Koromo Tsukinoha Novels
そんな連休明けから、実鞠は「これから一緒の車両乗っていい?」と切り出してきた。いつも朝は同刻に家を出るが、何も言わずに駅までの道のりで距離を置き、これまでは別の車両で通学していたのだが。「はあ」と生返事で答えた俺は、必然的に朝のラッシュからも実鞠を守るようになった。
家の中でも、ちょっとずつ実鞠は俺に懐きはじめた。とうさんと志保里は、どちらかと言えば、その変化には歓迎するより当惑していた。
そこまで実鞠はべたべたするわけではないのだが、食事のとき俺の無言が続いていると話しかけてくるし、同じクラスゆえ宿題も同じなので「リビングで一緒にしようよ」と誘ってくる。
気まずいんだけど、と初めはとうさんと志保里の手前思っていたが、次第に慣れてくるもので、「宿題ひとりじゃ分かんねえだけだろ」とか憎まれ口をたたいて、実鞠を受け入れるようになってきた。
とうさんと志保里のことは、やっぱり好きになれない。でも、実鞠は親のことを引き合いに出して俺を非難しなくなった。だから、俺も何となく親がどうこうだからと言わなくなった。
気持ちが変わったわけではない。とうさんは志保里と昔から深い仲だったと思うし、俺とかあさん、そして実鞠の父親のことも踏み躙ったと思う。強いて言えば、実鞠のことだって、都合のいい話で納得させて踏みつけている。
実鞠が俺のそんな見方をどう思っているのかは分からなかったが、親を見る目が違うからと言って、俺を疎外することはしなくなった。実鞠がとうさんと志保里の仲が唾棄するものとは思っていないのは、ふたりへの変わらない態度で分かる。でも、俺が自分と同じように思っていないのを、干渉もしなくなった。
家の中でそうなのだから、実鞠は教室ではもっと俺のあとをついてくる。「あの日はごめんねー」と軽く謝る瑞海に、「莉雪と話ができたからよかった」と実鞠はにっこりした。「話?」と花蘭がこちらを見上げ、「まあいろいろ」と俺は濁しておく。
瑞海はクラスが違うし、実鞠には実鞠の友達がいたから、いつも四人でいるということはなかったが、前より俺と実鞠の仲がやわらいだのは瑞海にも花蘭にも感じ取れるらしい。花蘭と学食で昼食を取っていると、「もしかして」と花蘭は首をかたむけてきた。
「実鞠さんのこと、好きになっちゃった?」
カツカレーを食っていた俺は思わず咳きこみ、「何でだよ」と眉を寄せる。
「そんなふうに見えるから」
「見なくていいよ」
「私、安心してていいの?」
「安心も何も──」
そこまで言ったとき、「莉雪ーっ」と呼ぶ声がして、俺は学食の中を見まわした。入口付近で、弁当を手にした実鞠が、俺と花蘭を見つけて笑顔で手を振っている。
俺が無意識に手を振り返すと、実鞠はこちらへと近づいてくる。俺は咲ってしまって、「単純な奴だよなあ」と花蘭を見た。が、花蘭は咲い返さずに俺を見つめてくる。
「花蘭?」
俺がしばたいて、首をかしげた拍子だった。突然、花蘭が俺の頬に手を伸ばして、引き寄せ、唇を重ねそうに近づいてきた。俺はぎょっとして固まって、でもまだ唇が重なる前、花蘭は何事もなかったように顔を離して、「あれ」としめした。それをたどると、実鞠が立ち止まって目を開いている。
「実鞠──」
実鞠はとまどって視線をうつろわせ、そのまま後退ると、入口のほうへと早足に向かいはじめた。思わず立ち上がりそうになった俺の腕を、花蘭がつかむ。
「何、……お前、今の、」
「寸止めだったでしょ」
「何でこんな──み、見てる奴いるぞ。離せよ」
「離したら、実鞠さん追いかけるでしょ」
「あいつ、絶対変な勘違いしてるぞ」
「勘違いじゃない」
「は?」
「私は莉雪が好きだから、そう思われて間違ってない」
「いや、お前はそうでも、俺は──とにかく、悪いけどっ」
そう言って、俺は強く花蘭の手から腕を離す。何となく、花蘭の目が見れない。
「あいつが、また泣いてたら、めんどいから」
俺はカツカレーも食べかけのまま、席を離れて学食をあとにした。
何だよ。花蘭。どういうつもりだ。俺のことを好きなのは知っている。でも、こんな押しつけるようなことはしなかったのに。
それも、何も、実鞠の前であんなこと。
そう、実鞠。どこに行ったのだろう。とりあえず──教室見てみるか。
そう思って俺は階段を駆けのぼり、たどりついた教室をぐるりと覗いた。実鞠のすがたはない。舌打ちして教室を出ようとしたとき、誰かにぶつかりかけて、謝罪を口走ろうとした。
「花蘭と一緒じゃないのか?」
いつもの声に立ち止まる。見ると、瑞海だった。
「瑞海。お前、実鞠見なかったか」
「実鞠ちゃん? ああ、泣いてたな」
「見たのかよっ。どこで?」
「一階」
「何か言ってた?」
「いや、めんどいから話しかけなかった」
「何だよ。じゃあ、どっち行ったとか分かるか」
「めっちゃくちゃ階段のぼってた」
「マジか。サンキュっ」
早口に述べると、面食らう瑞海を置いて階段に戻り、駆け足でのぼっていった。この学校の屋上は解放されていない。だから、閉まっているドアに、実鞠は引き返してしまっているかもしれないけど──
屋上につながる階段をのぼり終えると、しゃくり上げる泣き声がした。はずむ息を抑えて、突き当たりを覗きこむと、ツインテールの女の子が顔を伏せて肩を震わせ、弁当を抱きしめていた。
「実鞠」
実鞠は肩を揺らしたが、顔を上げず、ただ手元に雫をぱたぱたと落としている。
「何で」
指先にしたたった雫は、手の甲を伝って華奢な手首に流れこむ。
「どうして、お前が泣くんだよ」
「……分かん、な──」
俺は息を吐いて、実鞠に歩み寄った。実鞠のまとう空気は震えている。そのわななく肩に手を置き、改めて深呼吸してから、俺は実鞠を抱き寄せた。実鞠が腕の中から俺を見上げる。
「私のこと……嫌いでしょ」
「嫌いだよ」
「じゃあ、」
「でも──あの日、瑞海から助けてやれてよかったとは、思ってる」
実鞠は弁当を取り落として俺に抱きついた。俺も実鞠の頭を撫で、もっと深く抱きしめる。
「あいつにすぐ捨てられるのを見るくらいなら、俺のものにするほうがマシだ」
「莉雪……」
「瑞海が薄情でよかったよ」
「……花蘭さん、は」
「あいつのことはずっと前にもう振ってて、お友達だから。向こうがあきらめてないだけ」
「なのに、ああいうことするの?」
「してねえよ。お前の角度からはそう見えたかもしれないけど、寸止めだったし」
「ほんと?」
「簡単にファーストキス盗られてたまるか」
「キスしたことないの?」
「お前はあるのかよ」
「……ない」
俺は実鞠を覗きこみ、頬の涙を指でぬぐってから、そっと実鞠に口づけた。唇が触れただけで顔を離すと、また実鞠を腕に抱いて、「今のが初めてだから」とささやく。
実鞠は俺の名前を呼んでしがみつき、「優しくしないでって言ったのに」とまた泣き出した。俺は実鞠の頭を撫でながら、「もう冷たくできないよ」と胸で実鞠の涙を受け止めた。
予鈴が鳴っても、まだ実鞠は泣いていたから、俺は彼女を抱きしめていた。五時間目が始まってしばらくして、やっと実鞠は落ち着いてきて、そっと俺の胸から顔を上げる。
俺は実鞠を見下ろし、ほのかにだけど微笑みかけた。「初めて私に咲った」と実鞠はびっしょりした睫毛を動かして言う。「俺はあんまり咲えないから」と俺は丁重に軆を離し、足元の弁当が、包みの中だったおかげでこぼれ散っていないのを確認する。
それでも中はぐちゃぐちゃだろうな、と思いつつ、それを拾い上げると、「ほんとに」と実鞠はかぼそい声を発した。
「ママとおじさんは、昔からつきあってたの?」
俺は実鞠を見て、「何だよ、急に」と弁当を実鞠に持たせる。
「あんまり咲えない、って」
「それが」
「おじさんのことがつらくて、そうなのかなって」
「………、まあ、俺はそう思ってるな」
実鞠は受け取った弁当をぎゅっと抱く。
「でも、お前がとうさんと志保里さんを信じたいなら、それは自由だろ」
俺の言葉に実鞠は顔を上げ、少し考えてから、「私は」と小さな声で言う。
「ほんとのことが、知りたい」
「ほんとのことは、俺にも分からないよ」
「……でも」
「ただ──ガキの頃、とうさんの財布に、お前の写真が入ってるのは見た」
「えっ」
「俺の写真は入ってなかった。それくらい、とうさんは志保里さんと実鞠は深く想ってる。でも──志保里さんとの仲は、分かんないよな。その時点ではとうさんの片想いで、こっそり写真だけ持ち歩いてたのかもしれないし。少なくとも、とうさんが俺とかあさんを何とも想ってなかったのはほんとだ」
「……そう」
「志保里さんが、どう対応してきたのかは俺には分からない。お前の言う通り、親父さんが亡くなってからとうさんに応えたのかもしれないし。俺が想ってた通り、その前からできてたのかも」
実鞠は俺の胸板に額を当て、押し殺した声でつぶやいた。
「パパが、言ってたことがあるの」
「親父さん?」
「うん。ママのことが好きだって人がほかにもいたから、急いで告白して結婚できたんだって」
「………、そうか」
「パパは、おじさんの気持ちを知ってたのかな?」
「どうだろうな。でも、親父さんがそう言ってたなら、とうさんが志保里さんを先取りされて、ヤケでかあさんと結婚したっていうのはあるかも」
「ママが、いつおじさんに応えたかだよね。パパが亡くなってからなら、許してあげていいと思うの。でも、もしパパがまだ生きてたときからなら──」
実鞠の声が、苦く消え入る。俺は実鞠の頭を撫で、「じゃあ」と息を吸った。
「今夜、ちゃんと訊こう」
実鞠が、まだ涙を含んだ瞳を上げる。
「とうさんと志保里さんに、どんな事実でもいいから、ほんとのことを話してくれって頼んでみよう」
「話して、くれるかな」
「それだけ言ってもはぐらかされると思うけど、俺と実鞠がつきあうって言えば」
「えっ」
「義理の兄妹は結婚できるし、つきあいたいって言ってもおかしくない。俺たちのこと隠さないから、とうさんたちも隠さないでほしいって言おう」
「つ、つきあう……の?」
「とりあえずそう言えば、何か吐くだろ」
「……言う、だけ?」
実鞠は俺を見つめた。「とりあえずな」と俺が言うと、実鞠はうつむき、「分かった」と言った。俺はポケットにあったスマホで、あと三十分くらい授業が続くのを確認する。「六時間目から混ざろう」と言うと、実鞠はこくんとして、胸に弁当を抱えてしゃがみこんだ。
俺もその隣に腰を下ろし、立て膝に顎を置いて、ほんとのことか、と思った。本当に実鞠が正しくて、俺が捻くれていたのだとしたら、だいぶばつが悪い。
だが、今、それでも知りたいと思える。あのふたりと、きちんと向かい合わなくてはと感じる。
六時間目の授業に出ると、瑞海のクラスの解散を待たず、花蘭にも「家族で話があるから」と言って実鞠とふたりで先に下校した。花蘭は思ったより冷静で、若干あきれた感じも混ぜながら、「気をつけて」と見送ってくれた。
俺が収集しても聞いてもらえないので、実鞠がとうさんや志保里に連絡し、相談があるから夜には家にいてほしいと伝えた。了解の返事が来て、俺と実鞠は一度瞳を重ねてから、家のドアを開けて「ただいま」と一緒に帰宅する。
俺はそのままそっけなく部屋に入って、「おかえりなさい」と志保里は実毬だけを出迎える。
「メッセージ見たけど、相談って何? 何かあったの?」
「おじさんにも聞いてほしいから、夜ね。ごはんのあと」
「学校のこと? それとも──」
「いいから。大丈夫だよ。問題があったんじゃなくて、報告みたいな感じだから」
話し声をドア越しに聞きながら、俺はネクタイを緩めて開襟シャツのボタンを外していく。私服に着替えると、椅子に腰かけてかばんから宿題を取り出した。
ノートをめくって開き、教科書の設問を目でたどったが、いまいち集中できない。部屋のノックが聞こえて応えると、俺が開いているのと同じ教科書を抱えた私服の実鞠が入ってきた。
「あー、リビング行く?」
「ここでいいよ」
「椅子、ひとつしかないぞ」
「ここがいいの」
俺は「じゃあ座れ」と座っていた椅子を実鞠に譲った。実鞠はそろそろとそこに腰かけ、つくえに教科書を置く。
俺はつくえに手をつき、覗きこむようなかたちで、改めて教科書に目を通す。実鞠も持ってきたシャーペンを握り直し、教科書に目を落とす。
「莉雪」
「ん?」
「私、ほんとはすごく嬉しいの」
「え」
「おじさんに莉雪がいること聞いて、家族になれるって知ったとき、すごく嬉しかった」
「……そうは見えなかったけど」
「莉雪が喧嘩腰だったもん」
「あー、まあ、ごめん」
「莉雪と仲良くできなくて、落ちこんだりしたから。今、すごく嬉しい」
「……そっか」
「でも莉雪は、私と仲良くするの、嬉しくないかもしれな──」
俺は実鞠の顔を覗きこみ、瞳を絡めてそっとキスをした。俺の瞳とつながった糸が溶けて、実鞠の瞳がしっとり濡れる。
「大丈夫」
「え……」
「とうさんと志保里さんがどうであっても、お前は関係ない」
「……莉雪」
「関係ない。実鞠は実鞠だから」
実鞠は軆を捻じって身を乗り出し、俺にほのかなキスをした。不意に、胸の中で実鞠をめちゃくちゃにしたい衝動が疼く。
やばい、と俺は顔を伏せてそれを抑えこみ、「宿題終わらせよう」と実鞠に正面を向かせた。
顔がほてっているのが分かる。見られたら恥ずかしい。だから、実鞠が振り返らないように俺は問題文を指でなぞって、何とかそれを理解しようとすることに努めた。
【第六話へ】