romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

夜に羽音-1

『不倫で一番可哀想なのは子供だ』なんて、分かったような意見が俺は嫌いだ。
 実際に親がどこかの異性としけこむ家庭で育ってみろよ。そんな親は帰ってこなくていい。いっそ愛人と結婚でもして、家庭から消えてほしい。『おとうさんとおかあさんがどうして揃ってないの?』とか何とか、「可哀想」なことは思わない。
 不倫する奴なんて、害虫の臭いがして、家族は事を察している。害虫は消えたほうがいい。親が嫌悪すべき対象だなんて可哀想だ、なんてまだ言う奴は、よほど俺のような子供を憫笑したいのだろう。
 俺の父親は、昔からかあさん以外の女とつきあっている。本人は隠していたつもりかもしれない。が、本のあいだにはさまった写真とか、帰りが遅かったときの香水の匂いとか、子供心に違和感はあった。
 その違和感が嫌悪感になったのは、たまにやっているみたいに、とうさんの財布から千円札を盗ろうとしたときだ。女の子の写真が入っていた。小学四年生の俺と変わらないぐらいの女の子だった。
 誰だろう、と思ったが、以前写真で見た女の面影があって、その女の娘だと分かった。とうさんとの子供かまでは分からなかったけど、吐き気がした。
 あんな奴、こいつらのところに行って、この家から消えればいいのに。俺はこの家で、かあさんと生きていければそれでいい。
 そう思っていた矢先のことだった。かあさんが病気を患っていることが分かった。ステージ3の乳癌、三十代のかあさんは進行が恐ろしく速かった。とうさんとふたり残されるのがめちゃくちゃに嫌で、俺は学校もサボって、かあさんの見舞いに行った。
「新しいおかあさんと仲良くね」
 かあさんは哀しそうに咲って、俺同様、全部知っていたことをほのめかした。そして、癌発見から一年さえ持たず、逝ってしまった。俺は中学生になろうとしていた。
 かあさんがいなくなり、とうさんはいっそう夜な夜な女に会いにいった。
 夜が深まるほど、神経がとがっていらいらする。宿題を終わらせてとっとと眠ってしまおうとベッドにもぐっても、脳がうごめいて意識が止まらない。
 やがて、かちゃっと鍵を開ける音がする。家の中にこそこそと入ってくる。足音。物音。とうさんが家の中を動きまわる音がするあいだ、細胞を逆撫でられて発狂しそうなほどいらつく。
 部屋に虫が入りこんで、どこかでずっと、羽音をかき鳴らしているような不快感が耳から神経を引っかく。とうさんが家にいると、鼓膜が鋭敏にその音を拾ってしまい、どうしようもなくむしゃくしゃする。
 あいつが生きて音を立てていることがムカつく。かあさんをみじめな想いのまま死なせやがって。お前が死ねばよかったんだ。二度と帰ってこないのは、お前でよかった。
 ろくにとうさんとは会話せず、かあさんの仏壇はいつも俺が手入れして、受験が過ぎて高校生になった。受験はあんなにみんな大変そうなのに、俺はその苦労より家庭内のほうが苦痛で何も感じなかった。
 消えろ。お前なんか、家の中から消えろ。
 とうさんを警戒してそう思うことも徒労に思えて、無言で棘を抱えるより、無気力が先立つ人間になった。
 友達はこれまでにもいたけど、信頼できるとは思う奴はいなかった。でも、ぽつぽつ家のことを愚痴れる友人も出てきて、そういう奴は同情なんかせずに「何かマザコンだな」と揶揄ってきた。俺はそれに対してちょっと咲って──何だか、咲うということは、最近やっとできるようになってきた。
 あともう少しで高校一年生が終わりそうな、二月の冷えこむ朝のことだった。顔を洗ったり用を足したりして、いったん部屋に戻ると、ブレザーの制服に着替えた。ネクタイまで整えて部屋を出ると、リビングから物音がして、視界にゴキブリが横切ったみたいにさっと眉が寄る。
 表情を硬くしてキッチンに行くと、つながるリビングでとうさんが新聞を読んでいた。俺は苦々しい沈黙をつらぬき、自分の朝食だけを用意する。そしてキッチンに立ったまま、マーガリンが香ばしく溶けるトーストや柔らかい塩味のベーコンエッグを食べた。
 息が苦しい。カフェオレを飲んでも、喉が乾燥している。同じ空気を吸っているだけで吐きそうだ。
 もう帰ってこなくていいのに。女のところにずっとしけこんでいればいいのに。本当は俺も、高校なんか行かずに働き、一刻も早く自立したい。
莉雪りゆき
 不意に名前を呼ばれ、俺は舌打ちを殺して、「何」ととうさんを見もせずに答えた。がさっと新聞を閉じてたたむ音がした。
「今夜、家にいるか」
「………、いるけど」
「じゃあ、会ってほしい人がいるんだ」
 酸欠気味のめまいをこらえるために、ぎゅっと目をつぶった。
「……何で。会わなくても知ってんだけど」
「会ったことはないだろう」
「興味ねえんだよ。勝手にいくらでもひとりで会ってろよ」
「だが、いきなり同居するのは刺激があるだろう」
「は?」
 やっととうさんを見た。でもとうさんの面を見ていたくなくて、すぐに目をそらす。
「……同居?」
「そうだ。とうさんな、その人と結婚したいと思ってるんだ」
 息遣いが、すーっと浅くなった。かあさんがいなくなって、こいつがそう言い出すのは分かっていた。だが、せめて俺がこの家を出てからにしてほしかった。そしたら二度と帰ってこないし、もう自由にすればいいと──
「っ……ざけん、なよっ。何でそんな女がこの家に来るんだよっ。ここにはかあさんがいたんだぞ、無神経もいい加減にしろ!」
「な、何だその言い方はっ」
「自分がどんだけ最低ぬかしてんのか分かってんのか⁉ じゃあ待てよ、俺がこの家を出るのも待て。そしたら、」
「お前は、俺の稼ぎでここで生活できてるんだぞっ。そんなことを言う資格あるかっ」
 俺は目を開いてとうさんを睨みつけると、カフェオレの入っていたカップをシンクに投げこみ、キッチンを離れた。「莉雪っ」とまだ名前を呼ばれているが、知ったことではない。
 胃がむかむかして、怒りでぶっ倒れそうだ。何だよ。何なんだよ。何であいつが死ななかったんだ? どうして死んだのがかあさんなんだ? しょせんあんな奴に生かされている自分自身も忌ま忌ましい。噛み合わない歯車がきしむ音が、頭の中を圧迫する。
 部屋にあったかばんをつかむと、まだ冷たい空気の中に緩く朝陽が射す外に出た。廊下を早足で抜け、エレベーターで五階から一階に降りる。通勤通学の人を見かける道を、駅までつかつかと歩いていく。
 整髪料とか香水とか、いろんなにおいが混ざる満員電車に乗ると、イヤホンからスマホで音楽を聴いて、かきむしられた神経を無理やりなだめた。
「莉雪、おはよう」
 学校の最寄りで電車を降りると、少し時間があったので、切符売場のそばの壁にもたれてしゃがんだ。イヤホンを引きずり落として、息を抑える。
 泥水を顔面に浴びたようなひどい気分だった。頭の奥を憂鬱に刺され、まぶたの中がかさかさして、まばたきがつらい。一時間目どっかでサボるか、とか思いつつ、はっきりしない視線を「おはよー」と行き交う制服の群れに投げていると、不意にそんな声が聞こえてきた。
 顔を上げて、何度かまばたきをすると瞳が濡れ、乾いていた視界に俺と同じ高校の女子制服が映る。
「……花蘭からん
 相手の顔を見取って、何秒か経って、つぶやく。
 同じクラスの花蘭だった。今日も黒髪は艶やかに梳かれ、勝気な瞳に俺を映している。豊かな胸にはリボンが乗っかって、手の甲や膝はなめらかに白い。
 美少女、というより、美女、といった感じの女だ。俺は彼女にクリスマス前に告られたけど、「お友達なんで」とロマンチックな童貞卒業より、誰も帰ってこない静かな聖夜を選んだ。
「また何かあったの?」
 俺は「あー……」と頭をかきむしったが、花蘭は事情を知っている友人なので、簡単にひとこと言う。
「再婚かもしれん」
 花蘭は目を眇め、かがめていた腰を伸ばして、くびれに手を当てる。
「想定内じゃない」
「うざいだろ。再婚するなら勝手にやって、俺は別に暮らしたい」
「違うの?」
「ああ。あいつは同居で考えてるらしくて」
「……それは複雑ね」
「だろ? あいつは俺なんか気にしてねえからそうなんだろうけど、たまんねえよ」
「で、喧嘩?」
「朝からな。おかげで気分最悪。保健室でサボるかなー」
「学校には来なさいよ。出席日数もあるんだから」
「だなー……」
「立てる?」
「おう」
 ひょいと立ち上がると、一気に俺が花蘭を見下ろすかたちになる。
ひとつ息をついて、愚痴ってちょっと楽になっていると思った。「聞いてくれてありがと」と素直に言うと、花蘭は俺に横目をして、「いーえ」と肩をすくめた。
 駅を出て、花蘭と並んで、まだ咲かない桜並木を歩いていった。風は冷え冷えとしていても、陽だまりはほのかに暖かい。周りのにぎわいは、卒業をひかえた三年生が登校していないので、やや落ち着いている。
 校門も靴箱も一緒に抜け、同じ教室に到着すると、「おはよー」と俺にも花蘭にもそれぞれ声がかかる。それに応えながら、自分の席へと花蘭と別れ、窓際のつくえにかばんをおろすと、「莉雪、はよっ」といきなりヘッドロックをやられた。
 香水の独特の香りで、それが瑞海みずみなのは分かっているので、「おはようございますー」とされるがままになっておく。「花蘭と一緒だったな」と瑞海は俺を解放すると、俺のつくえに身軽に腰かける。
「駅で会った」
「待ち合わせ?」
「偶然」
「ふうん。振っといて仲良しって、残酷だよなあ」
「……そういうのはよく分からん」
「花蘭で童貞捨てるとかさ、スイートルームで童貞捨てるようなもんだと思うぜ」
「瑞海は花蘭とできるのか?」
「友達だから無理」
「一緒じゃねえか」
「俺は、中学から花蘭と友達だし。高校から知り合ってたら、絶対口説いてたな」
「花蘭は高校デビューだっけ」
「そうだね。昔太かったし、髪とかばさばさだったし──」
「瑞海、私の黒歴史を掘り返すのやめてって言ってるでしょ」
 そう言いながら、いつのまにやってきた花蘭が、瑞海の天パの茶髪を軽くはたく。瑞海はくっきりした二重まぶたで大きく見える瞳を花蘭に向け、「そこはもう知られてるだろ」とにやにやする。そして、「なあ?」とこちらに振ってきて、何とも返せずにいると、花蘭も俺に目をやる。
「保健室、行くの?」
「えっ。ああ──どうしよ。仮病でもいいなら行くんだけどな」
「仮病ですって言ったらダメでしょ」
「莉雪、また無気力モード?」
「朝から親と喧嘩してきたって」
「元気だね。俺、朝は家族とか視界から透けるわ」
「俺もそうしたいけど。いると虫唾が走って、過敏になるんだよ」
「で、何で喧嘩?」
「会わせたい人がいるって言われてさ」
「例の愛人か」
「結婚して同居したいらしい」
「朝からステーキみたいな話題」と瑞海は笑い、俺はそんな瑞海を小突いて「それで」と思い出したことをつぶやく。
「夜は家にいるかって言われたんだよな。てことは、今日はまっすぐ帰れば愛人に会わされるのか。うわー、帰りたくない」
「瑞海、今日は莉雪と遊んでやったら?」
「俺、今夜合コンなんだわ」
「莉雪は連れていけないの?」
「いや待て、俺、合コンもけっこうきつい」
「男は数揃ってんだよ。女の子がひとり足りないらしいので、花蘭さんどうですか」
「嫌」
 瑞海はすらりと背も高くてモテるぶん、派手に女の子と遊ぶタイプだ。一定の誰かとつきあうより、不特定に数人をたらす。女の子から、信頼はないが人気はある。男にとっては普通にいい友達なのだが、彼女持ちは若干警戒するようだ。
「まあ、帰って……引きこもるか」
「クラブでも行って、朝帰りすりゃいいじゃん」
「俺はそういう柄じゃない」
「時間つきあえたらいいけど、私も遅いと親がうるさくて」
「ありがと。ま、花蘭も言ったけど、想定内だよな。俺が出ていくまで待てるなら、はなから不倫なんかやらねえよ」
 そのとき、雑談を区切るように予鈴が鳴った。「話、いつでも聞けるから」と花蘭は励ますように俺の腕をたたき、「またあとでなっ」と瑞海も軽捷につくえを降りて自分の席に向かう。
 俺は椅子を引いて席に着くと、かばんの中身をつくえに移しておいた。ほかのクラスメイトも次々と着席し、本鈴と同時に担任がやってくる。暖房をつけてから朝のホームルームが始まり、特に日直でもない俺は、三階の窓から薄い水色の空を眺める。
 学校は、別に大好きじゃないけど、家に較べれば気楽だ。特に高校生になってからは、瑞海や花蘭のおかげで咲うことも増えた。

第二話へ

error: Content is protected !!