ミメシスの夜-2

 そんなあたしを一番よく知って、根気よくなぐさめてくれるのが透羽だ。あたしが昼間は自分を隠しているように、透羽も昼間は心と軆の不一致を殺して、女を演じているらしい。
 昼間の透羽のことは、よく知らない。あたしもそうだけど、昼の偽った自分のことはあんまり話に出さない。実際、すごく気を許せると感じているのに、あたしと透羽は〈トワイライト〉以外で会うことはない。
 透羽は幼い頃から、自分は「女ではない」と感じて生きてきた。赤いランドセル、親が買い与えるスカート、曲線を帯びてくる軆。「女」としてあつかわれて成長する自分に、ただ愕然としながら育った。
「男だ」とはっきり意識したのは、親友に彼氏ができたときだったそうだ。半端なくショックで、初めて親友に恋していたことに気づいた。いつも一緒にいた親友で、その子のことは自分が守ると信じてきた。でも、自分は選ばれることのない「女」で──
 そのとき、まさしくあたしみたいに、絶望した。心と軆の性別が違う現実は、あまりにも重かった。
「俺の『女の服が着たくない』っていうのは、ファッションじゃないんだよ。だから、ファッションとして中性的な奴らとは一緒にすんなって思う。俺は自分の肉体が憎いくらいなんだ」
 二十歳を過ぎるまで、そんな価値観しか持てなくて、逆にクラブにもサイトにも行かなかった。でも、例の親友の子が、すでに別の男だけど結婚したのを機に、自分もパートナーを作る努力ぐらいしようと思って、よく仕組みも分からず、ただ性別を偽って登録できる出会い系で月那と名乗る女の子と知り合った。
 このとき透羽は二十三歳で、月那ちゃんは十六歳だった。月那ちゃんはいわゆるメンヘラだった。誰でもいいから話を聞いてくれる人が欲しくて、透羽は男を演じて返信した。
 透羽さんみたいな人が彼氏だったら、という月那ちゃんの言葉が痛かった。とっくに透羽は月那ちゃんに恋をしていた。でも、自分が女の軆だと知ったら──。
 焦れったい友情期間は、五年くらい続いた。月那ちゃんが成人したのを機に透羽にメールした。
「『彼女として認めてください』……だったかな。どう返せばいいのか、分からなかった。認めるも何もねえよ。でも、俺はやっぱり女だし……一番騙したくない子なのに、騙してることがのしかかってきた。嫌われたくなかった。もう月那を失くすなんて考えられなかった。騙しつづけることも考えた。けど……全部をメール送信したときのビビった俺っつったらなかった。月那からの返事は──」
『透羽さんが男の人なのは、私がきっと一番知ってるよ。
 体が女の人でも、私は透羽さんが男の人として好き。』
「どんだけ救われたか……。今すぐ月那を抱きしめたくなった。会ったこともないのにな」
 それから、透羽と月那ちゃんは恋人同士になった。好きな人を「守りたい」と思う透羽には、語弊があるかもしれないけど、心を病んだ月那ちゃんはいっそう愛おしいらしい。
 現在、透羽は三十二歳、月那ちゃんは二十五歳になる。相変わらず会ったことはないらしいが、写メはさすがに交換したそうだ。月那ちゃんがどんな子なのか、あたしには見せてくれないけれど。
 好きな人の写メを持っているというのが、何だかあたしはうらやましい。まさか、紫衣さんを盗撮するわけにもいかないし。たまに車両に乗っていないときだってあって、そういう日は本気でへこむ。ちなみに、七音が一緒ではないとき、伊緒に「写メ持ってる?」という話題を振ったとき、彼は「写メはないけど」とふたりで写ったプリクラを見せてきて、あたしはちょっと泣いた。
「男だけでプリクラって撮れたか?」
 あたしを挟んでカクテルを頼んでいた透羽は首をかしげる。
「ああ、ゲーセンじゃなくて、映画の特設の奴で」
 あたしはパイナップルの味のカクテルを飲みながら、眉を寄せた。
「何、あんたたち一緒に映画まで行くの」
「まあ……」
「耐えられない。紫衣さんと映画行ったら、あたしは耐えられない」
「何が耐えられねえんだよ。でも──お前さ、気持ち伝えていいんじゃねえの」
 メッシュで瞳を陰らせた伊緒はカクテルに口をつけ、一瞬ぼんやりした目をしたあと、「言えないよ」とため息と吐き出した。
「七音は俺を友達としか見てない」
「告ったら変わるってあるぜ」
「変わらないよ。むしろ、伝えたら友情を裏切ってると思われる」
「ネガティヴだなあ」
「裏切ってることにはならないだろ」
「うまく言えないけど。七音は俺をそういうふうには見れないというか……大事には想ってくれてる。でも、あくまで友達だ。打ち明けたら、それが気まずくなる」
 あたしと透羽は目を交わした。あたしたちとしては、伊緒と七音は祝福なのだけど。
「まあ、七音はまだガキだしな。あきらめずに想ってたら、いつかってのはあるかもしれないぜ」
「どうだか」
 伊緒は苦笑してグラスをかたむけた。あたしはボブの髪先をいじって、「ほかの人は考えないんだね」とカクテルを飲みこむ。
「お前が言うか」
「るさいな。どうなの、伊緒」
「考えないかな。何か、七音を好きでいることに安定したし。片想いに慣れたし……それも、告白したくない理由かも。いまさら、七音とつきあうとか分からない」
「そんなことに安定すんなよ……」
「悪くないのになあ、伊緒と七音」
 そんなふうに、伊緒に想われている七音の口癖は、「恋がしたい」だ。隣にいるんだよ、とあたしと透羽は言いたくてならないのだが、伊緒の穏やかな気持ちも尊重したい。
 七音は今年受験生で、昼間は勉強で死にかけているらしい。息抜きにここに来て、伊緒に甘えたり、あたしや透羽に絡んでいる。恋がしたいと言いつつ、カムはやっぱりしていないようだ。
 昼、七音が制服を着て教室でお勉強をしているなんて、笑える。あたしがデスクで書類をさばいているのも、向こうからしたら笑えるのだろうけど。
 七音は、あまり恋が長続きしない。出逢って今まで、よくて一ヶ月だろうか。早いと一日だ。たいてい、もぐりこんだイベントで知り合うみたいだから、刹那的でも仕方ない。そして、恋が散ると本当にガキっぽく〈トワイライト〉で荒れる。それをなだめるのも伊緒なのだから、本当に伊緒という奴は──。
 つきあっているあいだは幸せ満開でのろけまくる。キスをしただの、部屋に泊まっただの、「聞いてねえよ」と透羽は煙草を吸いはじめる。あたしは、笑顔で話を聞く伊緒が心配になるばかりだ。
 伊緒の言い分がまったく分からないわけでもない。〈トワイライト〉に来た人に、仲良く話しているから伊緒は恋人かと問われると、あっけらかんと「友達だよー」と笑う。
 何にせよ、それでもどうせ、七音はいつか伊緒に落ち着くと思っていた。落ち着いていいほど、伊緒の気持ちも知っていた。結局は、七音が本気になれるのは伊緒だと──そう、思っていた。
「うわーっ、寒かったあ!」
 十二月に突入して数日が経ち、寒風も本格的になってきた。ぐるぐる巻きにしたロングマフラーにこもった声で叫びながら、感覚の消えかけた手で〈トワイライト〉の扉を開けた。
 時刻は二十時半前で、けっこう早い。でもすでに店内はいつも通り薄暗く、ジャズがかかっている。
「いらっしゃい」
 今日も髪を完璧に巻いたカンナさんは、カウンター内でなくカウンターの椅子に腰かけていた。白いホルターネックに、エスニックな模様の水色のロングスカートを合わせて脚を組んでいる。
「相変わらずのプロポーションで」
「あんたは、冬になると太ってくるわねー」
「着る枚数が増えるだけですよ。何ですか、今日はお客の気分ですか」
「ちゃんと仕事中よ」
 カンナさんがボックス席を示し、見ると、背広の中年の男の人が、申し訳なさそうに髪が後退してきた頭を下げた。
 でかい態度を見られたのが気まずくなったあたしは、ちょっと咳払いをして、きちんと頭を下げると、マフラーをほどいて荷物をカウンターの下に蹴りやった。
「勝手に何か飲みますよ」
「ちゃんとチェック入れるのよ。──じゃあ、ネットの評判で来てくださったのね」
「そうですね、はい。その、派手なところや、若者が多いところは気が引ける性格でして……」
「ふふ、嬉しいお言葉ね。ここはのんびりするバーだから」
「しかし、やはり……緊張してしまいますね。そのお嬢さんもお若い」
「この子に気なんか遣わなくていいのよ」
「あたしも客ですよ」
「こういう場所は初めてなのかしら?」
「はい、その……ずっと、押し殺してきました。いや、認められなかったのかもしれません。しかし、このままではと」
 そのとき、勢いよく扉が開いた。やっぱりまずはファジーネーブル、と用意していたあたしは振り返り、「七音」と険悪なお顔をした友人の名前を呼ぶ。
 伊緒は一緒じゃない──というか、三日前から彼氏がいたはずだけど。
「金!」
「あ?」
「あの野郎、金取りやがった!」
 あたしは無視して、ピーチリキュールを探すのに戻った。
「売りだったの?」
「終わってうとうとしてたんですよ。今にも寝そうで。でも、そいつ、もう俺が眠ったと思ったらしくて、そしたら俺の荷物あさって金取ってたんですっ」
「あらあら」
「でも、何でかなーっ。切れて喧嘩して取り返せばいいのに、寝たふりとかした自分が許せないっ。俺の諭吉! すぐ連れ立って家出して、銀行までお迎えにさせる諭吉!!」
「寝たふりしたあんたが負けねえ」
「カンナさん、今夜おごってくださいよー」
「そうねえ、未桜に訊きなさい」
「なぜあたしっ?」
 ピーチリキュールの瓶を手にしていたあたしが、急いで突っ込むと、七音はカウンター内に入ってきてすりよってくる。
「未桜おごってー」
「ええいっ、男が近づくなっ」
「傷心の俺におごってー」
「自分の財布に訊けっ」
「ひと晩くらい、おごればいいじゃん!」
「意味が分からんわ!!」
「ごめんなさいねえ、この子が来るといつも騒々しくて」
 あたしの黒のモヘアの腕を引っ張っていた七音は、初めてその中年さんの存在に気づいたらしい。「誰?」と急にまじめにささやかれ、「客でしょ」とあたしは冷蔵庫のオレンジジュースを取り出す。
「えー。何か俺、恥ずかしくない? バカみたいだったじゃん」
「すごく恥ずかしいし、みたいじゃなくて、ほんとにバカだね」
「うわあっ、もうっ。今日ついてないっ。えー。えー。俺、普段はこんなたかる奴じゃないんですよー。ちゃんと慎ましく小遣いで生きてるんですよー」
 完璧に臆面していた中年さんだけど、変な言い訳をする七音に、やっと少し咲った。それを見たカンナさんが、「七音、お相手バトンタッチよ」とスツールを立ち上がる。
「はい?」
「一見さんをなごませたご褒美よ。一杯くらいおごるわ。いつものでいいわね?」
「うおっ、やはり女神はカンナさん。未桜ではなかった。何ですか何ですか。カンナさんの友達さんですか」
「いちいち、未桜が何とかって聞こえた……」
 つぶやいてみたけど、七音は気にせず中年さんの隣に行ってしまった。代わりにカンナさんが入ってきて、「作るわよ」と言われたので、あたしはカウンターを出てスツールに腰かけた。

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