はやる気持ちのまま、二十時前にはトーコさんのお店の前に着いてしまった。まだ開いてないよな、とドアの前で待っていると、「あれっ、お客さんですか」と声がかかり、見るとエコバッグを提げた黒服のユカちゃんだった。
「まだ開いてないかなと思って」
そう答えると、「こんなとこで待ってたら熱中症になっちゃいますよ、どうぞ」とユカちゃんは気前よく私をお店に通してくれた。店内ではトーコさんがホールに出て、テーブルを拭いている。ユカちゃんはカウンターに入り、おつまみらしいお菓子をエコバッグから取り出しはじめた。
「咲ちゃん。いらっしゃい」
「すみません、まだ開店前なのに」
「いいのよ。もしかして、心ちゃんと待ち合わせ?」
「えっ、何で──」
トーコさんはふふっと咲うと、「昨日ね」とロングヘアを耳にかける。
「心ちゃん、未桜ちゃんにけしかけられて、咲ちゃんにメッセ送ってたみたいだから」
「そうなんですか。今日は私、誕生日なのでここで心ちゃんとゆっくりしようかって」
「あら、おめでとう。ついに三十代ね」
「ですねー。あんまり実感ないですけど」
「心ちゃんと過ごすのね。進展してるのかしら」
「どうなんですかねー」
「あの子はほんとにいい子だから。傷つけることは私が許さないわよ」
「はは……そこは分かってます」
私はカウンターのスツールに腰かけ、ユカちゃんにチャージをはらってカシスウーロンを注文した。てきぱきとお酒を作るユカちゃんに、「ユカちゃんのパートナーって、どんな人なの?」と何心なく訊いてみる。
「私ですか? 高校の同級生ですよ」
「高校の」
「女子高だったんで」
「そうなんだ。女子高なんて、似非レズも多そうだけどなー」
「お互い、そう思って一度は別れたんです。卒業式に、『いい男つかまえようね』とか言って」
「ほう」
「でも、しれっと大学時代にビアンバーで再会しちゃって。『男は?』ってお互い訊いて、『あんなの嘘に決まってるよ』って一緒に泣いちゃって」
「それから、つきあってるんだ」
「そうですね。今、五年目かな」
「いいなあ。私は、学生時代に好きだった子には、やんわり避けられてフェードアウトされた」
「告白とかしたんですか」
「ううん。でも、感づくものがあったのかもしれない」
「そうですか。心ちゃんとはうまくいくといいですね」
「いくのかなー。私、おばさんじゃない? 今日三十だよ」
「まだまだですよ。年下の私が言うのもあれですけど。──はい、カシスウーロンです」
「ありがと」
私はさしだされたグラスを受け取る。ユカちゃんはカクテルグラスにおつまみを盛って、それをボックス席に添えていく。やがて二十時を過ぎ、ちらほらお客さんが現れる。
日曜日だけど、今日はイベントの日ではないようで、空気はまったりしていた。二十一時が近づくほどそわそわして、ほんとに来るよな、なんてことも思っていると、二十一時になる十分前に心ちゃんが顔を出した。
「わ、咲さん、もう来ちゃってたんですね」
そう言いながら駆け寄ってきた心ちゃんは、リクルートスーツを着ていた。
「すみません、待たせちゃって」
「いえいえ。いそがしいって言ってたのに、こっちこそ呼び出しちゃって」
「今、どうしても就活でばたばたしてて。まだ内定もらえてないんですよ」
「あ、そうか。大学四年生だもんね」
「そうなんです。普通のOLでいいんですけどねー」
「普通のOL、けっこうしんどいよ?」
「咲さんはOLさんでしたっけ」
「一応。経理部でひたすら数字と戦ってる」
「咲さんの後輩になれたら楽しいのかな」
心ちゃんはそう微笑み、私の隣のスツールに座ると、「どんなものがいいか分からなくて」とバッグから包みを取り出す。
「あたしの好きなお店のお菓子にしちゃいました。すみません、お菓子って子供っぽいかなとは思ったんですけど」
「え、プレゼント? いいの?」
「もちろんです! もらってくれるなら」
「わ、気遣わせちゃってごめん。でも嬉しい」
黒い包装紙にダークレッドのリボンがかかった両手に乗るくらいの包みを受け取り、何か高級そうなんだけど、と思いつつお値段については訊かないことにする。
心ちゃんもカウンター内にいたトーコさんにお酒を注文し、ドリンクが揃うと私たちはかちんとグラスを合わせる。
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。誕生日が楽しみだったの久しぶり」
「久しぶり」
「十年間、誕生日は彼氏との食事だったから」
「あ、そっか。そのあと、彼氏さんはあきらめてくれた感じですか」
「いや、昨日の夜はうちに来てたみたい。だから私、帰らなかったけど」
「帰らなかったんですか?」
「うん。あー、えと……まあ、適当にバーでぼんやりしてた」
「ここに来たら、あたしも未桜さんもいたのに」
「だよね。スマホちゃんと見ればよかった。親からの『帰ってこい』が鬱陶しくて、電源切ってたの」
「そうなんですか……。まだしばらく、大変そうですね」
「そうだね。ごめん、愚痴っちゃって」
「いえ、ぜんぜん。でも……彼氏さんも、咲さんがすごく好きなんだろうなあって思います」
「そうかなあ。十年って、だいぶ惰性も入ってくると思うけど」
「それだけ気を許せる相手だったってことですし。また咲さんぐらいに想える人を見つけるのは、彼氏さん、大変かもしれないですね」
「……そだね。でも見つかるよ。いい人だから」
心ちゃんは私を見つめて、「やっぱり、咲さんは大人だなあ」とカクテルを口にした。
「大人……かなあ?」
「あたしだったら、そういう人がいたら、つきあってもらった情に負けて結婚しちゃうのかもしれない」
「………、そうだね。私も長いことそう思ってた。なのに吹っ切れたみたいに彼と別れることにしたのは、少しは自分のセクに対して成長したからなのかな。私はビアンだって」
「あたしはビアンってことにまだ覚悟がないから、そういう男の子がいたら楽なのかなあとか思っちゃいます」
「楽じゃないよ、ぜんぜん。その男の子と、キスもセックスもしなきゃいけないんだよ?」
「……ですよね。それは嫌かも」
「心ちゃんはいいパートナーできると思うから、男に走らなくていいよ。大丈夫」
心ちゃんはあやふやに咲い、カクテルをこくりと飲んだ。やや沈黙があったのち、「咲さんは」と心ちゃんが口を開く。
「パートナー、これから作るんですか?」
「作るというか、出逢えたらいいなとは思ってる」
「やっぱり……」
「ん?」
「……やっぱり、あたしは子供すぎますよね」
「えっ」
私はきょとんと心ちゃんの横顔を見た。心ちゃんはうつむきがちでこちらに顔は向けず、カクテルの水面を見ている。
「え、あの──えっ?」
私がひとりで混乱して、挙動不審になっていると、心ちゃんは咲って「咲さんにパートナーできたら、教えてくださいね」とやっとこちらに顔を向けた。その表情がどこか泣きそうに見えるのは、私の都合のいい錯覚だろうか。
「心ちゃん──」
「あたしも、頑張って誰か見つけて、」
「心ちゃん」
あたしがやや強い口調で名前を呼ぶと、心ちゃんの瞳がわずかに揺らめいた。私は口を開き、ちょっと考えてから、ゆっくりと声を出す。
「私は──その、今日、三十になりまして」
「はい」
「心ちゃんは、これから社会に出るようなまだぜんぜん若い子で」
「……はい」
「私……とか、その、無理では……ないですか?」
「無理、っていうと」
「だから、その……恋愛対象としては、無理とか……」
心ちゃんは私をじっと見つめ、「咲さんは?」と問い返してくる。
「え」
「咲さんこそ、こんな年下を対象にできますか?」
「……私、は──」
「咲さんが遊ぶような人じゃないのは分かってますけど、それでも、だからってあたしに本気になれますか?」
私たちは見つめあった。それから、「心ちゃんにはこれからもっと出逢いがあって」と私は消え入りそうな声で言う。
「私より、この人がって女の子が現れるかもしれなくて」
「あたしっ、」
「でも、その可能性まで受け入れて、心ちゃんと今つきあうことができたら嬉しいなって思うよ」
心ちゃんは目を開き、少し伏し目になると、数滴だけ涙をこぼした。「正直に言うと」と心ちゃんは言う。
「あたし自身、それが怖いです。万一もっと好きな人ができて、咲さんを傷つけるなら、初めからつきあわないほうがって」
「うん」
「でも、やっぱり……今は咲さんとつきあえたらいいなあって思うんです」
「うん」
「それでも……いいですか?」
「……いいよ。年の差があってつきあうって、そういうことでもあると思うから」
私がそう言うと、「咲さん、やっぱり大人じゃないですか」と心ちゃんはいよいよ泣き出してしまった。私は咲って、心ちゃんのショートボブに手を伸ばしてその髪を撫でた。艶やかな髪が私の指をすべる。
「咲さん」
「うん」
「ひとつだけ、お願いしていいですか」
「なあに」
「咲さんにとっては、すごく嫌かもしれないんですけど」
「はい」
「彼氏さんに、あたしを紹介してください」
「えっ」
「あたし、恋人としてちゃんとします。だから、彼氏さんから咲さんをきちんと引き受けたい」
「………、」
「あたしは彼氏さんがどんな人か知らないので、もし、勝手に言い触らすような人なら無理しなくていいんですけど」
「……ううん。そういうのは、たぶん、しないと思う」
「じゃあ──」
「そう、だね。親とかは外野はどうでもいいけど、彼には言わないといけないよね」
「……はい」
「分かった。あの人に心ちゃんのこと、紹介させて」
そう言ってから、私は心ちゃんにそっと触れるだけのキスをした。涙の味が混ざっていた。
私のこと、大人だって心ちゃんは言ったけど、そこまで考えられる心ちゃんもじゅうぶん大人だ。むしろ、彼にはとにかくもう会わないと決めつけていた私のほうが子供かも。
その日、心ちゃんと先週みたいに終電まで過ごしたあと、駅までは手をつないで歩いた。「また連絡するね」と約束すると、「今度はしごはやりましょうね」と心ちゃんは咲い、私はうなずいた。
それから、終電に揺られながら彼のトークルームを呼び出して、話をさせてもらえるなら話したいと伝えた。既読がついて、『僕はまだ咲が好きだよ。』と彼は返してきた。
『それでも、その話を聞いていいの?』
『だったら、なおさらあなただけには打ち明けておきたいことだから。』
私の返答に『分かった。』と彼は返し、私たちは待ち合わせの日時を決めた。その日時を心ちゃんにもメッセで伝えておくと、『予定空けておきます。』と返ってきた。
──十年間、男の子をカモフラージュにしてきた。ひどいことをしていたと思う。結婚して償うぐらい、させられてもおかしくない。でも、本当に彼がそのとき「償え」と言い出すような男だったら、十年も続かなかったかもしれない。たぶん分かってくれる人だから、甘えてしまっていた。
ちゃんとしなきゃ。私は男の人を愛することはないレズビアンで、今、一緒に幸せになりたい女の子もいるんだ。
もうすぐ家の最寄り駅だ。家族はやっぱり鬱陶しいし、私を分かってくれるとも思えないから、ほんとに家を出ないと。三十歳。ああおばさんだなって思ったけど、ううん、まだまだこれから。恋も、住まいも、仕事だって。
終電は、イルミネーションもないベッドタウンの暗闇を走っていく。クーラーがきく車内は、相変わらずお酒のにおい。
でも、何だか今夜は新しい気分だ。やりたいようにやっていける気がする。日づけは変わってるけど、誕生日だもん。
私は今日から、ありのままのすがたでありのままの愛を感じて、生きていくんだ。
FIN
