一階に到着して扉が開くと、すぐ目の前に女がいた。思わず臆したものの、すぐにそれが百里だと分かった。
艶めく黒髪、吊った目尻の線に合わせて整った眉、柔らかな鼻筋や顎の線──白いワンピースに薄紫のカーディガンを羽織った彼女は、俺を見ていきなり笑い出した。
……どうやら、根性は十年前から変わっていないらしい。
「顔! 何それ、子供の頃から変わってない!」
俺は仏頂面でとりあえずエレベーターを降りて、茉麻も背後についてくる。
「第一声が『顔!』って何なんだと俺は思うんだが」
「普通、ちょっとは男らしくなってるでしょ? もう高校生じゃないの?」
「俺が人違いだったら、お前最低だぞ」
「いや、顔で間違いないって分かる」
「そんなに俺の顔を憶えてたのかよ」
「夕べ、昔の写真を久々に見たところだったから」
「お前はお前で、性格が変わってないことがよく分かった」
「うるさいな。というか、後ろに何かいる」
「ああ。今、遊びに来てた友達だよ」
俺がそう言うと、茉麻はそろそろと俺の隣に並んで、「初めまして」と照れたような笑みで百里に挨拶した。なぜか俺が、かわいいな、とその笑顔に思ってしまう。百里は茉麻を眺めて、腕組みをした。
「童顔には童顔か」
「いや、こいつ中二。こいつにとっては、高二のお前はもはやおばさん」
「はあ!?」
「そっ、そんなことないですっ。えと、その、綺麗です」
「素直でよろしい」
「こいつには気い遣わなくていいぞ、茉麻」
「えっ、でも──」
「あたしは柴田百里。よろしく、ええと──」
「山村茉麻です」
「茉麻くんね。よし、千幸の恥ずかしい話は君にいろいろ聞く」
茉麻は俺を見上げた。「あんまり本気にしなくていいから」と俺は苦笑いしてその頭をぽんぽんとする。そして百里を見て、「とりあえず家行くぞ」とエレベーターを呼んだ。
俺と茉麻が来たまま動いていなかったので、すぐ扉が開く。百里はごろごろとうるさいキャリーバッグを連れて、エレベーターに乗りこむ。
三階に着くと「僕、いったん帰ったほうがいい?」と茉麻が首をかしげる。すると、「気にしなくていいんだよー」と百里は茉麻の背中をはたいた。茉麻と百里の身長がそんなに変わらないことに気づきつつ、「無理しなくていいぞ」と俺はさっきと同じことを茉麻に言う。
すると茉麻はぶんぶんと首を振り、「千幸ちゃんと百里さんがいいなら、話してみたい」とはにかんで咲った。その笑みが、何となく見たことがないような気がして引っかかったけど、百里の手前突っこむこともできずに、「そっか」と俺は家のドアを開けた。
「ただいまー」
俺の声にすぐさま玄関に駆けつけたおふくろは、「百里、久しぶり!」と嬉しそうに腕を伸ばして百里とハグをした。女って、すぐハグをする。「姉貴たち元気?」と訊かれた百里は笑顔でうなずき、「来れなくて残念そうでした」と肩をすくめる。
「まあ、お盆はお寿司屋さんきっといそがしいよねえ」
「ほんと。あっちこっちで親戚が集まって、出前取ったり座敷取ったり」
「まあ、繁盛はありがたいことだよね。こっちに帰る余裕もないのが十年でしょ。とうさんとかあさんには会った?」
「夜、泊めてもらうので行ってきます」
「ここに泊めてあげられなくてごめんね。マンションだから部屋数が限界で。千幸がリビングで寝ればいいのにね」
「何で俺が被害受けるんだよ」
「何よ、女の子がベッドで寝てくれるなんて幸せでしょ」
そう言ったおふくろに俺は変な顔をして、女が寝るなんてやだよ、と言いたいのをこらえる。「まあまずはお茶でも飲んで」とおふくろは百里を中にうながし、俺と茉麻もスニーカーを脱いで続いた。
「ほんとに大丈夫か」と茉麻を窺うと、茉麻はこくんとして「千幸ちゃんの従姉なら仲良くなりたい」と微笑んだ。
それから百里は、おふくろとダイニングのテーブルでわいわいおしゃべりに興じた。相変わらず俺を揶揄って、茉麻にはたまに質問を投げかける。茉麻は熱心に話題に耳をかたむけていて、何か訊かれたら一生懸命答えている。
俺は頬杖をついて麦茶をすすりながら、百里と話す茉麻の横顔を盗み見ていた。何か楽しそうだな、とは思った。だけど、茉麻は友達をうまく作れないから、話ができる百里が単純に嬉しいのだと思っていた。
夕方にはっと時計を見た百里は、「そろそろおじいちゃんたちのとこ行かないと」とおふくろに礼を言って席を立った。そしてまたキャリーバッグを引いていくのを、俺と茉麻が一階まで見送る。
「明日も来るからねー」と百里が手を振って、「いらねえし」と俺はつぶやいたけど、「待ってますっ」と茉麻が元気よく答えた。俺はうなずく百里を見て、続いて茉麻を見た。
勇気を出したような茉麻の笑顔の頬が、ちょっと赤い。外の夕暮れはまだそんなに茜色でもないのに。百里が去ってしまうと、茉麻は俺を見上げて「へへ」と恥ずかしそうに咲った。俺は咲い返しながらも、徐々に胸騒ぎを覚えはじめていた。
百里がこの町にいるのは、今日から一週間だ。そう、一週間だけだ。それだけで、そんなことになるわけがない。なぜか焦りを覚えながら、自分に言い聞かせた。茉麻が恋をする、なんて。そんなのまだ先だ。しかも、よりによって百里なんてない。
大丈夫だ、茉麻の一番近くにいるのは、ほかでもない──
「茉麻くん、かわいいなー。千幸の弟分にはもったいないわ」
次の日も、その次の日も、百里は茉麻をかわいがって頭を撫でたりして、茉麻は噛みしめるように咲っていた。茉麻が百里に懐いて心を開くのはあっという間だった。もちろん、俺の従姉ということが警戒心をほどいたのだろうが、それでもその信頼の加速には俺の不安が的中していた。
四日目の夜、百里がエントランスを抜けて帰っていくと、エレベーターに引き返す前に「千幸ちゃん」と茉麻は俺の服の裾を引っ張った。「ん?」と覗きこむと、茉麻はとまどったような瞳を濡らしていて、あ、と背筋に嫌な予感が走った。
「千幸ちゃんは、ね」
「う、うん」
「好きな人っていないの?」
「……え、あ──」
「学校に、つきあってる人とかいたりするの?」
「いや、……いねえけど」
「そっ、か」
「うん」
「百里さんのこと……」
「百里」
「百里さん、のことも、好きとか、ないの?」
「俺が?」
「うん」
「いや、ありえない」
「ほんとに?」
「俺が百里に何かあったら何かある?」
茉麻は視線を下げて、俺の服を離してこぶしをぎゅっと握った。ちょうど人がいなくて静かで、外の夕暮れがゆったりと流れこんで、視界が赤くなっていく。茉麻の睫毛の影が揺らめく。
俺はちょっと自虐的に咲って、「もしかして」と自分の皮膚にカミソリを走らせるような想いで言った。
「百里のこと、好きになった?」
茉麻は肩を揺らして、一気に頬を染めた。頭の中が緩やかに酸欠していくようなめまいを覚えた。
分かっていた。いつか来る日だって。茉麻が、俺をそういう対象としては見向きもせず、異性に惹かれる日なんて──分かっていた、はずなのに。
こんなに、涙が絞られそうに呼吸が麻痺する。
「ご、ごめんね。千幸ちゃん」
俺ははっとして茉麻を見つめ直した。
「僕なんかに、仲良しの従姉を預けたくないかもしれないけど」
「………、」
「よかったら、……応援、してくれる?」
浅い息遣いで茉麻を見つめた。茉麻は恐る恐る俺を見上げる。ずっと俺が守ってきた。誰も触れないように。自分すら触れないように。そんな神聖な存在なのに、百里にはこいつに触れてやってくれと頼むのか。
俺が。ずっと茉麻を想ってきた俺が。
俺は慎重に息を吐いた。茉麻は俺をじっと見上げている。俺は、ゆっくり、表情を取りこぼすように咲った。
「百里なら……俺も、安心かな」
茉麻は目を開き、ついで笑顔になると「ありがとう!」と俺の手をつかんできた。この期に及んで、その手の熱にどきっとしてしまう。茉麻は俺に向かって、まっさらな笑みと共に言った。
「千幸ちゃん、大好き」
ああ、またその言葉。俺と絶対的に食い違う、その言葉。
俺も茉麻が好きだよ。大好きだよ。でも、俺の「好き」は茉麻の「好き」とはやっぱり噛みあわない。
ずっとそばにいたい。仲良くしていたい。一番理解してる。同じ気持ちなのに、異なる気持ち。
翌日、俺はめずらしくこちらから松波先輩にメッセを送った。でも、インターハイで我が校は勝ち進んでいるらしく、補欠も応援で遠征しているということだった。そうか、と俺はアイスバーを齧りながら、運動部のセフレは今邪魔できないことを知る。
じゃあ矢口とかどうだろ、とメッセを送ると、『会えるのか?』と好感触のレスが来た。『行きたいとこ連れてくよ』と返すと、しばらく間があって、『雨谷の地元』と来た。そしてすぐ『部屋とは言わないから』と連打が来た。
俺は少し考えてから、まあいいか、と思って『駅まで迎えに行くから来いよ』と応じた。『いいのか?』と矢口は一度俺を窺ってきたけど、『ここ何にもないから、やること決まってるけどな』と俺は断っておいた。
それから、身支度を整えて持つべきものを持つと、玄関に向かった。
「あれ。千幸ちゃん、出かけるの」
ドアを開けると、ちょうど茉麻がドアフォンを鳴らそうとしていた。俺はやや気まずくなっても、嘘ではないので、「高校の友達と遊んでくる」と言った。
「そう、なんだ。百里さんは、まだ来てないの?」
「あとで来るんじゃないかな。そろそろ、俺抜きで話してみろよ」
「え、それは、まだ緊張するよ」
「大丈夫だって。百里、もうあさってには帰っちまうぞ。連絡先訊いとけよな」
「う、うん。千幸ちゃん、いつ帰ってくるの?」
「分かんね。夜かも」
「夜? 危ないよ」
「平気だよ。あー、と、友達が駅まで来るから。もう行かないと」
「気をつけてね」
「おう。茉麻も頑張れよ」
頑張れ。何言ってんだろうなあ、と思いつつ、こっくりとした茉麻の頭をくしゃっとして俺は家を出た。
歩いて風を切ると、夏休みでここしばらくつけていなかった香水が少し香る。今日も猛暑で天気がいい。午前中なので蝉の声もすごい。
どこでやろうかなあ、とこのあたりの地理を思い浮かべる。公園はちょっと。駅のトイレもちょっと。ラブホなんて便利なものはない。だが、やはり俺の部屋に連れこむのもどうか。
中学のとき、住宅街の先の未開発の茂みで及んだりもしたが、家が建ってしまっているだろうか。でもそこぐらいしかないな、と思っていると駅に着いていて、缶コーラを片手に矢口を待った。
改札から人が流れ出してくるたび、ちらちら注視していると、私服で見落としそうになった矢口が駆け寄ってきた。
「雨谷。悪い、待たせたかな」
「いや、五分くらい。夏休みどう?」
「古本屋ばっか行ってる」
「ネタ発掘ですか」
「最近のBLは普通に面白いのもあるから」
「俺は読まねえなー」
「雨谷ってさ、どうやって満足してんの? クラブ行ったりするのか」
「帰宅部」
「そっちじゃなくて。ゲイナイトとかあるほう」
「いや、行かねえよ。学校で需要足りてるわ」
「そんなもんかなあ。そういえば、夏休み朝まで泊まるって言ってくれてたけど」
「あー。えっ、今日? 今日は考えてなかった」
「……雨谷ってそんなだよなー」
「ごめん、というか……いや、まあ、市内に出てラブホ行くのは可能だけどな。ここにはラブホとかないし」
「いいよ、また会えただけで嬉しい」
「何かごめん」
矢口は咲って俺を軽く肘で突き、「だけど」と生温い風にさらさらの髪を揺らす。
「ラブホもなくて、どこでやる気なんだよ。そのつもりではあるんだろ」
「中学の頃行ってたとこ行ってみようかと」
「いいとこあるのか」
「ただの藪の中」
「今ちょっとヒイた。え、マジで?」
「ほかにないし。開発されてなくなってるかもしれないけどな。行くだけ行ってみる」
「ただのデートでも俺は構わないよ」
「俺がやりたい」
「それって、誰でもいい感じ?」
「矢口はやりたくない?」
俺がそう言うと、矢口は少し目をそらして、「そりゃしてほしいよ」とばつが悪そうに言った。俺はくすりとしてから、「じゃあ、場所見つかるまでのあいだはデートな」と歩き出す。矢口は隣に並び、「手もつなげないデートかあ」と苦笑した。
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