その夜、俺はかあさんとテレビを見ながら、夕食のラーメンを食べていた。俺は豚骨で、かあさんは塩だ。入学祝いだということで、チャーシューは俺のほうが多い。
「入学祝いが二枚多いチャーシューかよ」
そんな文句を言うと、「ないよりマシじゃない」とかあさんは俺が小学校のときから真似している茶髪をはらって、テレビのチャンネルをまわした。
俺の家に父親はいない。父親は浮気してばっかりで、かあさんに俺を生ませたことも後悔していた。
「お前はあいつを生んで、俺を縛りたいだけだろ」──かあさんの黒かった髪をつかんで、そんなことをわめいて、どすどすと足音を響かせて部屋を出ていった。俺がそろそろと部屋を出て、歩み寄って「ごめん」とか言ってしまうと、「何であんたが謝るの」とかあさんは泣き咲いをした。
何で、だろう。生まれてごめん? 守れなくてごめん? どちらもかもしれない。
そのまま、俺が小学校に上がった頃に両親は離婚して、もちろん俺のことはかあさんが引き取った。
それからかあさんは、もっと自分の思うように生きようと、質素な化粧も恐縮した低姿勢も捨てて、今の自由な雰囲気の女になった。そういうかあさんがやっぱり嬉しいから、俺も髪色を真似したりするのかもしれない。
そして、そういう父親だったから、俺はあんまり浮気とか不倫に理解がない。どちらかといえば、嫌悪がある。
去年の夏休みにあの話をしてくれてから、萠もよく「僕は両親に愛されてない」とつぶやく。『主人』の愛人である女、その女と偽装結婚した使用人の男。そんなふたりが、愛し合っているように見せかけるために作られただけだと。
母親の愛情は『主人』と娘に、父親の愛情は『主人』に愛されなかった本妻に向かっていて、萠には何もそそがれていない。
なのに何でかな、と憮然とした想いがよぎる。不倫で生まれた木島梨多が、なぜあんなに堂々としていたのだろう。愛人の子供として生まれたら、俺はあんな普通の顔はできない。
それから、俺の高校生活が始まった。
木島梨多は、事情を知らないのか気にならないのか、何にせよ野郎に人気だった。ちなみに、もうひとりの萠の幼なじみ、城森伊緒奈もお嬢様というか優等生というか、淑やかな雰囲気でこっそりモテていた。
萠に話しかけるとき、木島はちょっとずうずうしいかなと感じるが、城森は距離を分かっている感じだ。食堂で萠と昼食を取っていると、「萠」と鈴が凛と鳴るような声がして、俺たちは振り返った。そこには城森がいて、「久しぶり」と微笑んだものの、「お屋敷にもよければ今度来てね」と長話はせずに去っていった。
萠はその細くて儚げな背中を見送ってから、「きっと、伊緒奈のほうが僕に近いんだ」と言った。城森は政略結婚のあいだに生まれたのだから、確かに萠側かもしれない。
「梨多ちゃん、今度カラオケ一緒に行こう」とか何とかいう声が、ここまで聞こえる。「愛し合って生まれて、結局みんなに愛されてるのは、梨多だけだよ」と萠は小さく言った。
四月のあいだは、席は出席番号順だったが、五月に入って雨の多かった連休が明けると、一学期間の席へと席替えがあった。俺は窓際の後方の席になって、手元は快晴だと明るいのだが、黒板を見る視線上に木島がいて、何だかしっくり来なかった。
授業だけでなく、ぼんやりしていても、艶やかな黒髪が視界に入る。男に話しかけられているのも目につく。それに勝手にいらいらとしたりもやもやしたりして、その不愉快は日課になっていった。
うぜえ、とさすがにつくえに伏せってしまう。そんな中間考査の近づく放課後、「真村くん」とすがすがしい印象の声に呼ばれて、顔を上げた。
思わず口元が引き攣る。そこでにっこりしていたのは、この憂鬱の原因の木島梨多だった。
「な、何?」
「今日も萠と帰るの?」
「え、まあ」
「そっか。私、一度真村くんとお茶してみたいんだけどな」
「はっ?」
変な声が出てしまって、木島は首をかしげる。黒髪に窓からの陽光がすべる。
お茶したいって、それはその、何というか──
「真村くんって、小学校のときから萠と仲良かったんでしょ。私、ずっと萠に会えてなかったから、どうだったか聞けたらなって」
「……あ、ああ。萠な」
萠かよ。ビビる。屈託なく男にお茶したいとか言うな。深読みするだろうが。
「機会があれば、真村くんとゆっくり話したいな」
「え……と、普通に、萠にどうだったか訊けばいいのでは」
「萠はあんまりしゃべるほうじゃないから」
まあ確かに、とあの硬派な親友を想う。
「何で萠と真村くんが仲良くなったのかとか気になる」
「それは、林間学校の夜の部屋が一緒で、何かずっと話してたからだけどな」
「そうなんだっ。いいなあ、萠と林間学校かあ……」
噛みしめるように言う木島を眺めて、無論いきなり訊けなかったが、萠が好きなのかと言いたくなった。だとしても、悪いのだが、萠はあまり喜ばない気がする。
「今度、そういうの聞かせてくれる? 話してもいいことだけでいいから」
思わず「はあ」なんて言ってしまうと、木島は嬉しそうに咲って、「じゃあ、いつかお茶しようねっ」と身を返して教室を出ていった。妙に空気がちくちくすると思ったら、野郎連中の嫉妬の視線だった。
知るか。向こうが話しかけてきたんだぞ。
というか、木島、完全に萠に気があるじゃないか。
萠の整った横顔を浮かべて、実際モテてたよなあと中学時代を思い返す。卒業式に告る女子も何人かいた。全部断っていたけど。「よかったのか」と訊くと、萠は苦笑してうなずいていた。
その苦笑がぼんやりよみがえって、あの咲い方は意味深だった気がするとか思っていると、「空羽」と頭をぽんとたたかれた。はっと顔を上げると、今度は、その萠が俺の頭に手を置いていた。
「萠ってさ」
「うん?」
「好きな奴とかいないのか」
気候は初夏というより真夏日で、毎日かなり暑い。俺も萠も、ざわつく周りの生徒も、制服はもう夏服だ。
葉桜の陰が揺らめく並木道を帰りながら、そんなことを訊くと、萠は軽く噴き出した。
「入学して一ヶ月で?」
「え、あ──そうか。まあ、うん。いないか」
「どうだろうね」
「何だよ」
「空羽はできたの?」
「いや、いないけど。何か、萠は昔からモテてたし。高校でもモテるんだろうな」
「僕は自分から好きになった人じゃないと無理だよ」
「意外」
「空羽がこんな話題振ってくるのも意外だよ」
「何でだよ。高校生にもなればするだろうが。つか、周りはもっときわどい話してるぞ」
「まあね」と萠は笑って、緩やかな風に黒髪を揺らす。その髪質を見て、そうだ、とやっと気づいた。
よく考えたら、萠と木島は母親が同じで、血のつながりがあるではないか。それは、何というか、やっぱりダメだろう。木島を思い出して、分かってないとかはないよな、と首をかしげた。
それから、たまに木島が話しかけてくることがあった。愛人の娘なんか、俺は偏見しかないのだけど──偏見しかなかったはずなのだけど、木島の態度が自然だから、こっちまで何とも思わないような感覚が出てきた。普通にされるといらついていたはずが、それが当たり前になって、こちらまで平気になってくる。
愛人の娘、なんて思う俺もあんまり良くないのだろうか。そう感じるようになってきたから、萠が委員の会議で一緒に帰れなくなった日、「今日、茶できるぞ」と帰りのホームルーム前の教室で木島に言ってみた。
「ほんと!?」
木島はぱっと顔を上げて表情を輝かせて、俺はまた妙な空気を教室から感じ取った。そういえば木島はよく野郎に誘われているけど、乗っているかを俺は知らない。意外と、乗らずに流しているのだろうか。だから、こんな、何とも言えない嫉む視線が来るのだろうか。「ちょっとあきらめてたから嬉しい」と木島は笑顔を見せて、その笑顔は普通にかわいいかなと俺も思った。
放課後になると、木島のほうから俺の席に近づいてきた。「駅前のカフェでいい?」と訊かれて、「おごれないけどな」と返して俺は席を立つ。
何だか、すでにぐさぐさ視線が来るのだが。目立つもんなあと木島に横目をすると、濃くて長い睫毛が俺に向かってしばたく。教室を出て廊下を並んで歩くと、二度見する奴すらいる。
適当に今日の授業中の話なんかしつつ、やっぱこいつ男の誘い流してんなと思った。木島が男と並んでいるのがよくある光景なら、こんなに注目されない。しかし、木島は萠の話を聞きたがっているのだし、俺にそういう目を向けるなよと言いたい。
【第三話へ】