太陽が堕ちて、空は闇に染まる。たぶん、夜が空本来の色だと思う。宇宙は暗い。それと同じように、あたしは夜の闇に紛れて、やっと自分をさらけだせる。
残業を解放されたときは二十時が近かった。「飲みにいこうよー」なんて誘いは、適度につきあいつつも、基本的に断る。
同僚の旦那や彼氏の話なんて、聞きたくない。
降りる駅は部屋の最寄り駅でなく、きらびやかな街だけど、そんなネオン街をちょっと外れて、ビルの隙間を歩いていく。閑散とした、もうシャッターの降りた店ばかりの中に行きつけの場所はある。
〈トワイライト〉なんていう、ひと昔前のような名前のバーだ。毎晩二十時開店だから、二十一時前の今、ドアノブを引っ張るとすぐに扉は開く。
「あら、また来たの?」
入って数段の階段を登って、薄暗い店内にあたしが顔を出すと、左手のカウンターにいたカンナさんが、長い睫毛と濃いアイシャドウの目をしばたかせて笑う。いつもの軽口だから、あたしはただ肩をすくめ、すでにカウンターにあった、見慣れた背中の隣に腰かける。
「相方?」
切れ長の目であたしを一瞥すると、「まあな」と透羽はケータイをいじる。操作のたびに黒のクロスのストラップが揺れる。
あたしは狭い店内を見まわし、背後のふたつのボックス席には誰もいないのを確認する。まだ時間が早いから、このくらいここでは普通だ。
「七音たちは来てないんですか」
メールに本気になっている透羽は放って、あたしはカンナさんに顔を上げる。あたしのお決まりであるファジーネーブルをさしだしたカンナさんは、「そろそろでしょ」と綺麗に巻かれたセミロングを耳にかける。
声は男なんだよなあ、と思っても、誰もカンナさんに性別は訊かない。ちなみに年齢も訊かない。
「今日、少し遅かったわね」
「仕事で」
「あんたもそろそろ、考えなさいよ」
「親みたいなこと言わないでくださいよ」
「いつも、遅れる理由は仕事じゃない。『デートでした』くらい言ってほしいわ」
あたしはふくれっ面で甘いファジーネーブルに口をつける。透羽がメールの手を休めてジントニックを飲む。
こういう店だから、低くかかっているのはやっぱりジャズだ。
「まだ、通勤中の彼女?」
カンナさんはそう言い、なめらかそうな腕を組んで、あたしはため息をつく。
「今度の春で、二年かあ」
「声くらいかければいいじゃないの」
「レズのおばさんに声かけられて、嬉しい二十歳ぐらいの女の子がいます?」
「二十代がおばさん名乗るんじゃないわよ」
「おばさん……でしょ? ねえ、透羽」
「名乗りたいなら名乗っておけ」
「う……」
「透羽はいつもクールねー。あたしが口説きたいわ」
「おばさんじゃ、ないっ。あたしはまだおばさんでは──はあ。ああ、何かもう次きっついのくださいっ」
飲み干したファジーネーブルのグラスをさしだすと、カンナさんはにやにやしながら、お酒を用意しはじめた。ぱたん、とケータイを閉じた透羽は、やっとあたしに顔を向けた。
透羽と知り合ったのも、このバーだ。この店はミックスだから、ゲイもビアンもノンケも来る。まあ、多いのはゲイだけれど。
その中でやってきた透羽は、一見では女でも、中性的ですぐ中身は男だと分かった。対象どっちだろ、と思って席も少ないのでカンナさん混じりに話してみていると、会ったこともないメル友から遠恋に昇格した彼女がいることを聞いた。
それが二年前の秋で、それから毎晩のようにここで無駄口をたたいている。
「紫衣さん、春で二年か」
「ん、まあね」
「俺も月那にはずいぶん片想いしたけどなー」
「初めは完全に男と思われてたんだよね」
「写メ交換も断り続けてさ。カムは死ぬ覚悟だったな」
「写メ交換しても、透羽はいけると思うけどね」
透羽は自分を見下ろし、「とりあえず」と胸を乱暴につかんだ。
「これ取りたい」
「手術すりゃいいじゃん」
「金がねえよ。それに……取ったら、同時に周りにもカムだろ」
「まあねー」
お酒と一緒にそんな話をしていると、入口のほうから話し声が聞こえてきた。「来たわね」とあたしたちのおつまみを変えていたカンナさんも身を乗り出す。
「不良高校生が来たみたいねー」
カンナさんの言葉に笑い声が上がって、顔を出したのは、くるくるした目が好奇心旺盛そうな少年だ。続いて、栗色の髪に金のメッシュを入れた、背の高い寡黙そうな男の子も現れる。
「ちーっす。お、未桜と透羽」
「どうもー」
「よお」
「ほかには?」
「まだ今日は誰も来てないわよ。いつものオレンジジュース?」
「よろしくっす」
「伊緒は今日は何にする?」
「俺は──じゃあ、ソルティドッグで」
了解したカンナさんはお酒を作りはじめ、ふたりはボックス席に行く。
すごく仲のいいふたりだけど、一応、カップルではない。伊緒はそうなりたいみたいだけど、七音が鈍感すぎて何にも気づいていない。ちなみに同い年ではなく、七音は高三で伊緒はフリーターの二十歳だ。
「ほんと、進路なんてやだ。俺もフリーターやろっかなー。金欲しいし」
「俺は学費貯めてるんだけど」
「あー、そっか。何したいんだっけ」
「福祉系」
「福祉……か」
「七音は向いてない気が」
「るさいなー。何となく分かってるよ。あー、ほんとどうしよ」
「昔なりたかったものに立ち返ってみるとか」
「……漫画家?」
あたしは三杯目であるカクテルを噴きそうになった。透羽も喉の奥で笑いをこらえる。
七音は、あたしたちにチョコやミックスナッツを投げつけた。
「何か笑ってる! 笑ってるよ、伊緒」
「確かに、あんまり現実的じゃないかと……」
「昔でしょ、今は別になりたくないよ」
「漫画家とかデフォすぎね?」
「あの子はサブカルしか書けないよね」
「聞こえてるんですけどー」
「はいはい、七音はこれでも飲みなさい」
カンナさんが渡す“いつものオレンジジュース”はスクリュードライバーのことだ。七音はこれをいつもごくごくと飲んで、終電に合わせた閉店の零時頃には、しょっちゅう酔っぱらっている。
泥酔のときには、伊緒の部屋に泊まっているみたいだ。それで何にもないんだからねと、あたしと透羽はよく目を交わす。
「あーあ、進路より恋愛したいなー。カンナさん、もっとここ出逢いの場にしてよー」
「うちはまったりするバーなのよ」
「ちぇっ。年齢確認で入れてもらえないんだよなあ」
「へえ、卒業したらここ来ないのか」
透羽がにやにやすると、七音はせっかくのかわいいお顔をくしゃっとゆがめて、「そうじゃないけど」とオレンジ色をがぶりと飲む。
「ほかの店にも顔出したいかな。ゲイナイトとか行ってみたい」
「あの雰囲気、あたしはダメだわ……」
「何で未桜がゲイナイトなの」
「あたしが行ったのは、ガールズオンリー。もうね、みんなとりあえずやる気だわ。しかも、たいていやって終わりだわ。女って怖い」
「伊緒も、そういう空気がダメだから行かないの?」
突然顔を向けてきた七音に、「えっ」と伊緒は面食らう。
「伊緒は二十歳だから、ぜんぜん行けるのに。何かよさげなの持ってきて紹介してよ」
あたしと透羽は目を交わし、無邪気な残酷に息を吐く。七音の無垢は、本当に罪だと思う。
「透羽は、月那ちゃんと出会い系だよね」
「まあな。性別も偽れる安っぽいとこだけど。月那も登録したとき高校生だったし」
「出会い系か……」
「それは、危ないからやめとけよ」
神妙なあたしを透羽が止める後ろで、七音がうるさく伊緒を揺すっている。
「伊緒ー。ねー、俺が卒業したら一緒にゲイナイト行こうよー」
「俺、は……その、バイだし」
「うー、やっぱ、できれば女なの?」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、俺と男漁りしようよー。ダブルデートしようよー」
何とも言えないでいる伊緒に、七音はご機嫌斜めだ。あたしと透羽は肩をすくめて、おつまみのクラッカーをつまむ。
「あいつ、酔ってきたぜ」
「酔うと、さらにむごいこと言うよね」
「伊緒もとっとと思い切ればいいのにな」
「何年? あのふたり」
「さあ。まあ、俺も月那に焦れたかったけどな。未桜、お前もいい加減にしろ」
「分かってますよ」
あたしはカクテルを空にして、頬杖をつく。
紫衣さんに片想いを始めて、あたしももう一年半近くなる。進退考えないとなあ、と思っても、ずるずるとただ想っている。
そのうち、何人かほかの客も現れ、店内はちょっとだけ騒がしくなった。
毎晩、こんな夜を過ごしている。このときだけは、あたしも、透羽も、伊緒も、七音もおもむくままの自分でいられる。
闇と同じ色の自分。まだ世間の暗がりにいる自分。夜に紛れないとさらせない自分。
そんなあたしたちを〈トワイライト〉は包みこんで、受け入れてくれる。
そんなあたしたちの居場所に柳さんが現れたのは、十二月に入り、冬が始まって間もない頃だった。
──あたしがレズビアンだと自覚したのは、高校生のときだ。女子高だった。周りは普通に女の子同士でハグしたり、手をつないだり、くっついたりしていた。
でも、あたしはそれに単純に浮かれることができなかった。むしろ、絶望的な気分になった。
あんたたち、分かってんの。そういうのを一生続ける気、あるの。どうせ、卒業したら平然と男を作るんでしょ。
あたしは、絶対にそうできないのに!
好きなのは、どうしても女の子だった。高校を卒業しても、男とつきあうことはなかった。ただ、ガールズオンリーのイベントやクラブで、軆だけ満たした。柔らかい唇を重ねて、白い乳房を手のひらに包み、細い腰をたどって、舌と指を黒い草むらにもぐらせて──感じている女の子の甘い声を聴くのが好きだった。
大学を卒業してOLになって、どうしてもと言い寄ってきた男がいた。不本意なカムをしてでも断ろうとしたが、腹いせに言い触らされたら、この不況の中で就職できた会社で、どうなるか分からない。
決して悪い男ではなかった。周りもそれとなく応じるのをほのめかした。だから仕方なくつきあったけど──友達だったらいい奴なんだけどなあ、という以上の気持ちはなかった。
手をつながれても、さり気なくほどく。キスされそうになっても、さっとうつむく。彼の部屋に来ても、そういう雰囲気になる前に帰る。結局、向こうがあたしを振ってくれた。
そんなわけで、あたしは昼間は潔癖な女を演じ、二十六の春に紫衣さんに出逢う。紫衣さんは、二十歳前後の女の子だ。大学生、だと思う。いや、実は本名も知らないのだ。一年半前の去年の春から、通勤の同じ時間の同じ車両で見かけるようになった。
ナチュラルブラウンの髪をひとつに束ね、派手な化粧や服装もないのだけど、ぱっちりした瞳でいつも真剣に参考書を読んでいる。かわいいなあ、と思っているだけだったのに、いつしかかなり本気で想うようになってしまった。勝手に呼んでいる名前は、よく紫色の服を着ているから。
紫衣さんに、声だけでもかけてみたいけれど。やっぱり、距離や年齢が邪魔をする。自分が男だったらと悔しくさえなる。男だったら、まだナンパという行為ができる。
同性間だと、気になったって声をかけることすらできないのだ。まあ、友達になりたいだけなら、声をかけるのは、あるいは男より自然かもしれない。でも、あたしは──紫衣さんを、やっぱり、抱きたい。
【第二話へ】