「ほんとに、一緒に食べていってもいいよ?」
渚くんがそう言うと、久賀くんは「えー」とシャーペンをペンケースにしまう。
「夕食いらないって南くんに伝えてないからなあ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、もちろん無理も言わないけど」
「ごめん。また紫陽も混ぜて四人でごはん食べよ」
「そうだね」と渚くんはうなずき、そうなんだよなあと私は不思議な気持ちになる。
久賀くんの彼女は、実は紫優さんの妹である紫陽ちゃんなのだ。同じ高校の三年生と一年生で、渚くんの話によると、入学してきた紫陽ちゃんに久賀くんが一目惚れしたらしい。
紫陽ちゃんは初めはとまどっていたそうだけど、紫優さんの恋人である紗琴さんと私が知り合いで、その私の恋人が渚くんで──という縁に、「何かおもしろい」と久賀くんと仲良くなっていったそうだ。そんなわけで、久賀くんは紫陽ちゃんの彼氏になれたのを「先輩のおかげです!」と感謝してくれている。
「先輩、紗琴さんとごはんだったんですよね」
「うん。今日もたくさんお話してもらった」
「姉としては、紗琴さんは一番理想的ですよねー」
「姉」
「兄貴どもの彼女が出揃いましたけど、おっとり優しいって言ったら紗琴さんに敵う人いません」
「おにいさんたち、みんな彼女できたんだ」
「できましたよー。築くんの彼女はツンデレかなあ。授くんの彼女は紛うことなき天然。響くんの彼女はヲタクさんですね」
「みんな個性的だよね」と渚くんが笑って、「紫陽が一番まともだと俺は思う」と久賀くんはまじめな顔でうなずく。
「紫陽ちゃんは、少しブラコンかなって思うときもあるけど。悪口のつもりはなくて」
私が言うと、「そこはですね」と久賀くんは返す。
「冷静になって考えるわけですよ。紫優さんが兄貴だったら、そりゃ俺でもブラコンだな? と」
「……納得の仕方がすごく分かる」
私が静かにつぶやくと、「でしょ?」と久賀くんは得意げににっとした。
「時さんも、紫優さんみたいな人に憧れる?」
渚くんが問うてきて、私は思わず咲ってしまってから、「私は渚くんが一番素敵だと思ってる」と言った。渚くんは嬉しそうだけど恥ずかしそうにもしたあと、こくりとした。
そのやりとりににやにやした久賀くんは、「んじゃ、俺は退散しますので」と財布から自分の代金らしい千円札を置いて席を立つ。
「渚、明日学校で」
「うん。またね、奏」
渚くんが応じると、久賀くんは私には軽く会釈して、立ち去っていった。「久賀くんのおにいさんたちも幸せなんだね」と私が微笑むと、「おにいさんたちもいい人たちだから」と渚くんはメニューを手に取る。
「僕もよかったなあと思ってる。奏の家は僕の憧れだし。家庭があったかいものだって、奏の家に行って僕は知った」
「六年生のときだよね。久賀くんの行動力すごいなあって思う」
「うん──」
渚くんがどこか言いよどんだので、私が首をかたむけると「ちょっとだけ不安」と渚くんはつぶやく。
「えっ」
「奏、大学生になったら海外留学するって言ってるから」
「うん。言ってたね」
「僕は、もちろんそれにはついていかないし。奏と離れた生活になるんだよね」
「あ……」
「助けてくれてから、いつも一緒にいてもらったから。僕、大丈夫かなあって」
私は渚くんの横顔を見つめて、「渚くんは」とその頭を軽く撫でる。
「ひとりになるわけではないでしょう? まして、昔の家庭に戻るわけでもない」
「……うん」
「今のご両親も、頼りないけど私もいる」
「た、頼りないなんて、」
「……私がちゃんと女の子だったら、」
「そういうこと言ってるわけじゃないよ。ごめん。ただ──僕は、奏みたいに時さんの支えになれるかな」
「え」
「奏がいればいいってくらい、好きになったの知ってるから……僕もそう思ってもらえてるのかなって」
「……渚くん」
「ごめん。何か、僕、嫌なこと言ってるね。時さんの気持ちを疑ってるとかじゃなくて、僕、ときどきすごく自信がなくなるから」
「……うん」
「家族……に、愛してもらえなかったような奴じゃないかとか、考えちゃって」
「でも、渚くんは親友に愛されてるし、恋人にも愛されてるよ」
渚くんが私を見る。私は照れ咲いを見せてから、「久賀くんのこと好きだったけど」と渚くんの耳元でささやく。
「そんなの、今思えば一瞬だったし。渚くんを愛してる時間のほうが、もうずっと長い」
「時さん……」
「渚くんがいるから、私、頑張って生きていられるの」
渚くんの瞳が潤んで、そのままの瞳で柔らかく微笑んでくれる。私を愛おしんでくれる、あの笑顔だ。私は頬を染めながら、寄せていた身を離して、代わりに渚くんと手をつなぐ。
「時さん」
「うん?」
「僕のそばを離れないでね」
私は渚くんと見つめあって、こくんとした。渚くんははにかんで咲ってから、「ごはん食べよっか」と手元に置いていたメニューをめくる。久賀くんは帰ったのだから、私は向かいの席に移動するのが自然なのだろうけど、もうちょっと渚くんの隣で手をつないでいたくて、そのまま一緒にメニューを覗きこんだ。
夕食のあと、少しだけ駅ナカを一緒に歩いて、渚くんとは別れた。いつもの沿線で最寄り駅に着くと、いつも通りトイレで着替える。化粧を落とすときが、一番テンションが下がる。
ため息をついて、やっぱり自分が男の軆をしていることに吐き気を感じて、私のほうだ、と思った。ときどきすごく自信がなくなる。渚くんの気持ちを疑うわけではなくて。私は、私自身をまだ愛しているとは言えない。
男子トイレを出て、駅もあとにすると、街燈が等間隔に灯る夜道をとぼとぼ歩く。今会っていたばかりなのに、もう寂しい。渚くんとつないでいた手を胸にあてて、傷む呼吸をなだめていたときだった。
「時?」
突然そう名前を呼ばれて、どきんと立ち止まった。あたりを見まわすと、「やっぱり時か?」と正面から男の人が駆け寄ってきて──
心臓が、無残に串刺しになったみたいに、止まる。
「だ、大輝……おにいちゃん……?」
「おうっ。久しぶりだなあ」
懐かしい鷹揚な笑顔に鼓動がざわつく。
何。何だろう。動揺? まさか喜んでないよね、私。もう何年も前に、結婚するといって、そのまま顔も見せなくなった人──
「今、時の家にも顔出してきたんだけどな。夜遊びなんて、時らしくなく育ったなあ」
「え……あの、どうしたの。何かあったの?」
「何かってわけじゃないけど、まあ、実家行ったから」
「……奥さん、とかは」
「ああ、息子と一緒に俺の家にいるよ」
別れたわけではない、のか。それはそうか。大輝おにいちゃんと結婚できて、手放すような人なんてきっとほとんどいない。
「帰って……こなかった、ね。ずっと」
「俺の両親、デキ婚も学生結婚も反対してたからなあ。でももう十年近いしな」
「うまく、いってるの?」
「息子が八歳になるんだけどさ、学校の友達みたいにジジとババに会ってみたいって聞かなくて。それで、俺の両親も孫のかわいさで許していってくれた感じ」
「……そっか。よかった」
結婚して大輝おにいちゃんが帰ってこなかったのは、私や空にかまうのが面倒だったからではなかったのか。そこは何だかほっとした。
「つか、時、ちゃんと飯食ってるか?」
「えっ」
「ずいぶん細いからびっくりした。今いくつだ? 最後が六年生で……」
「今度の一月の二十歳になるよ」
「二十歳か! もう時と酒が飲めるんだな。今度、うまい店にでも行こうぜ」
「え、え……と、でも、奥さんが心配するかも」
「何でだよ。弟分と飲むくらいで怒る奴じゃないぞ」
弟。私は顔を伏せ、女の子の服が入ったトートバッグを握りしめた。
息が、苦しい。せっかく、紗琴さんや渚くんと過ごして楽しかったのに。何で、この町に帰ってくると、はずんだ心をたやすく打ち砕かれてしまうのだろう。
「時?」
「……怒られる、から」
「え。ああ、おじさんとおばさん? 俺、わりと信用あると思ってるけど」
「………、彼氏」
「えっ?」
「男の人とごはん行ったら、彼氏が嫌な想いするから」
「……は? え、彼氏って」
「私、男じゃないから。それを分かってくれる男の子とつきあってる。いつかは女の子になる手術も受けたいと思ってるの」
大輝おにいちゃんはぽかんと私を見つめた。私は滲んだ視界がこぼれないように唇を噛んで、すれちがおうとした。けれど、大輝おにいちゃんに腕をつかまれて足を止める。
やましい──と感じてしまう自分が、すごく嫌いだ。私は「僕」じゃないことを正直に主張しただけなのに、何でこんなに後ろめたいのだろう。
「えっ……と、待て、ちょっと待て、時」
おにいちゃんはこわばった表情のまま、何とか混乱から踏ん張ろうとしているように見えた。
「時、お前……何だ、何て言ったっけ、そういうの」
「……性同一性障害」
「それだ。えっ、そうなのか? ええと……心は女ってことになるのか」
「そう、だよ。変でしょ。気持ち悪いでしょ。分かってるよ」
「そんなこと言ってないだろ。驚いたけど、そんな、気持ち悪いなんて思わないよ」
私は大輝おにいちゃんを見上げた。おにいちゃんは私の腕を離し、かなり強い力だったので無意識に私は腕をさする。「痛かったか」と気遣われて、「……大丈夫」とぼそっと答える。
「……そうか。あ──まあ、時は、昔からかわいいものとか好きだったもんな。おとなしくて、空よりかわいいときもあったし」
私はまばたきをして、「ほんとに、軽蔑しないの?」と訊いてみる。すると、「しないよ」と気抜けするくらいあっさり言われた。
「俺の友達にも、いろいろ事情あるやつとかいるしな。そういう人といつ出逢ってもおかしくないのは分かってる」
「そう、なんだ……」
「てか、彼氏いるのか。ちゃんとした奴だろうな? こんな遅く帰すって時点で、俺としてはちょっと」
「すごくいい子だよ。もうつきあって三年以上だし、いつも大切にしてくれるの」
「そっか……時に彼氏かあ。はは、でも確かに、『彼女できた』より納得できる感じあるな」
大輝おにいちゃんは笑って、私も安堵を覚えながら息を吐いた。理解してもらえないとたかをくくって、かかわりたくない拒絶のつもりで言ったので、拍子抜けもあるけど──もちろん、分かってくれるならそれはありがたい。
「家族には言ってないのか?」
大輝おにいちゃんは訊いてきて、私はうなずいた。
「分かってくれないよ。だから、家も出たいと思ってる」
「そっか……。まあ、俺んちみたいに何年もかけて理解してもらえる場合もあるから、安直に絶縁することはないと思うけどな」
「……ん」
「今は親には頼りたくない感じだったら、俺に相談しろよ。家出るってことは、部屋借りなきゃいけないだろ。それには保証人とか必要だからな」
「あ、そっか……って、なってくれるの?」
「時が借金でもして、行方くらましたりしないのは分かってるよ。てか、飯は食えよ。どこかで栄養失調でぶっ倒れる心配ならあるわ」
「でも、食べて筋肉とかになったら嫌だし」
「ホルモン注射とかないのか? よく分かんないけど」
「病院で診断もらわないと。二十歳になったら、彼氏が一緒にクリニック行こうって言ってくれてるの。未成年のあいだは制限も多くて」
「そうなのか。なかなか大変なんだな」
「うん。でもね、彼氏がいるから頑張れるよ」
大輝おにいちゃんは微笑むと、「彼氏のこと好きなんだな」と私の額を軽く小突く。
「えっ、好き……じゃ、ダメかな」
「いや、ぜんぜん。ただ、今すごくいい笑顔だったから」
「いい笑顔……」
「内気なかわいい笑顔は昔よく見てたけど。そういう、自信があって綺麗な笑顔は初めて見た」
自分ではよく分からなくて首をかたむけてしまう。自信なんてないのに。そう思ったけれど、渚くんを誰よりも想っている自信なら、それだけなら私にもある。
「男らしい軆になりたくないのは分かるとしてもさ。がりがりの女子も男としては複雑だったりするぞ」
「そ、そうなの?」
「食事はちゃんと取りな。どうしても不安なら少なめにするとか。逆に骨格が浮いてくるのも、分かる奴は気づくだろうし」
「……分かった。ごはんは食べる」
「よし。って、俺こそ引き止めてごめんな。嫁さんと息子が待機してるのが浮かんできた」
「また、この町に遊びにくる?」
「来るよ。ま、彼氏がいるなら俺なんか用なしかもしれねえけど、時はひとりじゃないからな」
大輝おにいちゃんは私の頭にぽんと手を置くと、「じゃな」とにっと笑ってすれちがっていった。私はそれをかえりみて見送り、ひとりじゃない、という言葉を噛みしめた。
渚くん。紗琴さん。久賀くん。大輝おにいちゃん。確かに、私はもうひとりじゃない。
軆が憎くて重かった。落ちない贅肉みたいに嫌悪していた。男という軆を着た心は窒息しそうで、誰もありのままの私は受け入れてくれないと絶望していた。
だけど今の私は、少なくとも心には、もう孤独はまとっていない。大切な人には、心の素肌をさらせるようになった。この心の肌のように、いつか軆にも自信を持って、風にさらせるようにしたい。
私の心は女の子。だから私は女の子。たとえ軆は男のものだとしても、ありのままの私は女の子なんだ。
そんな私を好きだと微笑んでくれる男の子もいる。彼のために、心と軆を一致させて、さらした肌をぎゅっと抱きしめてもらいたい。大輝おにいちゃんや久賀くんでは、もうダメなのだ。渚くんじゃないといけない。いつのまにか、私のほうが渚くんのことを好きになっている。
私は前を向くと、歩きはじめる。家は憂鬱。でも、『無事家に着いたよ』という口実で渚くんにメッセできる。甘えたかったら、きっと何分か声も聴かせてくれるだろう。
会いたい。声が聴きたい。私のそんなお願いを、渚くんは愛おしげに受け入れて時間を割いてくれる。「いそがしいからごめん」なんて、女の子が一番がっかりする台詞は言ったりしない。そういう心遣いで、私はもっと渚くんが好きになる。
秋のくっきりした月明かりが、アスファルトを照らしていて、その光を追いかけるように進む。二十歳までもう少しだ。渚くんと手をつないで、私は歩みはじめる。こんなふうに、ただ静かにきらめいているだけの道ではないだろうけど、いつかその月みたいに綺麗になる。なれると思える。
夜風が首筋を冷たくかすめた。でも背筋は伸ばしたままでいる。瞳にきらきらと月を映しながら、足取りはしっかりと、私は顔を上げて歩いていく。
FIN
