マグネット-4

「あれ、杏と鈴じゃん」
 靴箱の前の階段にさしかかったとき、不意に聞き慣れた声がしてあたしと鈴ちゃんは振り向いた。そして、ふたりとも表情をぱっと輝かせてしまう。だって、来客用の靴箱の前にいたのは、ジャージすがたの授ちゃんだったのだ。
「わあ、授ちゃんだっ」
「授おにいちゃん、どうしたの?」
「んー、今年のチビたちの様子見に来た」
「陸上クラブの指導?」
「そんなえらそうなもんでもないけどな」
「今から行くの? 終わったとこ?」
「今から。桃も来てるぞ」
「知ってる! 担任の先生が言ってた」
「そうなのか。杏と鈴は帰るとこ?」
「うん。でも授ちゃんのこと見ていきたい」
「邪魔じゃなかったら」
「いいんじゃね。一緒に行くか」
 あたしと鈴ちゃんは一気にはしゃいで、クラブの荷物も持ったまま、上履きだった靴を履き替えた。そして、だいぶ背が高くなった授ちゃんのあとをついていく。
「桃はこの小学校じゃないんだよなー」
 背伸びしながら授ちゃんが言って、「おねえちゃんが六年生のときまで、まだ前の街に暮らしてたから」とあたしが答える。
「だよなー。中学で初めて会ったんだもんな。同小だったら顔くらい知ってたはずだし」
「授ちゃんに会えたし、こっち来てよかったよ。っていっても、あたしは前の街のことあんまり憶えてないけど」
「俺と桃がつきあいはじめたとき、杏はまだ二歳だったもんなあ」
「ってことは、授おにいちゃんと桃おねえちゃん、十三歳からつきあってるの?」
「そうだな。もうすぐ十年か。桃は何が喜ぶかなあ」
「授ちゃん、そんなのプロポーズに決まってるでしょ」
「杏さん、大胆なとこいきますな」
「えっ、プロポーズだよね? 鈴ちゃんなら、十年目についにプロポーズって感動しない?」
「嬉しいけど、授おにいちゃん、卒業してもっと陸上いそがしくなるだろうから、ゆっくり新婚とか味わえないかも……」
「あー……そっか。でも、いそがしいから同じ家に帰るようになるのは、何かほっとする気がするなあ」
 あたしがそう言うと、「なるほど」と授ちゃんはつぶやく。
「同じ家に帰るって、その考え方はいいよな」
 そんな話をしながら校舎を迂回すると、校庭があって運動部がまだ活動している。「授くん!」と手を振るおねえちゃんがいて、「おう!」と授くんはそこに駆け寄る。それがやっぱり速くて、あたしと鈴ちゃんではとうてい追いつけない。
 あたしたちを認めたおねえちゃんは「見学?」と訊いてくる。「授ちゃんがいいよって」とあたしが言うと、おねえちゃんは苦笑して、あたしと鈴ちゃんをベンチに座らせてくれた。
 今日は短距離をやっているみたいで、部員の子たちが勢いよくトラックを駆け抜けている。その中に樹もいて、なぜか視線がぶつかってしまい、あたしはぱっとうつむいてクッキーも入っている家庭科クラブのバッグを抱きしめた。
「このクラブに入るなら知ってる人が多いと思いますが、この小学校の卒業生である水瀬授選手です」
 顧問の先生が授ちゃんを紹介すると、部員の子たちは確かに授ちゃんを知っている子が多いのか、「すげえ」「本物」とかざわめく。何だか、その反応はあたしまで誇らしい。
「水瀬選手は短距離に実績があるので、今日はこのまま五十メートル走をやって、見てもらいましょう」
 先生の言葉に「はあい」とみんな答えて、「よっし、じゃあ、まずはひとりずつ走るとこ見せて」と授ちゃんはトラックのゴールのほうへと行った。授ちゃんが走るとこは見れないのかなあとか思いつつ見守っていると、樹の番がまわってきて、ちょっとどきっとする。樹はスタートラインに立って、一度正面を見据えたものの、躊躇を見せて、「あのっ」とゴールのところに立つ授ちゃんに向かって声をあげた。
「ん?」
「は、走って……もらいたいんですけど」
「え」
「その、……走ってくれないですか」
「あー、俺に?」
「はい」
「あとで走ってみせるよ」
「そうじゃなくて、そのっ……」
 顧問の先生が「榎野くん、」と引き止めかけたとき、スタートの笛を吹いていたおねえちゃんが「授くんと競争したいのかな?」とさっと空気を読んで樹に問う。
 授ちゃんと競争。何考えてんの樹、とあたしは思ったし、部員にも失笑する子がいた。それでも、樹はその空気に負けずに「そうです」ときっぱり返した。
 おねえちゃんと授ちゃんのあいだでアイコンタクトが行なわれる。そして、「まあ、そういうリクエストもありですな」と授ちゃんはスタートラインのところまで駆け戻った。
 身長も体格も筋肉も、何もかも違うし、勝てるわけないのに。でも、授ちゃんは樹を笑うことはせず、一緒にスタートラインで構えた。おねえちゃんはふたりの体勢が整ったのを見取ると、ピッと笛を吹いた。
 同時に、授ちゃんと樹が駆け出す。蹴られた地面から砂煙が舞う。授ちゃんは容赦なんてしなかった。一瞬にして差が開いて、授ちゃんはあっという間にゴールする。でも、樹も食らいつくみたいに走って、置いていかれてもあきらめず、全力でゴールした。
 そんな樹に、授ちゃんは何やら嬉しそうに咲って、息を切らす樹の肩に「やるじゃん」と腕をまわした。樹は授ちゃんを見上げると、「絶対いつか追い抜きます」とかかわいくないことを言う。「はは、楽しみだ」と授ちゃんは樹の頭をくしゃくしゃにした。
 それをじっと見ていたあたしは、何となくバッグを覗いて、ラッピングしたクッキーを取り出した。「樹、ほんとに頑張ってるんだね」とあたしが言うと、「うん」と隣の鈴ちゃんはうなずく。
「授ちゃんを追い抜くなんて、バカみたいだけど……」
「きっと、杏ちゃんのためだと思うよ」
「あたし?」
「杏ちゃんの理想が授おにいちゃんだから、越えたいんだよ」
 あたしは、樹をもう一度見た。授ちゃんにくしゃくしゃにされた頭のまま、少しぶっきらぼうな面持ちでこちらに戻ってきている。あたしは息を吐くと、ベンチを立ち上がって樹に駆け寄った。
「樹」
 樹は足を止めてあたしを見た。全力疾走の名残で頬がほてっている。何だかその顔にどきどきしてしまいながら、「これあげる」とあたしはクッキーをさしだした。
「……何」
「今日クラブで作った」
「………、何で」
「頑張ってるから、その──応援だよ」
「あいつにあげなくていいのか」
「授ちゃんは、おねえちゃんにもっとおいしいものをいつも作ってもらってるし」
 樹はあたしを見つめたあと、突き出されたラッピングをゆっくり受け取った。それから、「俺、あいつより速くなるから」とまっすぐ瞳を向けてくる。
「そしたら、あいつより俺のほうがいいって思わせる」
「……そんなの、」
「絶対思わせる」
「思わせなくていいよ」
「俺は、」
「そんなん、分かってるよ」
「えっ」
「樹が、かっこいいって──ちゃんと分かってるよ」
 樹が目を開き、あたしは一歩下がって「また何か作ったら持ってくるねっ」と言って、ベンチに戻った。鈴ちゃんがにこにこしてあたしを見て、「榎野くん、ほんとに授おにいちゃんのライバルになるね」なんて言う。「そんな簡単に授ちゃんには追いつけないよ」とあたしは言ったけど、「杏ちゃんの中では?」と鈴ちゃんに覗きこまれて──あたしは頬を染めて、「樹は頑張ってる」とだけ言った。
 幼稚園のときからの腐れ縁で。何かっていうと、あたしに突っかかってきたり、ちょっかいを出したり。いつも自然とあたしにくっつきまわる、何だか磁石のような男の子。いつも言い合いになるから、それは同極で反発しているかのようだけど。結局、互いに咬みつきあっているのだから、実はS極とN極だったりするのかな。あたしたちって、ほんとは相性悪くないのかも?
 空が緩やかにオレンジに染まりはじめ、流れる風に涼しさを感じる頃に、陸上クラブも解散になった。今日はおねえちゃんが夕食を作ってくれて、授ちゃんも一緒に食べていってくれるそうだ。「やった!」と喜ぶあたしに、「何ならあの子も呼ぶ?」とおねえちゃんが樹をしめす。「まだそんなんじゃないからっ」とあたしがじたばたすると、「『まだ』かあ」と授ちゃんはひとりうなずき、「彼はすでに十年前から杏一筋なのになあ」と続ける。
「……授ちゃん、樹のこと気づいてたの?」
「結婚できないなら杏に優しくするなというのはなかなか」
「授おにいちゃん、榎野くんにそんなこと言われたの?」
「言われましたね。あのあともたまにガン飛ばされてたしな」
「あの子は、ほんとに杏が大好きだよね」
「もうっ。みんなで勝手に言わないでよっ。そ、その──そういうのは、あたし、ちゃんと樹の口から言ってもらうまで、分かんないからっ」
 夕焼けのせいでなく、あたしが真っ赤になりながら言うと、三人はほがらかに咲う。その先で樹がこちらを見つめている。ああ、みんなが煽るから、何だかそれだけも意識しちゃうじゃない。分かんない。まだ分かんないけど。樹の気持ちなんか、樹が言うまで分かんないけど。
 それでも、樹のほうが、あたしの中ではかっこいい存在になりかけてる。それは分かる。
 夕風が汗ばんだ軆をさわやかに撫でていく。ふと樹がこちらに駆けてきて、すれちがいざま、あたしににっと笑ってみせた。そして、「お疲れ様でしたっ」と授ちゃんに声をかけると、そのまま走っていってしまう。
 あたしはそれをかえりみて、なびいた髪を少し抑えた。茜色の空にはうっすら月が現れ、一番星も光りはじめていた。

 FIN

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