自分さえいなければ、と思いながら生きるのは、どれだけ苦しいのだろう。
必要とされない。消えればいいと思われる。愛されていない。
何だっていい。とにかく、生まれなければよかったと感じながら生きていく。それは、いったいどれだけつらいのだろう。
彼女はずっとそうだった。もしかして傍目には、愛されているのは、彼女だけだったのかもしれないけど──
「お前、こんな高校に進むのか」
中学三年生の夏休みだった。親友の萠の部屋で、俺たちは宿題をしていた。
受験を意識した妙に引っかかる問題続きで、俺は声を上げて床に転がった。染めた茶髪にクーラーがそそいで、額をさする。「空羽」と萠にたしなめられても、「勉強嫌だー」と俺はたたみに這いつくばる。
そしてじたばたしたおかげで、萠のつくえから、ひらりと一枚の紙がこぼれてきた。ん、と手にしたそれは進路調査表で、それを見た俺は、思わず萠にそう言う。
そこでは、この県でトップクラスの有名校が第一志望になっていた。艶やかな髪で隠し気味にした目で、萠は「まあね」と息をつく。
「マジでか。ここって、有名人とかも卒業してるレベル高いとこだろ」
「ほんとは、あんまり行きたくないんだけど」
「じゃあ、無理すんなよ。もっと柔らかいとこ行こうぜ」
萠は黙りこんで、うつむいた。俺は振り返り、いつもどこかかたくなな印象をした萠の瞳が、弱って揺れているのを認める。
「萠」と心配になって身を起こすと、萠はまぶたを伏せて、表情を隠した。
「空羽には、話したほうがいいよね」
「え」
「僕、とうさんとふたり暮らしだけど、かあさんにぜんぜん会ってないわけじゃないんだ。かあさんには、かあさんの家族がある」
「え、……と、旦那がいるってことか?」
「というか……ややこしいんだけど。かあさんには、僕のとうさんじゃない、本命の相手がいるんだ」
「旦那じゃん」
「いや、その人はほかの女の人と結婚してる」
「………」
「その夫婦は、政略結婚だったんだけど。奥さんが、僕のとうさんと愛し合ってる」
俺は変な顔で萠を見つめた。「かあさんの本命の相手が」と萠は俺の顔にちょっと失笑しながら続ける。
「海外との取引で、大きな会社の社長さんなんだ。僕のとうさんは、その人の屋敷の使用人。僕も社長さんのことは、ご主人って呼んでる」
「……ご主人」
「とうさんは、ご主人とかあさんの仲が続いてるのを隠すために、かあさんと結婚したんだ」
「そこまでするより、好きあってるのが結婚すりゃよかったじゃん」
「かあさんも使用人だったからね、身分が違いすぎたみたい。どうしても周りに許してもらえなかったって」
「そんなもんかなあ……」
「それで、屋敷でご主人の奥さんの世話もしてるうちに、とうさんは奥さんと深い仲になったらしいよ」
俺は腕を組んで首を捻り、じっくり情報を整理すると、「つまり、すげーめんどくさい四角関係ってことか?」とまだ眉を寄せながら確認した。「まあ、そうだね」と萠は苦笑いする。
「そうなのか……え、それでどうして、萠がこんな高校に進むことになるんだよ」
「ご主人には、ふたり、娘がいるんだ。ひとりは本妻さんと、もうひとりは僕のかあさんと。ふたりとも僕と同い年なんだけどね。かあさんは四月に僕を生んで、次の三月に娘さんを生んだから」
「はあ」
「それで、その娘がふたりともこの高校に進むんだって。ご主人は、僕のことも気にかけてくれてるから、同じ高校に進みなさいってこないだ言われて」
「嫌だろ。そんな娘とかと一緒って」
「まあ──そのふたりとは昔はよく遊んでたんだけど。幼なじみかな。何にも分かってなかった頃。でも、もうずいぶん会ってない」
「……むずかしいな」
萠はまだ削がれていない、少し柔らかみのある頬の線に仕方ないような笑みを含ませて、グラスの麦茶を飲んだ。俺も水滴が浮かんだグラスをつかんで、ぬるくなった香ばしさで喉を潤す。
「萠」
「うん」
「俺でも行けると思うか」
「えっ」
「俺は成績、そんなによくないしさ。今からじゃ、すべるかもしれないけど。萠をそういう環境でひとりにするのは心配だよ」
「空羽……」
「昔は仲良かったけど、もう会ってないほどなんだろ。そんな女たちとまた顔合わせるようになるの、きついじゃん」
「そう、だけど」
「あ、でも待った、やっぱ金いるのか? ここ私立か?」
「いや、県立。基本的に勉強さえできれば」
「じゃあ俺、勉強頑張るよ。一緒に行けるように」
「……いいの?」
「おう。一緒の高校に進みたかったしさ」
萠は俺を見て、やや言葉に躊躇ったようでも、「ありがとう」と小さく咲った。俺はグラスを置いた手を伸ばして、萠の肩を軽くたたく。
「じゃあ勉強だね」と萠は宿題をしめし、「よっしゃ」と俺は一度伸びをしてから、シャーペンを握りなおした。
そうして、その日から萠に勉強をしっかり教えてもらい、春、元から成績優秀の萠はもちろん、俺も何とかその高校の受験に合格した。
桜が町のあちこちで花びらを降らせている。一緒にできあがった制服を取りにいって、三年後まで着れるようにちょっとでかいブレザーを見せ合って、思わず笑った。
四月に入ってすぐの入学式は、俺も萠も親は同伴せず、同じ最寄り駅から電車で高校に向かった。
他校生や会社勤めの大人、覚悟はしていたが、ラッシュがすごい。俺も萠も立っているのがやっとだったが、慣れているらしい人たちは、スマホでゲームをしたりしている。やっと着いた目的の駅で、電車を吐き出されたら、かなり頑張って結んだネクタイが曲がってしまっていた。
これが毎朝になるのかとぶつくさしていると、「早くしないと」と腕時計を見た萠に急かされて走り出す。IC定期で改札を抜けると、まだ慣れない匂いの空気の中、同じ制服すがたがにぎやかに桜色の並木道を歩いていた。
共学なので女子もいるが、制服のデザインはネクタイがリボンなこと、スラックスがスカートなこと以外変わらない。
少しひんやりしていても陽射しが暖かく、今日はよく晴れていた。
「わ、あの子、すごい美人」
入学式という看板がある校門を抜けるあたりで、そんなささやきが聞こえて、美人、と俺は耳聡く振り返った。
そこには、長い黒髪をなびかせてまっすぐした背筋で歩いてくる女生徒がいた。意志の強そうな眉、大きな丸っこい瞳に長くカールした睫毛、唇も瑞々しく輝いている。胸もでかくて、華奢さはなくてもボリュームがある感じだ。艶々した髪の隙間の耳たぶに、小さなピアスが見えた。
「萠、美人」
俺が指さして言うと、「人のことは指ささない」と萠は俺の手を下ろした。そして、周囲の目など気にせず校門をくぐっていくその女生徒をちらりとして、「美人だね」と一応同調はしてくれた。
入学式のある体育館に行くと、クラス発表がまだなので、自由席で椅子が並んでいた。わりと静かで、話し声はささめく程度だ。俺は萠と並んで座り、落ち着きなくきょろきょろした。
女子のレベルが軒並み高い。そのぶん、男もイケメンが多い。萠も美少年タイプだし、俺浮いてるよな、と何とも言えなくなった。首席代表で挨拶していた女子も、美術の教科書から抜け出してきたような繊細な美少女だった。
入学式のあと、一年一組出席番号一番から名前を呼ばれて、クラスが発表されていく。俺は三組で先に名前を呼ばれて、萠に「あとでな」と残して椅子を立った。萠はそのあと、隣の四組で名前を呼ばれていた。
そうして一年生は、その呼ばれた順の列で退場して、教室まで連れていかれる。
教室の席の順は、男女別の列だった中学と違って、出席番号順のまま、男女混合だった。
教室がざわついていると思って、見まわしてみて、俺もまばたいてしまった。朝の校門での美人が教室にいる。
同じクラスか、と思いながら顔を正面に戻していると、中年の男の担任がのんびりと挨拶をして、「こんがらからないようになー」と言いながらプリント配布をした。
でもそんなに大量ではなくて、それは事前に教科書と一緒にタブレットも支給されていて、時間割や年間行事はそれで確認できるからだ。みんなすいすいと操作しているが、高校進学でやっとガラケーからスマホになった俺は使い方がよく分かっていない。
これ萠と練習しないとやばいな、とか思っていると、いつのまにか担任の話は終わって、本日は解散となっていた。
「なあ、中学どこだったの?」
さっそく漫画みたいなナンパが始まっていると思ったら、例の美人が男子生徒に囲まれていた。美人は臆することなく、にっこりと対応している。野郎には慣れている感じだ。
処女じゃないのかもしれんと思いながら席を立ったところで、「空羽」と声がして入口を見た。もちろんそこにいたのは萠で、手を掲げて声を返そうとしたときだった。
「萠!」
がたんっと席を立つ音が響いて、かえりみた。思わず目をしばたく。つくえに手をついて立ち上がり、瞳を輝かせているのは、例の美人だった。
はい? と思って萠を見ると、萠のほうは気まずそうに視線が合わないようにしている。
「ごめん、ちょっと退いてね」
「え、ちょっ──」
野郎共をかきわけ、俺の脇もすり抜け、美人はつくえを縫って萠に駆け寄った。
「赤坂萠って、やっぱり萠だったんだ。もしかしてって思ってた。ここに来たんだね」
一気に言われた萠は、仕方なさそうに美人を見た。
「……元気そうだね」
「うん! あ、萠、気づいた? 伊緒奈は──」
「ごめん、僕が会いにきたの、梨多じゃない」
「え」
「また今度ね。──空羽、帰ろう」
萠は俺に視線をやって、美人だけでなくなぜか教室に注目されながら、俺はうなずいてそこに歩み寄った。梨多と呼ばれていた美人のくるくるした瞳に俺が映る。
「誰? この人」
「友達だよ。真村空羽」
何というか、これはもしかしても何もなく、美人は萠の例の幼なじみなのだろうか。「ふうん」と俺を眺める美人に、どっちだろ、と無粋ながら思った。「本妻」の娘か。「愛人」の娘か。
「行こう」と歩き出した萠に、「おう」と俺は同伴の保護者も多少混ざっている廊下へと踏み出した。
「あの子は木島梨多。ご主人の愛人の娘だよ」
靴箱を抜け、俺も萠もスニーカーになって、校門をくぐる。入学式の文字の隣で、記念撮影している奴がけっこういる。それを横目に、俺が「訊いていいか」と前置きしてから美人のことを訊くと、萠はうなずいてそう言った。
「ってことは、萠と血がつながってる……ほうか?」
「うん。あと、首席代表で挨拶してたのが、本妻の娘だった」
「マジか。あの美少女」
「城森伊緒奈だよ。どっちも昔からかわいかったけど、ちゃんとそのまま成長してたね」
「ガチでどっちもレベル高すぎだった」
「はは。幼稚園は一緒で、よく三人で遊んだ。でも、萠ばっかモテるとかわけ分かんないこと言う奴がいたし、小学校はみんなばらばらで。とりあえず僕は、もうそのまま、梨多にも伊緒奈にも会ってなかった」
「そっか。てか、やっぱ、しんどそうだな」
「え」
「萠って、どっちかというと人当たり悪くないのにさ。あの梨多って子には、ちょっと無理してる感じで冷たかった」
「……うん。梨多は、踏みこんでくる子だから。あれくらいの態度じゃないと」
「そうか。ま、俺のクラスに来にくかったら、俺が四組行くし。四組だよな」
萠はうなずいて、「ありがとう」と微笑んだ。
あふれそうな桜の木から、淡紅の花びらがいくつもよぎっていく。
「このへんちょっと知りたいし寄り道してくか」と言うと、「そうだね」と萠は木島梨多と似た髪質の艶のある黒髪を春風に揺らした。
【第二話へ】