そう思っていると、秋ヶ瀬先生もその三人に目を向け、「笠原くん、田村くん、何のクラブに入りたいかは榎野くんの自由ですよ」と軽く注意した。それでもふたりは、「そうだけどー」とまだ納得しなくて、「分かったよ」と樹は消しゴムを手に取ろうとした。
それが何となく気に入らなくて、あたしはそこに駆け寄ると、樹から消しゴムを取り上げる。
「なっ──んだよ、杏、」
「走るって、もしかして陸上?」
「えっ」
「樹、陸上やるの?」
あたしの問いに樹は目をそらしたものの、「悪いかよ」と肯定する。あたしはまばたきをしてから、「いいじゃんっ」と樹のつくえに身を乗り出した。
「樹にしては、まともだし!」
「俺にしてはって何だよ」
「陸上かっこいいもんねっ」
樹があたしを見たとき、「それ、榎野がかっこいいってことじゃね」と田村くんが言い出し、「お前らほんといつも仲いいもんなー」と笠原くんも冷やかす。「うるさいなっ」とあたしはふたりを少し突き飛ばし、「かっこいい基準は授ちゃんだからっ」と両手を腰に当てる。
「樹もそうでしょ?」
「えっ、あ──まあ、うん」
「前、テレビで見るって言ってたもんね」
「それに、水瀬くんはこの小学校出身ですよね」
あたしの後ろに来ていた秋ヶ瀬先生がにこやかに言い、「そうなんですか?」と樹が顔をあげる。
「古株の先生がよく自慢してますし、卒業した縁で水瀬くんがこの小学校に指導に来てくれることもあるんですよ。もちろん、トレーナーさんも一緒に」
「それって、あたしのおねえちゃんですか?」
「もちろん」
「すごいっ。あたしも知らなかった。樹、授ちゃんに指導してもらえるとかレアだよっ」
「でもさー、陸上って走るだけじゃん」
「特に長距離とかただの拷問じゃね?」
失礼なことを言いつづけるふたりにあたしが咬みつき、「杏ちゃん、落ち着いて」と鈴ちゃんがなだめに入ってくる。そんなあたしのそばで、秋ヶ瀬先生は樹の目を高さになって「やってみたいならやってみましょう。先生は応援しますよ」と励ました。
樹は秋ヶ瀬先生を見つめ、ちらっと一瞬こちらも見たあと、「じゃあ、これ出します」と書き直すことなく入部希望のプリントを秋ヶ瀬先生にさしだした。「はい、確かに」と秋ヶ瀬先生は笑顔で受け取り、そっか、とあたしは何だか嬉しくなった。
幼稚園のときから、あたしが授ちゃんのことを話すと、樹は「つまんねえ」と言い出すから、なぜなのかは知らないけど樹は授ちゃんが気に入らないのだと思っていた。でも、樹自身も陸上をやるってことは、実は授ちゃんが嫌いとかってわけじゃないのかも。そうだといいな、と思った。
放課後、いつも通り鈴ちゃんの家で過ごしていると、今日はママが迎えにきてくれた。おねえちゃんと授ちゃんはこの春に大学四年生になって、何かとあわただしいらしい。「いつもお世話になってすみません」と鈴ちゃんのママに挨拶したママは、おねえちゃんと違って料理が苦手なので、このあと家におねえちゃんがいないようなら外食に向かう。今日も車で駅前のファミレスに連れていってくれた。
「あたしね、家庭科クラブに入ろうと思うの」
全席禁煙の店内は、夕食どきもあって話し声や笑い声でにぎやかだった。ウェイトレスさんに案内されて、四人掛けの席でゆったりあたしとママは向かい合う。メニューをめくりながらあたしがそう言うと、「お裁縫でもするの?」とママは首をかしげた。
「それも活動に入るみたいだけど、あたしがしたいのは料理」
「料理」
「あたしもおねえちゃんみたいに料理がうまかったら、いろいろ便利でしょ?」
「なあに、そんなこと考えてくれるの」
「考えるよ! それに、おねえちゃんが授ちゃんのとこにお嫁に行っちゃったら、ママ食べるものがなくなるよ?」
「あはは、考えてみればそうなるわね」
「だから、あたしが料理できるようになるの」
「杏もいつかはお嫁に行っちゃうんじゃない?」
「それは──すごく先だから、まだ考えなくていいのっ」
ちょっと照れながら言うと、「そうかしら」とママは咲い、あたしもいつかお嫁さんかあ、と不思議な気持ちでメニューをめくる。授ちゃんみたいな男の人がいいけど、授ちゃん以外にあんな素敵な人いるのかな。
「鈴ちゃんも一緒のクラブ?」
「うんっ。鈴ちゃんはママの料理手伝えるようになりたいからって」
「ふふ、きっとおとうさんが喜ぶわね」
「そうだね。あ、それとねっ、樹が陸上クラブ入るんだって」
「樹──っていうと、幼稚園のとき一緒だった樹くん?」
「そうそう。ママ憶えてるんだ」
「あの子、よく杏にちょっかい出してたわよね」
「今もだよ。クラス発表のときからいっつも」
その言葉にママはにやりとして、「相変わらず愛されてるわけね」なんて言ってくる。あたしはびっくりして、「な、何で」と思わず狼狽えてしまう。
「樹はあたしのこと嫌いでしょ」
「あらあら。杏はやっぱりまだ子供ねー」
「子供じゃないもんっ。だって、ママが樹のこと変なふうに言うから」
「あれは、好きな子ほどちょっかい出すっていう典型の子でしょう」
あたしは睫毛をぱちぱちさせ、どぎまぎと視線をかたまらせる。
好きな子、って──あたしが? 樹があたしのこと……「ええー?」とぴんと来なくて首をかしげると、「まあ、それは樹くんがいつか素直になるとして」とママはメニューをテーブルに置いた。
「あの子も陸上やるの?」
「……そうみたい」
「授くんに敵うかしら」
「それは敵わないよ」
「本人は挑むつもりでしょ」
「えー。無理だよ」
「杏が『頑張れ』って言ってみると頑張ると思うわよ」
「えっ。もお、だからそれは──」
「言ってみなさいよ。けっこう、杏が主導権を握るほうがいいのかもしれないわ」
あたしはさっきから米料理のページで止まっているメニューを見るふりで、樹を思い返した。
幼稚園のときから、くっついてくるみたいにあたしにあれこれ文句を言う男の子。いつもあたしは言い返す、けど──まだ三歳か四歳のとき、授ちゃんと結婚できないことを指摘されたときは、さすがにわっと泣き出してしまったっけ。そのとき樹は慌てていて、わけを聞いた先生に怒られて、めずらしくあたしに「ごめん」と言った。
「杏ちゃん、樹くんこう言ってるから、許してあげてくれないかな?」
「杏は授ちゃんと結婚するもん。おねえちゃんと一緒に三人で結婚するの」
「うーん、それができるかは先生も分からないけど──」
そんなやりとりをしていると、おねえちゃんと授ちゃんがお迎えにきた。あたしは授ちゃんに駆け寄って、「おっきくなったら、杏も授ちゃんの彼女になって、結婚できるよね?」と訊いた。きょとんとしたふたりに、先生が事情を説明して、「そっかあ」と授ちゃんはしゃがんであたしと目線を揃える。
「ごめんな、杏。俺は桃以外の人とは結婚しない」
「えっ……」
「俺と結婚しなくても、杏なら大丈夫だよ。杏だけの彼氏がいつかできる」
「授ちゃんがいいもん。おねえちゃんと半分こでいいの」
「俺が半分になれないんで。俺は桃だけの彼氏なんです」
「うー……っ」
あたしがまたじわりと涙目になって、「杏、ちょっと落ち着いて」とおねえちゃんにもたしなめられていると、「お前、結婚できないなら杏に優しくすんなよっ」と突然樹が駆け寄ってきて、授ちゃんに大声を出した。
「お前がそんなだから、杏も結婚とかバカなこと言うんだよっ」
「こら、樹くんっ。──ごめんね、授くん」
「いえいえ」と笑った授ちゃんは、「まあ君は頑張れ」と樹の頭をぽんぽんとしてから、「杏はこれからいろんな男と出逢っていくから」とあたしに微笑む。
「焦って俺にしなくても、俺がちっぽけに思える自分だけの彼氏がちゃんとできる」
「……ほんとに?」
「おうっ。とりあえず、少なくともすでにひとりはいるんじゃないかなー」
「えっ、誰? どこに?」
「それは杏が自分で見つけるものです」
あたしがむうっと頬をふくらませていると、「ほら杏、帰ろう」とおねえちゃんが帰り支度をうながす。あたしは仕方なく教室に戻り、自分のロッカーに行って、かばんや帽子を引っ張り出した。
「杏」と呼ばれて振り返ると樹がいて、「お前は結婚できる」と言い切るように言った。
「……できないって言ったの樹じゃん」
「あいつとはできないけど」
「じゃあ、」
「でも、ほかには……いるんじゃね。分かんねーけど」
「ほか……って」
「つか、だいたいお前、ねえちゃんの気持ちも考えろよ。何で彼氏を半分こだよ。嫌だろ」
「そう、かなあ」
「好きだったら全部欲しいだろ」
「樹は、好きな子いるの?」
「はっ? えっ、……いや、何で、」
「その子の全部欲しいとか思うの?」
樹はしばらく黙っていたけど、「……思う」とぼそっと答えた。あたしはうつむき、「そっか」とつぶやいた。そして、やっと自分の授ちゃんへの気持ちが「恋」ではないことをうすうす悟った。
授ちゃんが大好きだけど、おねえちゃんから横取りしたいわけじゃない。あたしはおねえちゃんと授ちゃんがつきあっていることが好きだし、それが一番大事だ。
それからあたしは、授ちゃんと結婚したいとは思わなくなった。
「樹って──」
デミグラスソースのオムライスに決めてメニューを閉じると、あたしはママを見た。
「昔、好きな子がいるようなこと言ってたけど」
「あら、そうなの」
「誰なのかは知らないや」
「杏かもよ?」
「えー……」
あたしが眉を寄せて首を捻ると、ママはくすっとして「食べたいの決まった?」と訊いてくる。あたしがうなずくと、「じゃあ、注文するわね」とママはベルを鳴らした。混み合っているので少し待たされたけど、ウェイトレスさんはやってきてあたしもママも注文を伝える。「かしこまりました」とウェイトレスさんが去ると、樹の好きな人かあ、とあたしは背もたれにもたれて、あいつにそんな存在がいるの忘れてたなあと思った。
「鈴ちゃんって、好きな人とかできたことある?」
あふれかえった桜が春雨で一気に散って、ゴールデンウィークが間近になった日、希望通り家庭科クラブに入れたあたしと鈴ちゃんは、放課後に家庭科室に向かっていた。
訊こうかな、訊いていいかな、としばらく躊躇っていたのだけど、ついに思い切って鈴ちゃんにそう訊くと、鈴ちゃんは睫毛をしばたたかせたあと、「杏ちゃん、好きな人できたの?」と答える前に訊き返してくる。
「あたしはいないけど、鈴ちゃんはどうなのかなーって」
「私は、どうなのかなあ。もう忘れられてるかもしれない人だから」
「忘れられてるって」
「まだパパが前のママと結婚してたときにね、近所にいた私のことかわいがってくれた人なの」
「そうなんだ」
「今はもう中学生かなあ。忘れてるよね、私のこととか」
「分かんないよっ。え、どんな人なの?」
「ちょっと不良みたいな感じ」
「不良。何か意外」
「そう? でも優しいんだよ。パパたちが喧嘩して、ああ嫌だなあって家を出てたら、『危ないぞ』って一緒にいてくれたの」
「優しい」
「優しいでしょ。もし憶えててくれてたら、また会いたいなあ」
「鈴ちゃんの昔住んでたとこって、遠かったっけ」
「電車で行けるけど。昔のママがたぶんいる町だから、ひとりで行くのは怖いかな」
「そっか……」
鈴ちゃんがその人のこと気になってるなら、会ってほしいなと思った。鈴ちゃんがこの町に来たのは、三年生になる直前だったから、まだ二年しか経っていない。本当に忘れられてしまう前に、あたしに協力できることがあればしたいけど──。
家庭科クラブに入った人はけっこう多かったようで、もう後ろのほうの席しか空いていなかった。背後は校庭に面して、燦々と日射しがあってまぶしいくらいだ。シンクや焜炉が備わったテーブルを囲んで、椅子がむっつ。たぶん、同じテーブルに着けば同じグループなので、あたしと鈴ちゃんはそうした。
同じテーブルに着いた人と緩く挨拶を交わしていたりすると、先生がやってきて今日はひとりずつ自己紹介をすると言った。さっそく何か作るわけじゃないかあ、と残念に思いつつ、あたしは自己紹介で何を言おうかと考えた。
クラブ活動の内容は、ゴールデンウィークが終わってから活発になってきて、家では何でもおねえちゃんがひとりで作ってしまうので、あたしは初めてまともに料理をした。
初めて作ったのは、定番だけどクッキーで、オーブンから甘い香りがこぼれてきたときにはわくわくした。作ったのは、バタークッキーとココアクッキーだ。ほかほかしたできたてのクッキーを食べるのは新鮮だった。透明のふくろとリボンが配られて、一緒にラッピングも習ったので、全部食べずに少し持ち帰ることにする。
「杏ちゃん、それ榎野くんにあげたら?」
当然のように、持ち帰るクッキーは授ちゃんに差し入れようと思っていたのだけど、クラブが終わって教室に戻る廊下で、鈴ちゃんはそんなことを言ってきた。思いがけない提案に、「えっ」とあたしは動揺してしまう。
「な、何で樹に」
「榎野くん、喜ぶんじゃないかなあって」
「あたしのクッキーなんかまずいとか言うよ。やだ。授ちゃんに会えたとき渡すもん」
「そっか。でも、榎野くん、クラブ頑張ってるみたいだよ」
「そうなの?」
「走ってるとこ、けっこうかっこいいよねって中沢さんたちが話してた」
中沢さんはクラスメイトで、今月、鈴ちゃんと同じ班の女の子だ。走ってるところがかっこいい。そうなのか。何か、おねえちゃんも授ちゃんのことをそんなふうに言っていたことがある。でも、樹がかっこいいなんてあたしには──
【第四話へ】
