マグネット-2

 最後の問題まで答えて、あとは本読みだ、と国語の教科書を取り出そうとしたときだ。鈴ちゃんのママが観ているテレビから歓声が上がった。
『水瀬のゴールの瞬間、もう一度見てみましょう』
 司会者みたいなおじさんの声に、ぱっと顔をあげた。水瀬。授ちゃんの名字だ。あたしは我慢できずに椅子を飛び降りると、ダイニングとつながっているリビングに踏みこんだ。
 テレビの中で、授ちゃんが一位でゴールする瞬間が流れていた。「すごい!」と声をあげてしまって、「どうしたの?」と鈴ちゃんもやってくる。そこでちょうど授ちゃんのインタビューが映り、「わあっ」と鈴ちゃんも嬉しそうな笑顔になった。
「授おにいちゃん、すごい。ほんとにテレビに映ってる」
「樹言ってたもんね」
「うん。あっ、今、授おにいちゃんに飲み物渡したの、桃おねえちゃんじゃない?」
「ほんとだっ。えー、こういうのあるなら教えておいてほしいなあ」
「ふたりに観られるのは、ちょっと恥ずかしいのかもね」と鈴ちゃんのママが咲って、「ママは知ってたの?」と鈴ちゃんは首をかしげる。「うん。桃ちゃんから聞いてた」と鈴ちゃんのママは微笑し、「いいなあ」とあたしはついふくれっ面を作る。
「杏は、授ちゃんのこういうの全部観たいよ」
「杏ちゃんは授のこと大好きなのね」
「うんっ。でも、授ちゃんと結婚するのはおねえちゃんだよ」
「それで、私と杏ちゃんが姉妹になるんだもんね」
「そう! 楽しみだよね」
 はしゃぐあたしと鈴ちゃんに、鈴ちゃんのママも笑みを浮かべる。
 ほんとに、ちゃんと咲う人なのに。そんな鈴ちゃんのママしか知らないあたしは、授ちゃんが言っていたみたいに、この人がいつも泣いていたなんて信じられない。司パパだって、男らしくて素敵だし──
 でも、あたしのママとパパも、うまくいかなかった。パパの話なんてうちでは出ないけど、それは、出したらママもおねえちゃんも、あたしだって嫌な気分になるからだ。司パパと鈴ちゃんのママも、同じような感じで噛み合わなかったのかもしれない。今、鈴ちゃんのママには鈴ちゃんのパパがいて、司パパには南パパがいるなら、それでいいのだと思う。
 宿題を全部終えると、あたしは鈴ちゃんの部屋で迎えが来るまで遊んでいた。自分の部屋があるのはいいなあと思うけど、鈴ちゃんは夜はこの部屋のベッドでなく、両親の寝室でパパとママと眠るのだそうだ。
「杏もママとおねえちゃんと寝るよ」と言うと、鈴ちゃんは「私だけじゃなくてよかった」とほっとしながらはにかむ。「ひとりだと何か寝れないよね」とあたしが言っていたところで、チャイムが鳴った。
 あたしと鈴ちゃんは顔を合わせ、部屋を飛び出して階段を駆け降りる。
「おねえちゃんっ。あれ、授ちゃんは?」
 玄関にいたウェーヴの髪をヘアバンドで抑えたおねえちゃんは、あたしの台詞に苦笑して「タクシーで待ってるよ」と言った。
「タクシーなの?」
「授くん、大会終わったばっかりで取材とかいそがしいから。私を家まで送ったら、そのままタクシーで移動して、夜のあいだにインタビュー済ますんだって」
「芸能人みたーい」
「授おにいちゃん、練習みたいなのはしないんですか?」
「日中にしてるよ。トレーニングはなるべく私がつきあえる時間にしてるの」
 なるほど、とあたしと鈴ちゃんが納得していると、「授のためにいつもありがとうね」と鈴ちゃんのママも顔を出して、話は聞こえていたのかおねえちゃんにそう言った。
「授くんが、私なしで選手としてやっていけるようになったら寂しいので」
 おねえちゃんはそう照れ笑いする。鈴ちゃんのママはうなずき、「杏ちゃん、これ忘れて帰らないようにね」と宿題とかが入った手提げをあたしに渡してくれる。
「あ、忘れそうだった。ありがとう、鈴ちゃんのママ」
「気をつけて。授によろしくね」
「はあいっ。鈴ちゃん、また明日ね」
「うん。明日も話そうね」
 あたしと鈴ちゃんは手を振りあって、それから、あたしは靴を履いておねえちゃんと手をつないだ。「お邪魔しました」とおねえちゃんが挨拶して、玄関を抜けると確かに門扉にタクシーが停まっている。
「授ちゃん、ごはんは食べてくの?」と庭を横切りながら訊くと、「今日は取材に行くみたい」とおねえちゃんは返した。
「つまんなーい」
「杏がそんなわがまま言うと、授くん夜中に来てくれたりしちゃうから、タクシーでは言わないようにね」
「えー、いいじゃん。来てもらったら会えるのに」
「そんな時間があるなら、夜はしっかり眠らないと。授くんの体調管理も私の役目なの」
「でも、彼女なのも大事だよー。デートとか行ってる?」
「授くん、出歩くと人に囲まれちゃうし、あんまり」
「えーっ。そんなのダメだよ!」
「はいはい。私はね、授くんのサポートできるのが私しかいないことのほうが大事なの」
 門扉を抜けてあたしがむくれた顔をしていると、タクシーのドアが開き、何やら授ちゃんが運転手さんと盛り上がっていた。「どうしたの?」とあたしをはさんでおねえちゃんもタクシーに乗りこむと、「おっちゃんの娘さんが俺のファンなんだって」と授ちゃんは運転手さんをしめす。
「でも、俺にはさっきの彼女いるんでーって自慢してた」
「はは、こんなにかわいい彼女さんがいるなら、うちの娘なんかとてもとてもですね」
「おっちゃん、そこは『うちの娘のほうが』ってのろけるとこですよ」
「のろけても、年頃の娘は笑顔ひとつよこさないですからねえ。さて、じゃあ出発します」
「お、よろしくっす。──って何だ、杏がご立腹のお顔だぞ」
 あたしの面持ちに気づいた授ちゃんは、首をかたむけてくる。動き出したタクシーの中で、「あのねー、授ちゃんっ」とあたしはジト目をする。
「はっきり訊くけど、おねえちゃんと、最後にデートしたのはいつですかっ」
「こら、杏──」とおねえちゃんは止めようとしたものの、「最後のデート?」ときょとんとした授ちゃんは、「今日じゃね?」とあっさり言った。思いがけない返答にあたしは「今日なの!?」とまじろく。
「デートと呼べるか知らんけど。俺は桃と昼飯食ったりするのも癒やしだしな。今日は休憩のときにベンチで膝枕もしてもらったぞ」
 それは──デートとして認めていいような、いけないような。微妙なところにあたしは首をかしげる。「杏、心配してくれて嬉しいけど」とおねえちゃんがあたしの頭に手を乗せる。
「私と授くんは、ちゃんと毎日幸せだから。大丈夫だよ」
 あたしはおねえちゃんを見上げ、「何? 何かあった?」と授ちゃんはまばたきをする。「ううん」とおねえちゃんは微笑み、「でもありがとうね」とあたしにささやく。
 まあ──おねえちゃんが幸せで、授ちゃんも幸せなら、それでいいのだろうか。よく分からないけど。
 あたしとおねえちゃんが暮らすマンションにはすぐ到着し、授ちゃんは部屋の前まであたしたちを送り届けてくれた。あたしは靴を脱いで、廊下を抜け、ママがいないのをまず確認する。ママまだ帰ってないみたい──そう言おうと玄関を覗くと、授ちゃんがおねえちゃんにキスしていて、慌ててあたしは口を抑える。
 ふたりは額をこつんと重ね、「デートしたいの?」と授ちゃんが尋ねる。「毎日してるよ」とおねえちゃんが微笑んで答えると、授ちゃんはおねえちゃんをぎゅっとした。あたしは見ていないふりで引っ込みながら、ふたりがそうならいいんだけど、とただ当てが外れた自分がちょっと恥ずかしくなった。
 授ちゃんはすぐ帰ってしまい、おねえちゃんは冷蔵庫を覗いて「明日、朝一で買い物だなあ」と言いつつも、トマトと牛肉がたっぷりのハヤシライスと、さっぱりしたポテトサラダを作ってくれた。
 それからも、毎日は穏やかに楽しく過ぎていった。鈴ちゃんとは本当に仲良くなれているし、おねえちゃんと授ちゃんも順調にいっている。鈴ちゃんが誘ってくれて、一緒に司パパと南パパの家にもお邪魔した。そんな毎日に、ちょっとだけわずらわしくも樹がやっぱりくっついてきて、あたしを揶揄ってくる。
「樹ってさー」
 三年生から四年生になるときにクラス替えはないので、ひとつ学年が上がっても、鈴ちゃんの教室には樹もいる。鈴ちゃんとおしゃべりしていると、「お前、クラスには友達いないのかよ」と樹がまた突っかかってきた。「ちゃんといますー」とあたしは言ったあと、ふと疑問になってそう続ける。
「自分こそ、友達いないの?」
「はっ? いるに決まってんだろ」
「いつもあたしに何か言うから、構ってほしいのかと思った」
「ざけんなっ。俺は……その、し、心配してやっただけだしっ」
「心配?」
「クラスに友達いないとか、お前がそういうのだったら──いや、別にだからって何もしてやらねーけど」
「何にもしないなら心配しなくていいよ」
「ふんっ。それもそうだなっ。もう知らないからな!」
「うん」
「ほ……ほんとに、お前なんか知らないぞ」
 なぜ念を押すのか分からなくて、「はあ」とあたしが間の抜けた返事をすると、鈴ちゃんが何やらくすくす笑い出したので、「こら紺野、笑ってんじゃねーよっ」と樹は何やら真っ赤になる。「鈴ちゃんにまで絡むのやめてよ」ととりあえずあたしが言うと、樹はむすっとした顔になって、教室を出ていってしまった。
 あたしは時計を見た。あと二分くらいでチャイム鳴るのに。首をかたむけていると、「榎野くん、素直じゃないよね」と鈴ちゃんが言う。
「そうかなー? 逆に何でも言ってくる気がする」
 鈴ちゃんは何やらにこにこしてから、「三時間目始まるよ」と言った。「うん」とあたしは立ち上がり、「またね」と教室を出ていこうとした。
 すると、何のために出ていったのか、すぐ戻ってきた樹とぶつかりかける。「あ、」と何か言いかけた樹の肩をはたき、「気をつけてよねっ」とあたしは自分の教室に急いだ。
 そしてまた季節は巡り、あたしたちは五年生になった。始業式が終わった体育館で、クラス替え発表が行なわれる。高学年は林間学校や修学旅行があるだけに、どきどきしていたら、何と鈴ちゃんと同じクラスで、ふたりではしゃいでしまった。しかも、担任は秋ヶ瀬先生だ。これはもう安心だ、とほっとしていると、「榎野くんも呼ばれてたよね」と不意に鈴ちゃんが言った。
「え。榎野……って、樹!?」
「うん。同じクラス」
「えーっ。それはやだあっ」
 思わず大声を出してしまったそばから、「うっせーぞ、杏」といつもの声がしてあたしはきっと振り返る。
「もおっ、何であんたが同じクラスなの? 小学校最後の二年間がダメになる!」
「こっちの台詞だっつーの。幼稚園のときみたいに、また毎日お前の顔見るとか……」
「やだもう、ほんと樹は転校とかしてよ」
「何で俺なんだよ。お前がしろよ」
「あたしは鈴ちゃんと同じクラスがいいから。あんた別に誰とでも仲良くなれるでしょ」
「てめえなっ」
 樹が咬みつくような声を出したとき、「はい、榎野くんと時野さん。そのへんにしておきましょうか」と秋ヶ瀬先生がタイミングを見たように割りこんできた。
 お互いそっぽを向くあたしと樹に、秋ヶ瀬先生は眼鏡の奥で苦笑いすると、「いつもこうですか?」とそばにいる鈴ちゃんに問う。「そうですねー」と鈴ちゃんが言うと、「先生も覚悟しておかないといけませんね」と秋ヶ瀬先生は仕方なさそうにうなずいた。
「鈴ちゃん~」とあたしは鈴ちゃんの腕をつかみ、「でも榎野くんのこと、嫌いなんじゃないもんね」なんて鈴ちゃんはにっこりする。う、何だかちょっと、小悪魔な笑顔かも。
 というか、樹のこと嫌いではない──の、かなあ。分からない。改めて樹を見ると、樹もあたしをじっと見ていた。目が合うとまたそっぽを繰り返し、秋ヶ瀬先生はそれにくすりとしたのち、「じゃあ、二組はここから出席番号順に列になってください」と手を掲げた。
 そうして、あたしの高学年としての日々が始まった。この学校は、高学年でクラブ活動と委員会活動が解禁になる。鈴ちゃんとどのクラブがいいか相談して、「おねえちゃんみたいに料理してみたいなー」とあたしが言うと、「私もママの料理手伝えるようになりたい」と鈴ちゃんは首肯した。というわけで、あたしたちは家庭科クラブに入部希望を出すことにした。まだ桜の花びらがひらひら散っている頃、早くも秋ヶ瀬先生に入部希望のプリントを提出すると、「クラスで一番乗りですね」と秋ヶ瀬先生は微笑んで預かってくれた。
「先生、委員会はいつ決めるんですか?」
「今度の学活の時間に決めてもらいますよ」
 あたしは時間割を見て、てことは木曜日の六時間目かあ、と内心に書き留める。「委員も一緒がいいね」と鈴ちゃんに言われてこくんとしていると、ふと「榎野は何のクラブにすんの?」という声が聞こえた。何となく振り返ると、このクラスになってよく樹と行動している男子ふたりが、樹に話しかけている。
「んー、別にどこでも……」
 樹は言いかけたけど、「何か書いてんじゃん」とひとりが樹のプリントを覗きこみ、「いや、まだ適当に書いただけだしっ」と樹は慌てて隠そうとした。けど、あえなく見られてしまったらしく、「えーっ」「マジで?」と樹の希望を知ったふたりは声をあげる。
「走るだけって、すげーきつそうじゃん」
「サッカーとかバスケのがよくね? かっこいいし」
 走るだけ。ってまさか──

 【第三話へ

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