隣の女の人は、そんなことを言いながらオレンジ色のカクテルを飲んでいる。その奥にいる女の子が、ちらりと見た感じ、確かに若い。
 ほんとに年の差出逢ってんな、と思っていると、「咲ちゃん、久しぶり」と腰までの黒髪が綺麗なオーナーのトーコさんが、カウンターの中で煙草を吸いながら私に声をかける。
「久しぶりです」
「ずいぶん来ないから、ついに結婚したのかと思ってたわ」
 私は苦笑して、「逆ですよ」と荷物をテーブルの下に置く。
「ついに別れてきました」
「そうなの? 咲ちゃんは惰性で結婚するかと」
「惰性って。別れたその足でここに来たことを喜んでくださいよ」
「あらあら。出逢いがあるといいわねー」
「ですねー。とりあえず、ピーチウーロンください」
「了解。ユカ、作ってさしあげて」
「はいっ」と答えた黒服の女の子──ユカちゃんは洗い物を切り上げ、てきぱきとピーチウーロンを作りはじめる。
「新しい子ですね。かわいい」と私が言うと、「この子はパートナーいるわよ」とトーコさんはしっかり釘を刺してきた。
「なんだ。私もパートナー欲しいなー」
「咲ちゃん、もうすぐ三十じゃなかった? いまさら別れるって、勇気出したわね」
「まあ、節目ですよね。つきあいも十年だったし」
「彼が変にこじらせてこないといいわね」
「え、ストーカーになるとかですか? やだなー」
 私が眉を寄せていると、「未桜みおうちゃんは莉愛りあちゃんと出逢ったの、三十過ぎてからよね」とトーコさんは私の隣の女の人に話題を振る。「ですねー」とその女の人はうなずき、「だから、これから出逢えます。大丈夫」と私を見て微笑んだ。私は何だかちょっとほっとして、「ありがとうございます」と笑みを返す。
「常連さんですか?」
 未桜ちゃん、と呼ばれた彼女にそう問われて、「常連ってほどじゃないけど、お気に入りのお店です」と私は答える。
「そうなんですか。あたし、こないだ別の店のイベント行ったとき、トーコさんとモモカさんと意気投合しちゃって。ここにも遊びにくるようになっちゃいました」
 モモカさん、というのはトーコさんのパートナーで、たまにこのお店を手伝っていることもある。
 未桜さんの左薬指にも指輪があって、いくつくらいだろうと考える。口調も若々しいし、三十代ではあると思うけれど。
「パートナーさんは、今日一緒じゃないんですか?」
「仕事終わったら来るみたいです」
「そっかー。ここに来れるってことは、ちゃんと女子なんですね」
 未桜さんはカクテルを飲み、「何かさっき、結婚とか聞こえちゃったんですけど」と首をかたむける。「あー……」と私は若干気まずい笑顔をこぼし、でも正直に話すことにする。
「私、十年間ほど、男をカモフラにしてまして」
「十年!」
「彼と別れたんです。来週三十になるから、自分の中で区切りというか」
「はー。みんないろいろありますねえ」
 未桜さんがしみじみ言ったとき、「お待たせ致しました」とユカちゃんがピーチウーロンをさしだしてくる。私は受け取り、渇いていたごくんと喉を潤すと、「周りの期待が一番しんどくて」とちょっと愚痴ってしまう。
「早く結婚しなさい、子供も若いうちに生みなさいって。そういうしきたり、ぜんぜんなくならないですよね」
「あー、分かる。結婚しないのって言ってくる奴ら、みんないなくなればいいのに」
「カムはしてない感じですか?」
「してないですね」
「できないですよねー」
「ねー。LGBTへの理解とか、どうせネットの中だけですよ」
 私たちがうんうんとうなずきあっていると、「心ちゃんがびっくりしてるわよ」と灰皿を引き寄せながら、トーコさんがくすくすと妖艶に笑う。「え」と私がきょとんとすると、未桜さんの奥のスツールにいる、大学生の子がまばたきをしていた。
「心ちゃんとしても、やっぱり理解されてないって感じる?」
「そう、ですね。あたしは知ってくれてる友達もいますけど、やっぱり、カミングアウトしようとは思わないです」
「知ってくれてる友達って女の子?」
 未桜さんに訊かれて、「男ですね」とその子──心ちゃんは即答し、「ゲイ?」と私が続けて質問する。
「好きな女の子はいるって聞いてます」
「えー、いいなあ。そういう男友達なら欲しいなあ」
「あたし、男友達はゲイかバイだわ。って、心ちゃんっていうんだね。今聞いた」
 未桜さんの言葉に、白いカクテルを飲んでいた心ちゃんは「あ、自己紹介してなくてすみません」と謝る。
「ううん。あたしは未桜。で、咲さんでしたっけ」
「ですね。あの、未桜さんっておいくつか訊いてもいいですか」
「あたし? 今年四十二ですね」
 私と心ちゃんは同時に声をあげ、「ぜんぜん見えない」「すごい若い……」とつぶやく。未桜さんは苦笑いして、「友達は平然と若作りとか言ってきますけどねー」とカクテルを飲む。氷が溶けてすべって、からんという音が響く。

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